イメージとリアリティ

― リアリティの謎 ― 

イメージとは

イメージという言葉が使われる範囲はきわめて広い。というより、範囲を限定する方が難しいかも知れない。使われ方を少し考えてみよう。例えば、「その話は私のイメージに合わない」のように使われるが、これは、その話は私の考え方とは違う、という事を意味する一方、その話の内容は私の好み(趣味)が違う、ということにもなり得る。上の例からイメージは、考え方や好み(趣味)を表していて、思考から気持ち、感情に及んでいる。 また、「それは、イタリアのイメージだ」という場合、イメージは印象、観念を表している。

上の僅かな例ですら、イメージの意味するモノは極めて広がっていて、そうした全体をまとめて把握することを難しくしている。ここでは、イメージとは、像、つまり、形をもった現象として私たちに感覚的に見える(捉えられる)もの、言い換えれば感覚的に意識にあらわれるものとして議論を進めたい。 

とは言え、このように限定しても、従来からイメージの典型的な対象とされた絵画などの芸術作品はもちろん、写真や映像のような像はもとより、私たちの普通の生活で目に映る物体の知覚像、過去の記憶、夢なども含まれることに注意しておきたい。

本稿は、こうしたイメージを念頭におくけれど、焦点を当てることはイメージ自身でなく、”イメージともの”との関係を手掛かりに、イメージのリアリティについて考察したい。

普通、リアリティあるいはリアルさは、現実が示す生々しいあり様、言い換えれば、我々が実際に日常経験している世界を基準にした “現実性 ”、“実在性“を言う。その意味で、絵画や小説のような創作作品にリアリティはない。それ故、それらは、現実から離れた”虚構“と呼ばれる。だが、それは何処かオカシクないか。確かにどんな写実絵であっても、実在しない世界のものだが、絵画などの芸術作品に我々は、ハッとするような 何らかの“リアルさ“を覚えるからだ。

我々の経験はリアリティによって支えられ、それが日常を成り立たせているけれど、果たしてリアリティとは現実世界を基準にした実在性のみで捉えられるものだろうか。

2.5次元文化

最近の話題になっている一つに2.5次元文化と呼ばれるものがある。2.5次元と言う言葉の由来は、アニメや漫画の中の2次元キャラクタを、現実の3次元の舞台において、俳優が観客の前で演じる事にあるようだ。例えば、アイドルグループをテーマにしたアニメのキャラクタ役の声優たちが、紅白(NHK)の舞台等に出演したり、また多くの女性ファンに支持されている漫画をミュージカルにした舞台が評判を呼び、長期間公演されている。

漫画やアニメのキャラクタが話題になること自体は別に新しいことでない。漫画が週刊誌化されてから半世紀ほどになるが、その当時通勤途中のサラリーマンは新刊が発行されると、赤塚不二夫などの作家が描く個性あふれるキャラクタマンガを買い求め、むさぶるように読んでいたし、その一方で、ミッキーマウスなどのディズニー映画のキャラクタは独特のファンタジーの世界に欠かせない存在となっていた。

漫画やアニメは今や単なるブームを超えるほど盛況だが、現在、さらに2.5次元文化と呼ばれる新たな事態が起きてきた大きな背景に、IT・インターネットの急激な普及、とりわけ ”仮想現実感(Virtual Reality)” の影響があるようだ。

図1.バーチャルアイドル(ユーチューバー)

その意味で、最近バーチャル・ユーチューバーなどで話題になるバーチャル・アイドルの先駆けとして、ここでは2007年札幌のベンチャー企業が発売した音声合成ソフト、ボーカロイドのキャラクタ:初音ミクに触れておこう。音声合成といっても、初音ミクは歌詞とメロディーを与えると歌い上げるソフトで、著者がその歌声をはじめて聴いた時、コンピュータによる合成という先入観を疑うほど滑らかで、印象に残った。

実際、自作した曲を初音ミクに歌わせて動画サイトに投稿する人が一気に増え、気に入った歌に動画をつけて再投稿する創作の連鎖現象も起きた。当初ネットのなかの歌姫であったミクはしばらくするとネットから出るようになったが、武道館でのイベントで生バンドと共演し、歌声と共にCGによって透過型スクリーン投影されて踊る”彼女”は歌手が実際に歌っているとしか思えない臨場感で大きな話題をさらった。

その後、しばらく初音ミクの話題から遠ざかり、忘れかけていたが、偶然、初音ミクと結婚式を挙げ、友人を招き本格的披露宴を行ったという男性が現れたという“事件“を新聞で知った。ミクのぬいぐるみの指に結婚リングをはめ、簡単な会話を交わしているというその男性Kさんは、初音ミクは何よりも大切な存在と言いきっている。Kさんは変人なのか。どうもそうとは言えないらしい。ある企業がバーチャル・アイドルと婚姻するという企画をしたところ、わずかな期間に数千通の婚姻届けが集まったと言うからだ。これは、アイドルに対するファン心理に過ぎないのだろうか。

ニコニコ動画がネット文化の黎明期を牽引したことは良く知られているが、近年その利用者は急減していると言う。人気を集めているのは、ネットから現実社会に飛び出した文化祭のようなイベントらしい。こうした中で、リアルと仮想(非リアル)が混在する2.5次元の事業が注目され、市場規模を拡大していると言われる。

2.5次元文化の人気の秘密は、研究者によると、2.5次元の文化では、漫画やアニメの2次元キャラクタの挙動を現実の3次元の空間に再現された人間の演技を見て、聞くことで、多くの観客と同一の空間を共有することにより一層深い没入感を得て、(元々のアニメや漫画とは異なった)新たな体験がもたらされるのだと言われている。

元々の漫画やアニメの(2次元の)キャラクタに共感することとは昔からあったが、2.5次元文化の現象の本質とはどう違うのだろう。

リアリティとは何か 

リアリティは、元来、想像ではなく現に存在する、実在のあり様を表すとされる。特にものの実在については、古くから哲学で議論がなされてきたが、最近は、コンピュータによるネット世界を非実在全般と同一視して議論する傾向が生まれてきたようだ。しかし、それはコンピュータによる仮想的世界以外に、人間が普通に使う言葉に見られる非実在の世界があることを見落とした短絡的な見方ではないだろうか。むしろ、コンピュータによる仮想的世界と、人間の言葉にみられるような非実在的なものとを切り離してしまうのではなく、相互の繫がりの中に今後の人工知能などIT技術の重要なヒントがあるのではないか。

以下では、実在するとふつう思われているモノと非実在のイメージを取り上げ、それらの”リアリティ”を考察する。

序章で触れたように、イメージは我々の経験のほとんど全てに関わりを持っているが、日常生活において、イメージを正面から意識する機会すくない。結果、日常的にイメージの作用としてのリアリティを感じることは余りない。何故こうなるのか。

図2.親から学ぶ赤ちゃん

この事態には、日常生活におけるイメージの特殊な在り方が関係していそうだ。

まず、今日イメージはより強力な存在であることばの影響から逃れられない、と言う事が挙げられる。

つまり、イメージは生まれながらにして言葉と切り離せない関係にある。それは、生まれ落ちた人間が言葉を覚えていく時のことを考えれば良い。例えば、イヌという言葉を覚える時、「あれがイヌよ」とやることから始まる。即ち、私たちは生まれたときから、イメージを言葉に結び付けている訳だが、つまるところ、イメージはことばに置き換えるよう教えられるのである。

人はこのやり方を様々なものに適用し、何度も繰り返すことによって、言葉(母国語)を獲得する。

この過程で、様々なイメージは各々の名前(言葉)に換えられ、イメージにたよっていたことはすっかり忘れ、より安定したことばだけで様々なことに対処するようになる。こうして、日常生活において、直接的なイメージの力、リアリティの経験は遠ざけられる。

更に、ことばはイメージよりものと結びついて威力を発揮してきた。つまり、ことばが指示する先にはモノがある(存在する)という強い信念がある。端的に言うと、言葉が指示するのはイメージでなくモノである、ということだ。

この信念は、科学のみならず、広く常識の中に浸され、容易に崩れることはない。

図3.イヌは友達

素朴実在論はこの常識と整合性を保ち、すっかり安定しているように見えるが、果たして、モノは確実に存在していると言えるのだろうか。モノの存在は、古来議論されてきたが、ここでは、存在すると思われているモノそれ自体ではなく、私たちが見たり、触れて経験できる、感覚的に捉えられる範囲の存在を対象として考察する。

我々が経験できる”形を持った現象 ”はイメージだが、それは、普通信じられているようなモノの実在(リアリティ)とは異なるリアリティ(実在性)をもつと考えられる。

例えば、暗い夜道でとぐろをまいて横たわるモノに出会った時、瞬間的にヘビだと身構えたが、翌日明るい中で見ると、それはゴム紐だったと言う経験は良く聞く。これは普通、ゴム紐をヘビと取り違えた錯覚、つまり、ヘビは誤りで、正しいのはゴム紐だ、と言われる。しかし、この常識的な結論は事後的な思考から導かれたもので、夫々の経験の現場では、ヘビであり、またゴム紐であることはどちらもまぎれもなくリアルなものだった。

上のヘビは間違いで正しいのは紐だという結論は事後的に、それも全く異なった状況で起きた出来事を比較することで導かれていて、比較しない時、どちらが正しいと言えると思うことが錯誤ではないか。

議論をまとめると、たとえ間違いであったこと後で分かったとしても、私たちはモノを見、触れるその場面では、対象そのものを見、触れていると考える。つまり、

それぞれの経験の現場で現象に直観的に感じたものこそ、リアルな姿(リアリティ)をあらわしていると考えられる。イメージのリアリティ(実在性)とはこういうものだろう。

まとめ:イメージのリアリティ

私たちはふつうリアリティを“実在性”、即ち現実に存在している(思っている)事物を絶対的な基準にして測る。

この基準に立てば、創作活動によるアート作品等はすべて虚構だから、そうした世界にはなんの実在性をもたない。

このリアリティを巡る謎は、リアリティ(実在性)の基準を相対化することを迫っているように思われる。

モノが確実に存在するという信念を、私たちは常識と思っている。この信念は自然科学を支え発展させてきたとは言え、私たち自らが経験できることに基礎を置いて考えようとするなら、私たちがふつう経験しているのは、モノ自体ではなく、イメージ(形をもった現象)であることに目を向ける必要がある。

イメージは、モノの概念とは異なり、前節述べた例のように、状況によって異なるリアルさを示す。それは古くから受け入れられている現実性、実在性とは異なるリアルさを捉えている。

このリアルさは私たちの直観が捉える感性から生じるもので、どんなリアリティも感性なしに生まれることはない。

なお、前節のべた、暗い夜道で見たゴム紐と明るい日差しの下で見るヘビは、対象が全く異なる状況に置かれたイメージの例であったが、それは芸術作品の世界(虚構)を現実世界と比較して、芸術作品の世界を虚構と見做す議論にも通底する面がある。結果、芸術作品と現実世界(の現象)は、イメージを媒介にして、相対的に異なったそれぞれのリアリティを現すと考えられる。ただし、創作されたものは、何であってもリアリティがあると言うのでは勿論ない。創作された作品が独特のリアリティを示すには、作品イメージの要素(*補足)の間に適切な関係が求められるのは当然である。

上のリアリティをどう捉えるかは、人工現実感(VR)を初めとする21世紀のIT技術の課題であるのみならず、今後のIT技術と人との関係(付き合い方)のカギを握っているのではないだろうか。

本稿における、イメージのリアリティの捉え方の基本はカントの感性論にある。カントの感性は、ふつうの感覚以前の非常に抽象的で捉えにくいものだが、21世紀のIT時代の感性の基礎になるかも知れない。

IT技術をカントの感性によって捉える詳しい議論は今後の課題としたい。

長島 知正  2021ー05-15

(*)補足:

最後に、イメージの要素について、少しだけ補足しておこう。

イメージは観念ではなく、経験可能なものである。概念の典型は数学、例えば、幾何学の点や線に見られる。しかし、幾何学における基本的要素として点や線は決して観測できるものではない。我々は点や線を小さな丸や細い線分として表示する習慣があるが、それらは数学的な点や線を便宜的に目に見える形に表した点や線分のイメージである。つまり、我々はそうした対象を感覚的にイメージとして表現しているのだ。

イメージ (2)

ー カントにおける想像力とイメージ ー

1.序:カントの想像力とイメージ

想像力は像(イメージ)をこころに思い描くことと捉えられることが多い。前回、このような一般的な立場から想像力やイメージを捉え、例えば、イメージの動性がどのようにして生まれるかなどについて検討した。

本稿では、カントは想像力についてどう考えていたのか、イメージに対する見方と合わせ考察する。

純粋理性批判は有名であっても、そこで何が問題になっているのか、例えばアプリオリな総合判断とか理性の誤謬といった用語を聞いても中身はほとんど分からないのが普通だろう。何か縁があった人でも、大抵はホコリにまみれて本棚の奥で寝ているのではないか。近寄りがたさの原因は、複雑な論理構成があるにしても、むしろカント固有の緻密な概念群を表現する用語にあるように感じているのは筆者だけではなさそうだ。簡単に言えば、固有の意味を担った数多くの言葉(造語)を理解することが大変で、根気がいる。挫折する大きな理由はそこにあり、その点で数学と似ていると言えるかも知れない。

ところで、イメージやそこに関わる想像力の問題は、認識や思考にまたがる広い領域に及ぶと思われるが、カントに限らず理論的な整備が進んでいるようには見えない。

実際、カントの理論(認識論)が応用されたという議論はほとんど知られていないのではないか。カントの用語の壁は厚いこともあり、一筋縄にはいかなそうだが、応用への道がないとはだれも示したわけではない。

カントの“もの自体”は、経験する主体と独立に、それ自身として個油のあり様をしめしていると考えられる。それを不可知なものとするカントは、知り得ない“もの自体”と区別された、人間にとって感覚出来る“現象”が認識、経験の対象になるとした。

ところで、カントは“イメージ”と言う言葉自体は使っていない。ここでは試みとして、“現象”に注目し、形をもった現象をイメージと見做し、その上でカントの想像力、つまり構想力を考えていく。そうすることによって、先ずはカントの認識論の広がり、特に広範なアートなどの分野への広がりを検討したいからである。

イメージ=形をもった現象と見做すということは、言い換えれば、現象に形(形式)が与えられたものをイメージと考えることを意味する。

図1.アートの構想

2.悟性

ところで、カントは純粋理性批において、人間の認識能力の要素として、感性、悟性、理性に着目している。(感性、悟性、理性と言う言葉は今日日常的に使われているけれど、その意味は、カントが意図した意味とは同じでないことに留意したい。)

このうち、本稿が主として関わるのは、感性と悟性である。既に説明したように、感性とは対象によって触発され、感覚的な直観として生じる多様な表象を受動的に受け入れる能力である。

悟性については、純粋理性批判でカントはいろいろな言い方をしていて、統一されていないが、緒言の中で、広い視点から次のように述べている;

「人間の認識には二つの根幹がある。恐らくこれらの根幹は、(中略)唯一の 根から生じたものであろう。この根幹というのは、即ち感性と悟性である。そして、感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。」

これは、人間の認識に関する感性と悟性の基本的関係を簡潔に規定しているのだが、悟性自体については、明らかに物足りない。より踏み込んだ説明が必要である。簡単に言えば、受動的な感性に対し、カントが考える能動性の能力としての悟性は、

感性が受け入れた多様な直観(印象)を総合して(まとめて)、対象についての判断をもたらす自発的能力と言えよう。言い換えると、

悟性は、感性が受け入れる質料(素材)に、形(形式)を与え、(対象について)規則づける能力、つまり、概念の能力である。

緒言での説明に似ているが、悟性についてカント自身の言葉を引いておこう。

「認識には、二つの要素が必要なのである。第一は(純粋悟性)概念(カテゴリー)であり、これによって一般に対象が思惟される。第二は直観であり、これによって、対象が与えられる。

もし概念に、これに対応する直観が与えられえないとしたら、その概念は、形式から言えば一個の思考形式であるが、対象を持たないのだから、そうした概念によってはおよそものの認識は不可能であろう。このような場合には、私の思考が適用され得る何ものもー私に知られるものとしてはー全く存在しないし、また存在しえないからである。」

上の“純粋悟性概念”という語は、

カントが、悟性の基本的特徴として、純粋悟性概念と言うアプリオリな形式の枠組みを要請したものである。つまり、(悟性の)判断には決められた形式としてカテゴリーがあり、判断はその中で行われるのである。このカテゴリーを与えるのが純粋悟性概念である。純粋悟性概念は純粋概念であって、数学においてその典型例が見られるような、経験には関わらない概念であり、経験的概念と区別される。

図2.想像力

  カントは判断表から、4つのカテゴリー(分量、性質、関係、様態)のそれぞれが3つの分枝を持つ計12個のカテゴリーを導き、悟性による判断の枠組みとして純粋悟性概念を与えた。またそれが、アプリオリな概念、つまり、経験に先立つ概念であることを示している。しかし、その内容の詳細にはここでは立ち入らないで、むしろ、感性によって与えられる直観的印象と悟性の思惟という全く異なった能力が何故繋がるか、という問題に注目しよう。

ここでカントが考えるのが、感性と悟性を媒介する能力としての“構想力”である。

3. 構想力と図式

もう一度繰り返しておこう:

悟性は、感性で与えられる多様な印象を結合し、形をもったモノにまとめる(総合する)という働きをする。ここで、与えられた多様を、結合し、一定の形をもったもの(姿)にまとめる(総合する)という働きは構想力によるものと考えられる。その働きは、感性と悟性双方にまたがることによって両者を媒介するのである。

ところで、想像力は一般にそこにないものを心に描く能力を言い、例えば「それは全く想像力に欠ける話だ」といったように使われる。カントの構想力は、広い意味の想像力であっても、一般的な想像力や連想とは区別され、特に“産出的な”構想力(Productive Einbildung Kraft)と呼ばれる。“産出的構想力”については後で詳しく述べるが、カントはそれと連想を特徴づける“再生的構想力”と対比して違いを強調している。

カントの構想力(産出的構想力)が一般の想像力と区別される大きな特徴は、構想力が“図式(Schema)”と呼ばれるアプリオリな形式によって支えられているからと言えるだろう。どういうことか。以下、カントの産出的構想力と図式の関係に焦点を絞って考えよう。その結果、カントが“産出的”と呼ぶ意味が明らかになるだろう。

まず、構想力や図式について、カントの言葉を聞こう:

「ある対象を一つの概念のもとに包摂する場合には、その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない。換言すれば、その概念は、その概念のもとに包摂せられる対象において表象されるところのものを、自らのうちに含んでいなければならない。(中略1)ところで、純粋悟性概念と経験的(つまりは感性的な)直観を比較してみると、両者は異種的で、純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出し得ない。ならば、直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能か、従ってまたカテゴリーを現象に適応することはどうして可能だろうか。(中略2)すると、一方でカテゴリーと、また他方では現象とそれぞれ同種的であって、しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならないことは明らかである。このような媒介的な役目をする表象は、(経験的なものを一切含まない)純粋な表象であって、しかも一方では知性的で、また他方では感性的なものでなければならない。このような表象が超越論的(transzendentales Schema)なのである。」

上の文では、構想力がなぜ問題になるのか、カント自身の問題意識や基本的な考え方(哲学的な立場)が踏み込んで述べられている

以下、それを少し読み解くことにしよう。まず、前半でカントが考える問題点が指摘される。つまり、悟性の基礎にある純粋悟性概念は経験と無関係なものであるのに対して、感性による経験的直観は必ず感覚を介して経験される。だから、両者は全く別のものである。にも拘らず、私たちは、現象を直観して、それが何であるかを判断し、認識するという経験をしている。と言うことは、こういった両者に関して、後者=経験的直観を前者=純粋悟性概念に包摂する、つまり直観を概念の中に包み込むこと、また逆に、カテゴリー(=純粋悟性概念)を与えられた現象(=感覚的に直観されたこと)に適用しているが、これらをどう考えれば良いのか? 以上が前半部分である。

更に問題を明確に指摘しているのが、後半である。つまり、カテゴリーを現象へ適用するためには、一方でカテゴリーと、他方では現象と同じ種類になる必要があるが、そのためには両者を媒介する第三のモノが必要であろう。

それを(構想力として)可能にするのが“超越論的図式”である。

この説明にある、図式とは何なのか? 図式はSchemaの訳語であり、図式には、図取り、つまり物の形を図として描くこと、あるいは、基本的な見取り図と言う意味がある。しかしここでは、図式の日本語の意味にはないが、その原語Schemaがもつ意味、即ち、計画(する)あるいは、あまり良い意味には使われないが、たくらみ(たくらむ)という意味がより近いと思われる。何故なら、その場合、“超越論的“な図式とは、構想力を可能にしている無意識のうちで支える計画、言い換えれば、構想力を可能にしている意識下ではたらく構えという解釈に素直に導くことになるからである。なお、ここで超越論的とは、簡単には、経験より前に(アプリオリに)、いわば本能的に決まっているという意味と考えられる。

ついでながら、図式ということばを一般に広めた、メルロポンティの身体図式の図式も、その意味を計画として、無意識のうちの身体計画と解釈すれば、メルロポンティとカントの繫がりをより鮮明にするのに役立つかも知れない。ここには、広い意味で感性の問題と思われている、合気道など身体性に関わる面白い問題があるように思われる。

ここで、カントが構想力とした生成的構成力とは何かということも取り上げておこう。上で見たように、図式に従って構成力を働かせる時、(1)現象には、素材に形が与えられる、あるいは、(2)概念に直観が与えられる。つまり、構成力が働くとき、そこには、形をもった現象(=イメージ)が無意識のうちに生成されている。このことは、カントが“生成的“構想力と呼ぶことと呼応している。また、このようなアプリオリで非経験的な構想力と、経験的な構想力との違いは明らかだろう。

悟性による判断の特徴は、閉じていた目を開けた時、目を開けた途端直ちに外部にある対象の姿が現れ、それが何であるかを直ちに知ることができるというところに見られる。つまり、アプリオリな純粋悟性概念がアプリオリに(=経験に先立って)働いているという性質にある。

4.まとめ

カントの悟性を知性と解釈することがある。その意味での知性かどうかは不明だが、一般に、知性は感性とは全く別の、互いにつながりのない存在と見做されているよう思われる。

こうした見方は一種の常識のようだが、本稿での議論から明らかなように、カントの感性と悟性は、互いに連携して初めて物事の認識が可能にしている。逆に言えば、感性も悟性も単独では何の機能も持ち得ないということである。

また、カントの哲学はしばしば“意識の哲学”と呼ばれる。これは、デカルトの言明「我考える、故に我あり」によって、意識が哲学の主要なターゲットとして浮かび上がった歴史的経緯において、カントがその延長上に位置づけられていることを意味している。ところが、カントの認識論の基本には、決して意識にのぼる事柄のみで成立するものではなく、むしろ意識下にあって、意識されずに働いてしまう思惟の働きの中にこそ、人間の認識の枠が決まっているという思想がある。

その意味で超越論的図式論は重要で、カントが想像力として考えた構想力=産出的想像力は、構想力のアプリオリな枠組みを与える超越論的図式によって意味が定まる。

本稿を終える前に、前回までに議論された、創造性に関する問題に触れておこう。

問題の一つは、貧しい感性と見る立場から、カントの感性に創造性があるか、否かという事であった。筆者の考えでは、貧しい感性が創造性を持つという主張は、本稿で立ち入って議論したように、感性と言う言葉の使い方に問題があり、厳密言うと「貧しい感性に創造性はない」と言わざるを得ない。むしろ、問題は感性でなく、むしろ創造性は構想力の領域に関係を持ち、その中で検討すべき課題ではなかろうか。

カントは美的感受性やまた天才について、純粋理性批判とは別のところで論じているが、創造性をストレートに取り上げてはいないようだ。ストレートに言ってはいないが、本稿の図式論における“現象に形を与える“といった見方などは、創造性に必須な要件だろう。

なお、本稿の冒頭などで、カントの認識論のアートへの応用などと言ったことに、読者の中には真意を測りかね、筆者が全く誤解しているのではないかと感じている人もいるかも知れない。その問題については、本稿は必要な議論を全く欠いている。それらに関しては、いずれ本稿の展開を試みたい。

長島 知正   2020-09-28

付記:本稿で引いたカントの純粋理性批判は岩波文庫(篠田英雄訳)である。ただし、”先験的”を”超越論的”に変えるなど、今日標準と見做されている文言の修正を加えた。

イメージ

― 想像力 と イメージ ―

(1)生活の中の想像力

想像力ときくと、例えば芸術家と呼ばれる特別な力を持つ人たちが、この世にないようなことを思い描く能力と思っていないだろうか。

しかし、想像力をそのようなものに限定して考えるのは間違いだろう。むしろ、想像力は日常生活を送る上でも、欠かせない役を果たしているからである。例えば、仕事の都合で、駅などで待ち合わせしていて、予定の時刻を過ぎても相手が現れない場合も、スマホで確かめれば済むかも知れない。だが、電話しても相手がでなければ、予定時候や場所を間違えたか、相手方に急に何かが起きて来られなくなったのか等、あれこれ想像することになる。また、打ち合わせをどうするか、その場で想像力を働かせて適切な対応を決めるだろう。仕事上想像力を必要とすることは、他にいくらも挙げられる、と言うより、ビジネスの世界で想像力は欠かせないと言えるのではないか。

ここでは、仕事と言えないという意味では不要不急であるが、不可欠な想像力について一つの例を紹介したい。

今から20年ほど前にJRの駅で、視覚障碍者がプラットホームから転落するという事故が起きた。そこに居合わせた韓国人留学生が、電車が接近中にも拘わらず、助けようとしてホームから飛び降りて死亡する、という痛ましい出来事があった。以下の話は、最近新聞に報道された後日談である。

主役は亡くなった韓国人の母親Aさんである。新聞報道によると、事故までのAさんは日本に行った事もなく、歴史認識などでも反日感情を持つありふれた韓国人だった。そんな中で、留学中の息子の突然の死。当時、日本国内は当然のように、Aさんの息子の利他的行為を称賛する声にあふれていた。といっても、周囲の反日感情の中、Aさんが息子の死を受け入れ、飲み込めるようになるのは、一筋縄ではなかったに違いない。

事故後、Aさんは寄せられた見舞金を元にアジアから日本で学ぶ留学生むけ奨学会を作ったり、毎年命日に来日するなど日本人と交流を続けてきた。

ところで、事故から時間が経った現在、Aさんは日韓両国間の政治的問題についても、事故後に会った多くの日本人との触れ合いによって、様々な偏見に捕らわれずに、物事を是々非々で捉えられるようになった自分がいると言う。

また、今年も命日に事故現場に会いに来てくれた日本の年配の婦人達からの人間的な手紙のことばが、とてもありがたいと感謝している。

Aさんをこのように前向きで理知的な気持ちにさせているのは、触れ合いによって、自分と同じ痛みを日本人も感じているという想い(共感)だったのだろうか。

(2)想像力とは

といっても、想像力が目立った働きをするのは、日常生活の外でのことが多い。

科学技術の基本である正しい認識をするという立場からは、暗い夜道で迷ってしまった時、道に落ちている縄を蛇と思い込むように、想像力は誤った知覚をもたらす要因と見做される。

しかし想像力は、精神的に平静な状況では、科学技術分野においても、正しい推論を補う役を果たしている。

言うまでもなく、推論は極めて強力であるけれど、万能とは言えない。つまり、前提に弱みがある。前提が正しければ、演繹的推論によって正しい結論が導かれることは良く知られている。ここで、前提のために仮説を立てる必要がおきる。この仮説をつくるという作業は、基本的に想像するということに依っている。

一方、正しい知識を獲得することとは対照的と見做される芸術・アートの分野では、更に想像力は本質的な地位を占めている。多くの人が、絵画、音楽、詩いずれの分野でも想像力が本質的に働いていると認めるのは、いずれの分野にしても虚構の世界を作り出すためには、想像力が欠かせないと考えるからだろう。

図1.アーティスト

普通、想像力といえば、“像(イメージ)をかたち作る能力”と考えられている。ここで問題になるのは、像(イメージ)を作る、ということをどのように捉えるかである。

以下では、中村雄二郎「感性の覚醒」の議論をもとに、筆者の解釈を補いながら検討していく。

先ず考えられるのは、実在する人やものの写し(コピー)としてのイメージである。

今までに見たり会った経験のある人やもの、例えば、旧知の友達から久しぶりの便りを受けとった時に思い浮かべるイメージである。

こうした実在するものから写しとられたイメージは、外部にあるモノの知覚表象(像)のように、意識によってそこにあるものとして、対象化して眺められる。

このような固定されたモノとしてのイメージを批判したのはサルトルである。

その要点は、イメージは本来、(過去を想起する場合の、)実体化されたモノの像が写しとられるようなものではなく、記憶や知識等何らかの部分的な手がかりをきっかけとして、意識の働きによって現前させられるという事にある。つまり、本来のイメージは、意識を自由に働かせて創りだす、想像的な働きによるもので、そうだからこそ、イメージは生き生きと、動性をもつ訳だ。

この観点からは、モノの写しとして作られるイメージには可能性の世界を拓くことと繋がりがない、と言えよう。

従来から想像力は様々な側面から感心を持たれているが、とりわけ、多くの人の関心を集めるのは、創造性との関係と思われる。しかし、創造性の謎に迫るためには、想像力の本質について把握できなければならないのは、当然だろう。

その意味で注目される問題は、通常は両極に分離して存在している科学とアート・芸術分野において、双方の想像力はどのように繋がっているかである。つまり、一方で対象の正しい認識を補い、他方では可能性の世界を拓くような想像力の間の関係である。

以下では、主に可能性の世界を開くという視点から想像力を議論しよう。

(3)想像力とイメージの動性(ダイナミズム)

先にも触れたことだが、一般に想像力は、像(イメージ)を作る力と理解されることが多い。文字通り、想像力とは像のカタチを心に抱く能力である。

中村によれば、こうした見方は自然だが、二つの問題がある。最初の問題は、像をものコピーと捉えた場合に見られるように、像(イメージ)を固定したものとして捉えやすい事である。この見方と問題点について前節は既に議論した。

二番目の問題は、イメージは単に意識の作用に還元されものではない、ということ。つまり、イメージは想像力により無から作りだされるものではない、ということである。

この問題を考えるため、先ず、想像と知覚の関係を整理しておこう。

両者には、以下の基本的な違いがある。まず、感覚・知覚の作用は部分的なものを積み上げるが、想像では全体を一挙に把握する。

また、先に述べたように、知覚と異なり、想像作用によってイメージを作る場合、直接的対象は必要ない。

従って、想像的イメージを知覚表象と混同することもあり得るが、その一方で、対象からの制約を受けないため、自由に働くことが出来る。

これは、固定化したイメージは日常生活の中で知らないうちに惰性化するという性格と対照的に、想像的イメージは一般に生き生きし、また動性を持つという性格の元にある性質であろう。

中村は、想像的イメージが有するイメージを動的する要因は何処にあるか、という問題に対して、主たる要因は、意識を刺激する“イメージの物質性”にあり、また、想像力は単にイメージをつくるという事以上に、イメージを変形(デフォルメ、deform)する能力に本質があるとした。

以下、この議論の中核にある”イメージの物質性”とは、どういうことかについて検討しよう。

既に述べたことであるが、普通イメージは像を形づくる能力と考えられている。つまり、イメージは形や輪郭のことと考えがちだが、イメージには形(形式)のみならず、質(物質的な質)が伴っていると思われる。このイメージの質は“イメージの物質性”と呼ばれるが、それを中村は、イメージがもちうる“モノとしての厚み”、あるいは、“モノとしての多義性”のことであるとした。

しかしながら、中村の説明に使われる、“モノの厚み“とか”モノの多義性“などの言葉は普通の理系にはない言葉である。

そこで、ここでは、”モノの多義性”、正確には“モノとしての多義性”とはどういうことか、具体的に考える事にしよう。そのための手がかりに、”だまし絵“として知られる多義図形に注目する。

多義図形は地と図をなす互いの反転図形を巧みに組み合わせて作られる。はっきり一時に見えるのは図または地どちらか一種類の図柄だが、角度を少し変えると反転した図柄が浮きだって見える。ルビンの壺(図2)では、顔と壺がそれぞれ地と図になる。このように別々のモノ(像)が同一の場所(の一部)に現われる仕組みを、イメージにおける質、即ち”モノとしての多義性“の意味と考えれば良いのではないか。

エッシャーはさらにリアルな想像的なイメージの例を与えている。ここでは、著作権の都合でその絵を掲載できないが、

図2.ルビンの壺

彼は、それぞれ図と地として空中の鶴と水中の魚が隊列を組み、移動していく様を一つのイメージにまとめている。

もちろん、“モノとしての多義性”の本質が図形で与えられると言っている訳ではない。例えば、水という同じモノであっても、雨の水と川の水には相当違ったイメージがある。そうした水が持つ異なったイメージを、モノとしての多義性と呼んで良いだろう。それらのイメージは人によって違うかも知れないが、それは構わないのである。

“モノとしての厚み“も同様に、何らかの多義性を内包した概念と考えられる。

だまし絵の中に、モノとしての多義性を解剖してみせたのはエッシャーの才能だが、普通の人も、類似したことは日常的に経験している。

普段は日常の暮らしの中で、ごく表面的に見ている天井が舞台になる。普通、天井板の木目模様がどんな配置になっているかなど気に留めていないが、著者はある時、ふっと天井をみると、幾枚かの天井板の木目の模様が繋がり、竜のような予期せぬ図柄が天井に浮き上がってくるといった経験をしたことがある。

この場合、何か偶然的なことをきっかけに、天井のつまらない型どおりの規則的模様(知覚像)から、普段は潜在していて気づかない、生き生きとした竜の模様(イメージ)がたち上がったのである。

似た例として、星座がある。星座のイメージの基本は、一つの星と別の星を結ぶ線の選択によるが、その選択に想像力が働く。星座は想像的イメージの典型のように思えるが、星を線で結ぶ操作が、“イメージの質”に抵触しないかという疑問が残る。その詳細は今後の課題にしたい。

ルビンの壺やエッシャーのだまし絵では、顔と壺あるいは魚と鶴のイメージ間の関係に着目しているが、天井の場合は、規則的な模様が並んだ天井(モノ)と想像的イメージ(竜の模様)の関係という点が違う。と言っても、規則的な天板として見えているモノは認識論的には知覚表象である。

以上でとり上げた例はいずれの場合も、イメージに含まれる質(物質性)、つまり、物質として多義性によって、元の像(イメージ)が変形し、別のイメージが立ち上がったとみることが出来る。これは、想像力の積極的な意味は、単に像を作るというより既存イメージを変形(デフォルメ)する能力にあるという、中村らの主張を支持している。

(4)まとめ:

本稿のこれまで議論を集約すれば、以下のようにまとめられよう:

(1)本稿では主に、イメージの物質性が既成のイメージの形を解体する能力を持つという点を考察した。これは、意識の働きからみて、「固定したイメージ(表象)が(反省的な意識によって)一層形式化する時、概念に近づく」ことに繋ぎ合わせれば、次のようにまとめられる:

イメージは物質性を失い形式化する時、概念に近づく。反対に、イメージの物質性によって、意識は活性化して、イメージを躍動的なものにする。

イメージの動性はこうして現れる。

(2)イメージの動性は、イメージの物質性によってもたらされるが、それは想像力に、既成のイメージの形や形式を解体し、動的に組み替える能力を持たせることになる。

(3)中村は、この想像力の性質(2)が創造的な働きを導くとした。言い換えれば、中村による創造性で重要な点は、イメージを組み替え、新しいイメージをもたらすとしたことである。つまり、創造性は全く何もないところから始まるのではないとしている点にポイントがある。

(4)これは、前回の佐々木による“貧しい感性の創造性”の議論における創造性とは明らかに異なっている。佐々木の創造性では、一切の既成の概念、価値などを否定しているからである。

創造性についての両者の議論には、既成のモノを拒否するという共通点が見いだせるが、主張の諾否に関しては、留保しておきたい。未だ、両者には議論しなければならない事が残っていると思うからだ。

そうした問題の一つに、カントの感性や構想力が本稿や前回の議論にどのような関係にあるのか、という課題がある。次回以降、それらの検討を予定したい。

長島知正   2020-07-09

カントの感性とその特徴(3)

ー 感性に創造性はあるか ―

 

1.はじめに

どれほどの影響を与えたかは別として、感性がここ20年ほどの間注目されてきたとは言えそうである。こうした一つの動きは美学に、またそれとは別に工学分野で見られた。それら二つの動きはほぼ独立なまま、残念ながら互いに影響をおよぼすことなく今日に至っている。

美学で感性が注目されるのは、「美学は感性学として始まった」という歴史的な経緯からみれば、特に不思議なことではない。

他方、工学で、何故感性が注目されたのか。その動機は、技術的差別化が難しくなったモノづくりにおいて、従来と質的に異なった新しい観点が望まれていたからであった。工学と言う自然科学を基盤に持つ体系に、感性と言う全く異質の体系を結びつけるという破天荒な“感性工学”のアイディアには、ものが売れないという市場経済的限界を打ち破る技術的革新、即ち、簡単にまねできないような技術への期待があった。ここで注目されるのは、感性と工学を結びつけることによって、従来にない独創的な技術を生み出せるのではないかとう期待の背後にある、感性は創造性に結びつくという想定である。

何故、こう想定されるのだろう。

創造性のある芸術家は情熱家が多いからだろうか。あるいは自然科学を支える、推論によって進められる理性的思考とことなり、感性は直観の働きとされるからだろうか。

しかし、そうした思いは以前から断片的に語られるが、少し考えると、感性と創造性の結びつきは決して自明なことではない。もし、感性が必然的に創造性と結びつくものなら、その結びつきは具体的に示されるハズだが、感性に創造性があるということは未だ明確にされていない。むしろ、その問題に答えること自体難しい状況にあると言わなければない。つまり、感性には、定義のレベルで人々の間で合意がないからである。

これを憂うべき状態だということは簡単だが、わが国の近代化の歴史に埋め込まれたひずみに起因しており、感性など関心のない人にも、他人事と言えない事態に繋がっている。

つまり、感性に留まらず、例えば、社会、文化、民主主義のような最も基本的な概念の多くを明治期に導入された翻訳語に依存しているわが国では、対応する用語は多かれ少なかれ矛盾や混乱の種を孕んでいるからだ。

このような状態で関係した諸概念を理解することには限界があり、仮に異論があっても、ちぐはぐなまま互いの理解は当然深まらない。これは文系・理系の区別をこえ、社会的および文化的基礎体力の脆弱さに直結する大問題なのである。例えば、日本人の意識調査で多数を占めるのは、決まって”どちらともいえない”という解答になる不思議な現象は、そこに繋がっている可能性もある。

脱線した話を本題に戻そう。

カントは純粋理性批判の中で、感性、悟性、理性という概念を設定し、人間の経験に基づく認識論を構築して、コペルニクス的転回をもたらした。カントは自らの複雑な議論を曖昧さが生まれないよう、独自の用語を駆使して注意深く進めた点で際立っている。

その意味で、感性に関する議論の今日的出発点としてカントはむしろふさわしいと思われる。

2.カントの感性の特徴:貧しい感性

前回とりあげたように、カントは「”直観の多様”が感性の直観形式や悟性概念の働きによって、経験の対象が造成される。」という認識の枠組みを与えた。言い換えると、カントにおいて、(感覚的)知覚現象は、センスデータを受容する感性と、概念を適用する悟性が構想力を介して共同作業するものとして説明される。ここで、センスデータはカントの用語ではないが、カントが”直観の多様”と呼ぶ、感性によって受容されたままの一切の心理的加工処理が加えられていない無垢のデータ(情報)である。この知覚の構図において、“仮に”感性だけを抜き出す場合、視覚を例にすればそれは単なる色班であって、未だ意識されることの無い、経験以前のものである。なお、通常の生活では、それに引き続く悟性の働きによって知覚され、経験となる。

図1.感動の映画

ところで、上で説明したような感性は果たして創造性を持てるのだろうか。常識的な見方では、そこに創造性はなさそうに思える。だが、「日本的感性」(中公新書)の著者佐々木健一は”ある”と言う[1}。佐々木はカントの認識論に基づいて感性と創造性の関係を議論する。その論旨を追うことにしよう。

 

カントの認識論で感性が何故創造性と結びつくのか。

この議論の発端は、「感性は、悟性の働きによる一切の“概念”との結びつきを持たない」と言うカントの認識の構図に求められよう。しかし、問題はその先の議論がどうなっているかだ。以下かいつまんでまとめてみよう。

感性とは、「おしん」の物語に涙するような“感じやすさ”のことと思っている日本人は多そうである。だが、そうした感じやすさは、日本だけのものではない。西欧では、不幸な人を見て同情するルソーが描く感受性が知られ、それは、道徳的規範として西欧社会の基礎に影響を与えた。

一方、佐々木によれば、感性とは、「あらゆる悟性の働きかけを絶つことである」という。社会の常識や伝統的な価値は結局のところ悟性の働きによるから、それは、「感性とはあらゆる社会的常識や伝統的な価値を絶つこと」と読み替えられる。この”貧しい感性 ”と呼ばれる感性の解釈は、先の感受性とは明らかに対立的である。

この感性の議論に新規性が認められるが、カントの感性自身との間にはズレを感じてしまう。その点を少し詰めておこう。

先に、カントの感性は、「視覚を例にして、悟性が働く以前を仮に考えれば、それは単なる“色班”にすぎない」と言った。日常の経験では、悟性が働き、その色班が実際には、ありふれた机上のコップだという、意味づけがされる。とは言え、色班と概念的な意味付けの間には質的なギャップがある。カントは、感性と悟性の間を媒介する”構想力”を導入してギャップを埋めた。即ち、感性の色班をなにかまとまった像として浮かび上がらせることによって概念とマッチングが図られる。まとまった像が浮かび上がった段階を“感性の経験”と見做せば、そこに概念の働きは一切ない。浮かび上がる像を日常見慣れた、ありふれた像とするのは、悟性の働きだから、創造的な感性であるためには、悟性の働きを断固拒否しなければならない、と佐々木は言うのである。

以上の佐々木の主張から筆者が気づいた点もあるが、それについてはあとで述べることにして、先ず、その解釈の問題点をまとめよう。

3.貧しい感性の問題点

  • カントの感性には受動性という基本的性格がある。悟性による一切の概念の働きを拒絶する、といった一種の意思的で能動的な性質を考えるのは矛盾ではないのか。
  • 「一切の概念から働きかけを絶つ」ということを、感性のもの(性質)と認めたとしても、それが何故創造性と言えるのか。

  貧しい感性は、創造性への条件であっても、創造性自身でなく、創造性の一つの条件に過ぎないのではないか。能動的な要素を含まない創造性は成り立つのだろうか。

  • 佐々木は、感性と言う言葉を、カントの感性(=Sinnlichkeit)を下敷きにおきながらも日本語として考えたという。つまり、日本語の意味より、感性=感じるという性質と捉えようとしている。こういう観点からすれば、感性を、悟性から切り離して、独自に考える事が許される部分があるかもしれない。だが、もしカントとは異なる解釈を加えるなら、感性だけに留まらず、認識全体の中で整合性が示されなければ、恣意的と言われよう。

図2.太陽の塔

 

4.まとめ

佐々木の主張には上記のような課題が残っているが、他方、その主張によって筆者が気づいた点もある。ここでは、それを述べよう。

“貧しい感性という議論から、岡本太郎の感性”を取り上げたコラムを以前に書いたことを思い出した(本非定期コラム:共感の視点(8)-岡本太郎の感性と感動―)。あのコラムは相当苦労した記憶がある。コラムが直接の対象にしたのは、美術評論家(椹木野衣)が岡本太郎の芸術について書いたエッセイ:「感性は感動しない」であった。詳細は省き骨子だけ述べれば、そのエッセイのタイトルは「感性は感動しない」であるが、筆者は当時、それは逆説的に表現にしたもので、岡本太郎の芸術論を表しているエッセイの内容の主旨は“感性は感動する”と解釈されるという事を、コラムの結論とした。

あの解釈はそれでよいと思う一方で、今一つ納得いかない後味の悪さが残されていたが、今回の佐々木の論説から、岡本太郎が語る芸術論を理解できた気がした。コラムの解釈は誤りで、「感性は感動しない」は文字通り解釈すべきと考えるようになった。

椹木のエッセイは、感性を主題にしているにもかかわらず、感性の定義はおろか、説明も全くない。感動する、しないどちらにも解釈できる論述の大いなるあいまいさは、文章で身体の調子がおかしくなるという珍しい体験をさせた。

岡本太郎が感性について言わんとすることを察知できたのは佐々木の文章力であった。近年国語の読解力が問題にされているが、筆者の経験を敢えて指摘しておきたい。

結論をまとめよう。

筆者が学んだように、佐々木の論旨は、芸術論、あるいは広い意味の感性論の文脈の中で認められるのではないか。

他方、貧しい感性によるカントの感性の解釈は、厳密には本文中に指摘した問題が残っている。

感性と関わる中で創造性を詰めていく別の方法はあるのだろうか。この議論には創造性の定義が必要になると思われるが、その他、一般に、創造性は想像力と繋がりがあると考えられていることに着目したい。

カントの認識論は、感性以外の要素として、悟性、理性のほか構想力があることは既に述べた。構想力は想像力と訳されることもあるように、想像力の一種と考えられている。

次回以降、とりあえず、カントの構想力の検討を含め、想像力と創造性について検討していきたい。

 

長島 知正  (2020-05-06)

 

参考文献

[1]佐々木健一:感性は創造的でありうるか,アイステーシス,行路社.2001.

カントの感性とその特徴{2}

3).現象と<もの自体>:

・緒言

“感性”は日常よく使われる言葉である。だが、その感性の意味が示されることはほとんどない。とりわけ困るのは、いわゆる識者と言われる人もそうであることだ。そのため、感性が担う役割は拡散して本質はぼやけ、近代的理性に代わるモノという一部にある期待の高まりとは裏腹に、皮肉にも、次第に感性ということばの斬新な響きもかすんでしまった。しかし、それは悪いばかりではない。むしろ、わが国近代の来し方を見直す良い機会と言えるからだ。

前回、“純粋理性批判“におけるカントの感性の定義と共に、感性の特徴や文脈的な意味を考察した。前回に続いて、感性の特徴や意味を検討する。そのため、前回の2)では、“現象”を構成している感性と悟性の関係に着目したが、本稿では、現象と<もの自体>の区別に注目して感性の意味を考える。そのためには、カントが<もの自体>を考えるに至った経緯を知るため、多少なりとも超越論的観念というカントの基本的考え方に立ち入らなければならない。

まず、前回の復習を兼ねて、基本的な用語を補いながら議論を進めよう。

カントは、我々が(外にある)モノを認識し経験できるために、対象が我々の心を触発し、対象についての表象を直観によって生み出す感性の働きが不可欠だ、と言った。

だが、対象を認識出来るためには更に、そうした感性的直観によって得られた(対象についての)多様な素材をカテゴリーにあてはめる悟性が協同して働くことが必要であるとした。つまり、モノ(対象)を認識し経験できるためには、感性を介した直観による表象を私のものとすることが欠かせないのである。

・<もの自体>

ところで上の議論には、「対象を認識し経験できる」とあるが、“対象を認識する”というのは良いとしても、“対象を経験できる”とは何のこと? と思った人がいるのではないか。つまり、こころの働きとして対象を認識する仕組みが議論されることは当然であっても、「対象を経験できる」と、ワザワザ普通言わない使い方をするのはなぜ、と。

カントが「対象が経験される」という時、それは、当事者(主体)によってあたかも可能になったり、ならなかったりすることのように聞こえる。

実際、「すべての認識は経験と共に始まる」と言うように、経験との関係から認識を捉えることはカントの認識論のカギである。とは言え、すぐ後で「だが、すべての認識が経験から生まれるのではない」と付け加えて、感性に、アプリオリな形式(条件)、つまり経験に先立つ形式として、時間、空間を導入した。この感性のアプリオリな形式は経験から導かれたモノではなく、逆にそれによって、経験を可能にしている。

カントによれば、感性的直観を素材とし、それをアプリオリな条件であるカテゴリーに割り当てる悟性の働きを要請することによって、対象(による直観的表象)を認識し経験できる。そのような対象を“現象”と呼んだ。現象は、私たちの目に見える姿のように五感で実際(現)に感覚されるアラワレ(象)である。それに対し、現象の背後にあるが、実際には感覚されず、従って認識も経験もされない対象を<もの自体>と名付けたのである。

奇妙に感じるが、純粋理性批判に<もの自体>についての明示的な定義は見当たらない。常識的に言えば、<もの自体>とは、認識する主体とは関わりなく、独立して、そのもののありのままの姿が現れたもの、となろう。カントが「<モノ自体>は分からない(認識できない)」と言う時、その基本的な意味は、「そのような認識主体と独立な対象(=<もの自体>)については、われわれ(経験する主観)は知ることが出来ない」ということである。

<もの自体>にはモノの本質という意味を含ませる事もある。つまり、五感を介して感じられるモノの姿“現象“は見かけ上であるのに対して、<もの自体>は(外にある)モノその物、つまり真実に対応している、と。ここには、現象が見かけの仮の姿を現しているのに対し、<もの自体>には、そうした現象の根拠、あるいは原因を与えると言うプラトン由来の見方(イデア)の影響がある。後に出る理念(イデー)もそこに繋がっている。

以下、現象と<もの自体>の区別に至った、カントの超越論的感性論とは何か、その入口を覗くことにする。ここでは特に、超越論的観念論というカントの立場について、簡単なイメージを基本用語を通して考える。

・超越論的ということ

カントを理解する際、問題になる用語は非常に多いが、超越的とか超越論的と言う時の、「超越」ということばは特別だろう。普通のことばとして、超越とは「超える」という意味であるが、カントの場合を含め哲学的文脈では普通の意味とは異なる使い方をする。まずそこに注目しよう。

子供の時から科学や合理的なモノの考え方に親しんだ人には、「超越」って何?となるのは当然である。何故か。科学的な考え方とは、経験できないような、ありもしないモノについて考えても無駄で、意味がない事だ、と思ってはいないだろうか。この言い方には説明不足があるが、的外れでもないのではないか。こうした考え方が自然に受け入れられるようになった大きな理由として、科学革命によって科学が宗教にとって代わったと見做なす近現代の思想的な影響があると思われる。

その結果、私たちは今日、神や霊魂について日常ほとんど考えなくなった生活習慣の変化がある。

当然ながら、神は我々が直接経験することができない存在、つまり我々の経験を超えた、超越した存在である。

同様に、霊魂の不死性についても、我々は死後を直接確かめることが出きない対象である。このような超越的な世界の問題については、我々は無いがごとく、考えないことを当然とするようになってきた。とは言え、それをどのように正当化しているのだろう。

カントの<もの自体>は上述した事と平行して捉えられる。

つまり、われわれが経験できる現象は感覚される対象であるのに対し、<もの自体>とは経験不可能な、超越的な(=超感性的な)対象(モノ)である。

図1.超越的存在(河童)

ことばの上から見る時、超越的とは、経験を超えるという意味で経験の外部にある認識不可能なという意味に対し、超越論的は、人間が経験できる、つまり“経験可能な“に対応していて注意が必要である。その上、ややこしいが、超越と言うことばに、“経験を超える、つまり経験の外部“という意味の他に、そのような経験の成り立ち自体を考えると言う意味を含ませる使い方もある。

実際、超越論的感性論(観念論)は、後者、つまり、人間の経験の成り立ち自体を考えるという意味で使われている。

・感性の文脈的意味:認識を超える思惟

カントは経験を超える例として、世界、神、自由、魂の不滅性といった伝統的な形而上学の対象を挙げている。これら超越的な存在は<もの自体>と同様、経験を超え、認識できないが思惟することは出来る存在である。カントはこうした世界を“可想界”と呼び、経験可能な“現象界”と分けた。人は経験可能な現象を感性と悟性の働きによって認識出来るけれど、経験できない可想界にある対象に対して悟性は当然機能しない。にも拘わらず、経験不可能な対象に対しても人は様々ことを考える。実際、カッパとか一角獣のようなものを考えたりする。理性は、このような経験できず、認識できない対象に対しても働くように見える。この点で、理性は悟性(狭い意味の知性)と違うことを明らかにしたのはカントの功績と言って良いのではないか。以下は、その一端である。

理性とは、何よりも推論する機能である。また、最も単純な判断にも単純な推論は見られる。そのため、悟性に戻って始めよう。

悟性は、感性的直観によって受け容れた対象の表象を素材として、それをカテゴリーに分別する。カントによれば、悟性の働きの中心にあるのがカテゴリーで、それは、アプリオリな形式で思惟の根本的な区分を与える。

つまり、悟性は、感性による多様な直観をまとめ、概念的な判断に変換するが、その概念的判断は基本のアプリオリな枠組み(形式)を持ち、それがカテゴリーである。悟性のアプリオリな形式であるカテゴリーの働きによって、対象の経験は個人的な経験から普遍性のある経験にになる。

カントは判断表から、量、質、関係、様相 という4項目のカテゴリーを導いている。さらに、各カテゴリーは3分岐を伴い、例えば、量のカテゴリーには、単一性(一つの)、数多性(幾つかの)、総体性(すべての) という量に関わるカテゴリーが割り当てられている。それらは判断表では、単一判断(このリンゴは甘い)、特殊判断(幾つかのリンゴは酸っぱい)、総体判断(すべてのリンゴは丸い)にそれぞれ対応している。

ところで、カテゴリーは良くカタログにたとえられる。家具カタログには様々な家具が、机などいくつかの項目に従ってまとめられ、分別されている。カタログによって、目の前にあるモノが、項目に従って、何であるか、またどういう状態にあるかが分かる。

家具カタログには机の他、椅子を始め様々な家具が含まれている。机と言う項目にまとめる際、机を他の家具から分別するため、天板がある、足を持つ、人が利用できるような重量、寸法を持つ等の、経験的に確かめられる規則(概念)が使われる。

一方、そうした様々な規則を対象として、規則同士を組み合わせあるいは繰り返す等の操作によって、より高次の推測する方法が考えられた。これが人間の“理性”と呼ばれる。

例えば、ある現象に対し、推論によってその原因を探る。次にその原因を結果として、それを生む原因を探る、という結果―>原因=結果―>原因=結果―> の遡行の系列から、現象についての、より一般的な原因を知ることが出来る。特に、自然科学はこの機能を極めて有効につかって発展してきた。理科系の人に圧倒的に見られる理性対する全幅の信頼は、そこから来ているように思われる。

上の遡行は、「もし、、、なら、、、、である」と言う条件付きの仮言命題の系列によって、原因を次々に遡る系列と見做せる。

ところが、人間の理性は、こうした遡行を限りなく続け、最終的に全く条件が付かない定言命題を得ようとする。神、自由などはこうして現れた“理念=理性概念”である。カントは、これらの理念について、アンチノミー(二律背反)、つまり正命題(テーゼ)とその反対の反命題(アンチテーゼ)双方が共に成立することを明らかにした。これは、命題の真偽が決着させられない理性の限界を示している。

図2.座禅:理性の限界を経験する?

ところで、理性の限界といったが、その理性の限界に感性は関係していないのだろうか。

理性概念としてカントが挙げた自由を考えて見よう。

感性の定義に立ち戻ると、感性は外からの物質的刺激を受ける(受容する)ことによって、認識する主体に認識の素材が与えられる。こうした認識主体の感性は受け身であり、素材を悟性に提供する以外に、目立った機能はなさそうだ。だが何も意味はないのだろうか。考えられる一つは、認識主体は外にある世界に接し、絶え間なく外から物質にさらされていることである。つまり、人の経験や認識は真空中で行われる訳ではなく、対象認識の際にも絶えず置かれた環境から影響をうけているはずだ。

言い換えれば、人間に全くの自由と言うものは現実にはないという事になる。こうした感性を介した制約を悟性や理性は受けざるを得ない。悟性は経験によって誤りを検証可能だが、経験を伴わない理性、特に理念にとっては困難に繋がる。

上述したような外界の刺激は、従来から認識の雑音(ノイズ)として、感性のネガティブな性質を生む原因と見做されてきたと考えることも可能かも知れない。しかし、視点を換えてみると、それは自由のような理念(理性概念)に対する制約と見做すことが出来る。つまり、感性の受容性(受動性)は理念の限界をもたらしているのである。

4).まとめに代えて:

○上で述べた理性の限界はそれ自身大きい、とりわけ理科系には大きい問題であるが、ここでは単に、感性と理性は互いに関連した概念であるということを指摘しておきたい。人間の感性は受動的に働き、外から絶え間なく刺激を受けている。こうした感性の受動性は自由の理念の限界をもたらす、と言った。それはまた、感性と理性は互いに独立しているという従来からの捉え方に根拠はなく、互いに関連しあって働いていることを意味している。

○「<もの自体は>分からない」というカントの文言と素粒子論などの最新の物理学を対比させることについて簡単に触れておこう。

人間に知覚され、意識にのぼってくる対象を“現象”とするカントの認識論の前提と素朴実在論に立つ物理学は対立的である。ここで素朴実在論とは、(眼前にある)世界はありのまま直接捉えられるという立場だからである。最近は、表立った争いは余り見られない、というより、圧倒的自然科学優位な現在とは言え、両者には深い論理的溝がある。その間を架橋することは大きな課題と考えられるが、以下は、カントの立場に沿った一つの考察である。

カントは全ての認識し経験可能な対象を現象と呼び、自然科学で対象となることは全て現象であると考えていた。そうでない対象は<もの自体>として、人の意識に関わらない認識、経験の外部にあるものとした。その意味で、<もの自体>は知りえない、という内容は明確である。

だが、認識し経験可能な対象は知覚できなければならないから、知覚を文字通りの感覚(五感)によるとするかどうか、知覚の具体的範囲をどこまでにするかで、現象を物自体から分ける範囲が変わってくることになる。つまり、肉眼で見えることや五感で感じる事にすれば、明らかに現象は非常に限定されるだろう。肉眼ではなく望遠鏡のような観測手段を使って、見えることも知覚可能とすれば、現象の範囲は拡大する。この意味で常識的には、最新の計測装置を使って得られる素粒子実験の結果なども現象の範囲に入ると見做すのが良さそうに思われる。とわ言え、ここには、物理学の抱える未解決の難問、量子力学の観測問題があり、現象と言って簡単に片付けられる話ではない、という留保が必要である。

長島 知正  2020-02-17

カントの感性とその特徴{1}

(参考のため、前回投稿を再掲(一部加筆訂正して再掲))

  • 緒言

人間が考える能力を持つことに疑いをはさむ人は少ない。実際、近代の発展は思考するという能力による、と言える。考えるといっても、とりわけ科学的思考が近年支配的であることは、自然科学以外の分野で、○○科学ということばがつけられることに端的に現れている。だが、そうした人間の考える(思考)能力とはどういうものか、考えること自体を明確にしようとした人は少なかった。

そうした一人にカントがいる。ニュートンが力学の改革に成功したことに対応して、哲学も改革されなければならないと考えていたカントは、自らつくり上げた学を、“認識論におけるコペルニクス的転回”と呼んだ。カントの考えは確かに独創的であるが、複雑な議論を表現するため幾多の独特な、聞きなれないことば(概念)の山が作られた。そのため、書は大部になり、全体の把握は容易でなく、一時は解読の専門家が必要とされたのは、わが国だけではないようだ。だがカントは、今日も生活の根底にあるように見える西欧と異なり、我が国ではデカンショ節が廃れるとともに影響力を失い、特に、戦後は復興のため技術立国が叫ばれ、カントの観念哲学の命脈は事実上絶たれた。

しかし、バブル経済の崩壊を経験したわが国では、崩壊後の不景気が一時的なものではないことにようやく気付き始めたらしい。現在、“持続可能性”ということばがインターネットの勢いにのって急激に広まっている。経済成長という信仰にとって代わる社会原理の交代もあながち夢ではないかもしれない、と思わせる。(このような地盤的変化の時に求められるのは、新しい科学技術を生みだす創造性である。だが、そうした創造性はどんな思考によっているのだろう。)

純粋理性批判の書名から、カントは理性を説く人というイメージが大変強い。だから、対極にある感性が問題にされる局面では、当然のように無視されてきた。しかし、美学を除いてと付け加えなければならない。つまり、もっぱら美を哲学的対象とする美学は現実社会においては切り捨てられて来たとは言え、カントはそこでも無視できない役を占めているようだ(*)。

本稿では、感性に焦点をあて、カントの感性の考えに立ち入ってみる。そのため、カントの純粋理性批判におけるカントの感性の定義と共に、その特徴や文脈的な意味について考察する。そうした考察から、感性について現在何が求められているかを検討したい。

  • カントの感性

純粋理性批判は、本稿付録(*)の構成に示したように、感性論から始まる(カントは自分の感性論を超越論的感性論と呼ぶ。“超越論的”については、後に説明する)。感性論の緒言にはカントの理性批判のよって立つ前提の説明があるが、その中で、カントは彼の感性の定義を与えている。カントの書は難解でなり、感性に関心をもつ人でも、カントの感性論を実際読んだ人は少ないようだ。だが現在、彼の立場を認める人は多くはないだろうが、それは別にして、冒頭の感性の説明はすっきり書かれている。お手軽な解説書を見てカントを敬して遠ざけた人も、違った印象を持つかもしれない。

図1.科学の限界はどこに?

以下著書を引きながら、カントの感性論を少しみることにしよう。(ここでは、入手が容易な岩波文庫の純粋理性批判(上)、篠田英雄訳)を元にしたが、古い言葉遣いなどは変えてある。岩波文庫の訳は、何故か句読点の使い方がおかしいなど、初歩的不備が目立つのは惜しい。)

「認識がどんな仕方で、またどんな手段によって対象に関係するにしても、認識が直接対象と関係するための方法、また一切の(あらゆる)思惟が手段として求める方法は直観(Anschauung)である。しかし、直観は、対象が我々に与えられて初めて生じるモノである。

ところで、対象が我々に与えられるということは、少なくとも我々人間にとって は、対象がある仕方で心意識(Gemuet)を触発する(affizieren)ことによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)を感性(Sinnlichkeit)という。」

「だから、対象は、感性を介して我々に与えられ、また感性のみが我々に直観を給す  るのである。 (中略) また、我々が、対象が我々に触れている時、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は、感覚(Empfindung)である。」

これが、カントによる感性および感覚の説明である。

結局、カントがここで言っているのは、我々が経験し、認識する対象は、感性を介して直観によって与えられる、ということである。少しフレーズを足しながら、感性に関わる点を整理しておこう。

われわれの経験では、経験の対象を認識するためには、まず対象が与えられなければならない。ここで、我々の精神が対象と直接関係する方法が直観である。直観において、我々に対象が与えられるとは、我々の意識が対象によって触発され、その時生じる表象を受け取ることである。カントは、我々の精神が表象を受け入れる(受容的な)能力を“感性”と定義している。

また、上の感覚の説明によれば、感覚は、感性と同義語に近い。感性においては総体的にとらえられる対象との関係が感覚ではより具体的になっていると考えて良いだろう。つまり、対象の姿が見える、音が聞こえるといった事だが、注意すべきは、こうした感覚の経験的側面が明かされている点である。

ところで、詳しく述べる余裕はないけれど、カントの認識論では、上記の段落は認識の前段に位置している。つまり、「感性的な直観によって与えられる表象や感覚は、認識の対象としての素材で、それ自体では、認識は完結しない。言い換えれば、認識は、直観で与えられた対象の素材が、概念によって捉えられて初めて可能になる。この概念を与えるのが能動的に働く悟性(Verstand:知性)である。対象は、直観と悟性の協調によって初めて考えられるのである。また、客観的判断に悟性は不可欠である。

ところでカントの認識論には、経験や認識に必ずそれを可能にする枠組み(形式)がある、というところに大きな特徴がある。どういうことか。

ここでは、経験の対象が感性的な直観によって与えられる場面を考えて見る。

例えば、私のそとのあちこちに、赤い色や青い色が見える、といった感覚が生じたとしよう。

この例にある場面が把握できる場合、「あちら」、「こちら」、「私」と「私のそと」とが空間的に区別され、空間の別な場所に関係付けられていることが前提にあることに注意しよう。

言い換えると、異なる場所に違った色が見えるという経験が認識可能になるには、予め空間という表象が先行してあることが必要なのである。これをカントはアプリオリな空間形式と呼び、空間の表象はアプリオリに(経験以前に)与えられ、経験的なものではない、と考える。同様に、音の経験を可能にするために、時間についても、アプリオリな時間形式を要請した。

カントがこうしたアプリオリな時間・空間形式を重視するのは、その形式によって始めて、私たちに対象が経験可能な事象になるからである。“現象”とはこのような経験可能な事象である。反対に、経験を超えた事物<もの自体>は、人間には分かりえないものとして、区別されるのである。

図2.人間には悟性があるんだって?

  • 感性の特徴: 文脈的意味(1)

大まかにいうと、感性的直観による対象を概念によって捉え、さらにそうした概念を組み合わせて推論する能力が理性である。“純粋理性批判”において、カントは理性を対象として、理性批判した、つまり人間理性の限界を検討した。

しかし、我々の目標は、理性ではなく感性である。カントの感性は前節のように定義されたが、以下では、感性の特徴や意味を考える。一般に、ことばの意味は文脈によって、あらたに派生するものであり、文脈的な意味から、従来の感性では何が欠けているかが見えてくる可能性があるからである。

以下では、取りあえず三つの視点から、感性の定義に基づいて、感性の特徴や派生する意味をおおまかにおさえ、検討する。

  • まず、全般的背景を知るため、国語辞典(ここでは、広辞苑)に見られる感性の意味を取りあげておこう。広辞苑にある感性の第一の意味は、「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性」である。

この感性の意味は、生きものに自然科学的見方を適用した結果が反映され、最近の教育を受けた人が普通受け入れているものでないだろうか。「対象に触発され、私の中に生じる表象ないし、表象を受け入れる受動的能力」というカントの感性の定義と比較してみると、対照的な見方をしている。つまり、感覚・知覚は外界からある具体的な刺激から生じる点がカントの立場と違う上、感性の意味を仮に、「対象から受ける印象(表象)を感じる能力」と理解しても、それは感覚器の感受性であるところが大きく異なる。

さらに、“感受性”と言う言葉にも問題がある。感受性という語は一般的には、感じる能力とか感じ方となるだろうが、感受性と言う語の使用は、一意的でないからだ。その問題点は後で再び取り上げる。

2)悟性との関係から感性を考える場合、「感性は(感性的)直観が与える悟性の素材」という意味になる。

ここでは、この文脈的意味に少しだけ立ち入ろう。

カントによれば、人間の認識は、感性および悟性の協調的な関係という枠組みで成り立っている。そして、この意味での感性に関して、感性的直観なき認識は空虚だと言う。つまり、感性による直観によって、悟性に働く素材が与えられなければ、認識には中身が無いということである。これは当たり前のようだが、単なる観念論とは異なるというカントの立場を主張し、アプリオリな形式を満たす感性には、その根拠を果たす役割が与えられている。

上で、認識するために「感性と悟性が協調する」ことが必要といったが、そこで大切なのは、感性と悟性は互いに独立したものではないということが前提されている点である。

3)現象と<もの自体>

2)では、感性を悟性との関係から考えたが、その関係の延長上に、非常に強い響きをもつ「もの自体は分からない(認識できない)」という有名な言明が現れる。

簡単に上で説明したように、カントは現象と<もの自体>を区別した。その区別は感性とどんな関係を持つのだろうか。また、自然科学の方法や物質の究極的な研究にどう関係しているのだろう。そうした問題についても考えてみたいが、かなり紙幅が必要なため、次回議論することにしよう。

付録

(*)普通、カントの美学という時、カントの著書「判断力批判」の内容を指している。本稿の「純粋理性批判」の感性(論)はそれ以前に別の主旨で書かれている。そのことが感性の議論を複雑にする原因の一つになっている。

(**)純粋理性批判の構成(概略)

純粋理性批判の岩波文庫版(篠田訳)では、transzendentalは “先験的“と訳されているが、近年は”超越的”(transzendent)という語との区別のため、”超越論的“と言う訳語が一般的なっている。下記でもそれに修正した。

なお、カントでは、超越論的は可能的な経験に、また超越的は経験不可能な場合に、互いに対立的なことばとして使われる。

また、Verstandは知性(Intellect)の意味であるが、カントに限って悟性という語を充てる習慣のようだ。ここでもその習慣に従った。

Ⅰ超越論的原理論

  第一部門 超越論的感性論

     緒言

  • 空間について
  • 時間について

  第二部門 超越論的論理学

     緒言

第一部超越論的分析

  • 概念の分析論
  • 原則の分析論

第二部超越論的弁証法

  第一篇純粋理性の概念について

  第二篇純粋理性の弁証法的推理について

Ⅱ超越論的方法論

長島 知正  2019-11-29