”理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか

前のコラム”理科系と文化”で、わが国で日常的に使われている”理科系・文科系”という言葉や区分は、C.P.スノーが”二つの文化と科学革命”で議論した自然科学系と人文系に分類される専門家のグループに原則的に対応していることを説明した。だが、気になるのは、そうした対応があるということよりむしろ、理科系・文科系といった言葉が、得意科目を指し示すことに留まり、社会的つながりをもつ議論に広がっていく気配が一向に見えないことである。かつて、”文理融合”といった話題はあったが、いつしか立ち消えたようだ。 また、理系・文系の壁という言葉が一時マスコミで話題になったこともある。しかし、我が国で、理系・文系や“二つの文化”をめぐる議論が社会的に広がったとは思えない。何故、広がっていかないのだろう。明確な結論をだすのは簡単でなさそうだとは云え、科学技術が、私たちの外部世界にあるモノのみならず、心理的な面への繋がりを強めている今日、今まで見過ごされてきた、人間に関わるこうした、云わば、掴みどころのない問題にどう答えるかが、大切に課題になってきたと思うのである。

しかし残念なことに、わが国ではこうした問題は、往々に「西欧とは歴史が違うからネ」、といった結論になりやすい。これは、「私たちには、歴史は変えられないんだ」、という思考停止の正当化の危険を孕んでいる。 以下では、考えを進める手がかりとして、まず、スノーが”二つの文化と科学革命“で云う文化とは何かについて整理し、その後、理系・文系を巡る話題が文化の議論に繋がっていかないワケは、西欧との歴史の違いにあるのではなく、西欧で使われている言語を日本語に翻訳する過程に内在する不確定性にある、という可能性を指摘したい。

前回述べたように、物理研究者を経て、作家や行政官などを経験したスノーは、物理学などの科学研究者の文化と文学に造詣の深い知識人達が持っているそれぞれの文化を表すため、”二つの文化”という言葉を創った。そして著書の中で、英国最高レベルの知識人たちと云えども、自らのグループに属していない人達が云っていることが分からず、その結果、最高レベルの知識人たちのグループの間は乖離し、互いの無理解や相互不信があると指摘した。スノー自身、文学者たちから古典文学についての見識を試された経験から、そうした文化人達の態度に反感を抱き、文学者の集まりで、”熱力学第二法則とはどんなことか”、と聞いたりしている。こうしたやり取りは一見暴露記事のような印象を与えるが、それは話の余興である。真意は、20世紀の科学技術の進展によって、最高の知識人たちといえども、英国の文化はもはや一つではなく、互いに共通するものを持たない、理解不能な(少なくとも)二つの文化に分かれてしまった、という近代社会の深刻な事態にある。今から大よそ80年程前の話である。細分化が進んだ今日、二つの文化という区分に異論があるとしても、二つの文化を象徴的に文系、理系と捉えれば、今日の我が国でも十分通用する話ではないだろうか。

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図1.将来の夢は?

ところで、スノーは、自然科学者および人文系の知識人それぞれのグループの人達が持っている文化を“二つの文化”と名付けたが、文化そのものはどう捉えていたのだろう。スノーによれば、Cultureには、彼の”二つの文化”に適用できるような二つの異なる意味があるという。第一の意味は、「知的な発展・形成」、あるいは「精神の発達・形成」という辞書的なものである。この定義は抽象的でアイマイさがあって、内容を把握しにくい。そのためスノーは、Cultureの第一の実質的な意味を”教養(Cultivation)”とする妥当性を力説している。ここで、教養とは、人間性を特徴づける性質ないし能力と定義される。つまり、人間が持つ最も貴重な性質で、人間らしい能力は、自然に対する好奇心および記号を用いて思想を表現することであり、これこそが教養、すなわち文化であると云うのである。この説明は十分説得的と思うけれど、念のため、Cultureの原義に相当するCultivationの意味は、”耕す”こと、つまり“作物を造るために耕作する”という意味であること、さらにそこから”精神の耕作”が含意されることも付け加えておきたい。

第二の意味は人類学の観点によっている。ここで、文化は、ある時期一定の地域に住んでいた民族や一群の人たちに共通する生活上の習慣や様式を表すために用いられる。例えば、弥生文化とか文化遺産がこれに該当するだろう。だが、スノーは、この定義における地域性を拡張し、社会における固有の集団にも援用して“二つの文化”という言葉を創ったと云っている。この集団は、特定の地域に住む人ではなく、科学者や人文的知識人といった職業的区分による集まりを対象にしたものである。実際、そうした二つのグループは、それぞれの内部で共通する行動の態度や方法を持ち、文化として存在していると見做せる。それぞれの文化は、自分たちの時代、環境、教育の影響を受けて育まれたのである。

 

カルチャー

 

図2.Cultureと翻訳(意味)の対応; 実線の円の内部がCultureのカテゴリーを表す。破線内部がCultureに対する生活様式・習慣、教養、耕作など異なった訳(意味、使用例(1))を与えるが、Cultureの適切な訳(1)は実線内のみで、Cultureの訳として実線の外部は全て不適切になる。

 

スノーが”二つの文化”で考えた文化は以上のように整理できるだろう。文化の第二の意味、つまり、本来の人類学的な意味の文化は地域性を持ち、そのため生活に密着した身近さが感じられるせいか、わが国でも自然に受け入れられている。 実際、各地で行われる古墳など様々な文化財の調査や発掘作業の話題からそれは伺うことができる。だが、第一の意味の文化、つまり、最も人間らしい性質や能力とされる、自然に対する好奇心や思想を記号によって表現するという教養の方についてはどうだろう。筆者にはその受け止め方に何か非常な違いを感じる。云い換えると、この第一、第二の文化の意味に対する受け止め方の違いが、我が国の理系・文系という区分やそれぞれの文化との近さといった問題に関係していると思うのである。だがここでは、そうした分析をする前に、その前提にある言語の問題、特に翻訳における意味の問題に着目したい。

一般に、翻訳とはある言語の表現を“等価な”別な言語表現に移し変えることと考えられるが、そのような翻訳があるというのは自明なことではない。私たちは今日簡単に、海外の作品にも先人の素晴らしい翻訳によって接することが出来るため、すぐれた翻訳が“正しい”あるいは“等価”な翻訳と思い込みがちである。だが、以下議論するように、正しいあるいは等価な翻訳は存在しないかも知れないのである。

文化という単語は、近代を迎えたわが国が、西欧から短期間に大量に入ってきた外来語に漢字を充てて作った翻訳語で、哲学、芸術、理性、感性、科学、物理、文学などの一つである。上述したような問題を分析する場合、文化、自然科学、理科、文学などの語やそれを含むテキストを用いて議論することになるが、それらの語やテキストの意味は定まらなければならないのは当然だろう。スノーの”二つの文化と科学革命“の翻訳では、原語のCultureは文化、またScienceは科学と訳されている。この訳に違和感を持つ人は少ないだろうが、言語学の方面では、ある言語表現されたテキストに対し、一般に、それに”等価な“翻訳の表現は一つに定まらないと云う主張がいろいろ議論されている。ここでは、そうした主張を翻訳不確定性と呼ぶことにしよう。翻訳の対象は一般に単語に限らずテキストや作品などにおよぶが、以下では、単語を例に、翻訳不確定性の要点を英語-日本語の翻訳から簡単に説明しよう。

異なる言語の間で、それぞれの単語の意味が食い違う例として良く知られるのは色彩の問題である。旅行中、空港でPick Upを約束していたオレンジ色の車はいくら待っても来なかった、といった逸話がある。これはオレンジ色と米国人が呼ぶ色を日本人は茶色にしか見えなかったことが誤解を生んだワケである。物理的に同じ色(波長帯)であっても、言語が異なる人の間では、一般には同一の色ではなく別の色を意味する言葉に対応させていると考えられるのである。

言語間には、こうした色彩感覚に関するズレのほか、広く認識に関わった食い違いがある。例えば、果物という言葉に含まれる食物の種類は、国によって(ウリなどのように)一部が野菜と見なされるから、果物という言葉のカテゴリーは言語によってズレが起こる。

言語間の意味が食い違う同様な例は動詞にも及ぶ。というより、基本的な動詞はほとんどそうである。例えば、meetについて辞書を引くと、出会う、出迎える、などのほか、見合う、戦う等いくつもの意味が出てくる。それ自体、英語のmeetという単語にぴったり対応する日本語の単語はないということを示唆している。また、大きな辞書にはより多くの意味が出てくるが、この多義性により、より多くの事物が適切に翻訳できることになるが、同時に、意味が食い違った不適切な翻訳が作られる危険も増えることは見逃せない(図2参照;実線の外部にある不適切な訳(意味)の領域が増大する!)。

翻訳の不確定性とは上の例のように、原語(英語)を日本語に翻訳する際に生じる非同義性、つまり原語と翻訳両者の語の表すカテゴリーのズレや不一致、さらにまた一つの原語のテキストに複数の翻訳が生じることである。これは、スノーが問題にした二つの文化の間の乖離や相互相反とは異なる、複数言語間の翻訳で広く生じる非常に一般的な問題である。こうした言語論的観点から、表題のような課題にアプローチすることは今までにない試みと思われる。

例えば、「科学は文化か」といった、Culture、Scienceなどの単語から構成される命題を考える場合、それらの原語(単語)に多義性があれば、その翻訳は不確定になる可能性が生じる。それは、翻訳語使用者に、原語でなされる世界認識に歪みや濁りを与え、正しい理解に至ることを困難にする。とはいえ、翻訳が定まらないということが意味する内容を理解するのそう易しくないと思われる。以下、英語を例に少し考えてみよう。英語のWaterが日本語で水と訳されることは誰でも知っている。H2O分子の液体に対して、日本語では”水”のほか”湯”という単語で区別するが、英語には湯を表す単語が存在しない。つまり、同じH2Oに対して、英語と日本語で指示するカテゴリーが食い違っていることになる。日本語の水には冷たいということが暗に含まれるのに対して、英語のWaterにはそのような制約はなく温度的に中立といわれる。だから、湯に対して、形容詞をつけ Hot Waterという英語の表現が使える。だが、こうした食い違いを一応理解できたとしても、それは表層のものだ。日本人ならだれでも分かる”ぬるま湯”のような感覚をWaterと結びつけて理解したり、また逆に英語使用者が、日本語では”熱い水”(Hot Water)という表現が語義矛盾をふくんだ表現だということを了解できるようになるのは難しいだろう。その難しさは、それぞれの言語(原語)によって獲得した正しい知識という信念が揺るがされるからと云えるのかも知れない。

特に、私たちの問題では、Culture(文化)についてスノーが云う二つの意味を認める時、多義性による不定性に加え、Culture(文化)の第一の意味、すなわち教養としての文化の意味を把握すること自体、教養教育が崩壊したわが国ではほとんど期待できないから、それが文化という語を含むテキストの翻訳不定性を増幅していることは想像に難くない。結論をまとめれば、以上の議論が、「理系・文系を巡る話題が文化の議論になぜ繋がらないのか」という問題のみならず、「わが国では、科学は文化になっていないのではないか」といった議論が繰り返されること、云い換えればえれば、「“我が国では、科学は文化になっていない”と思われていること」の基底をなしているのでないか、と括ることができる。

ここまで翻訳に伴ういわば負の面を議論してきたが、急いで、翻訳には創造的な機能を伴っていることを付け加えておきたい。

先ず、翻訳とは日本語と外国語との間に限られるものではなく、大変に広い表現活動に関与していることに注意しておこう。計算機言語のような人工的言語にも翻訳の問題はおよぶが、さらに、日本語同士でも、異なる言語の翻訳は関わっている。その中に、理系の人が研究上使う理系の言語と日常生活で使われる言語の二種の言語がある。荒っぽい説明だが、スノーが”二つの文化”で指摘したように、理系と文系の間は異なる言語の壁で隔てられているのである。しかし、翻訳はこうしたステレオタイプな見方を超える可能性がある。特に、理系の人にとっては、異なる言語間の“同等な”翻訳とは何かも重要だが、翻訳が言語の理解可能性をもたらす創造的行為であることは、データからの理論構築に共通した面を持ち、大きな示唆を与えると思うからである。

 

長島 知正        (2017-05-08)

 

追補

(1)訳(意味)を訳(意味、使用例)に。訳(意味)を訳に。(06/01)