言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか [3]

若いソシュールは、一世紀ほど前、様々な種類の言語があるにもかかわらず、言葉が同じように伝わるのは何故か、と問い、 「ことばを記号の一種と捉える一方、言葉の意味を社会的に共通の規約と見做すことによって、言葉が他者の間を伝わる普遍的な仕組みを科学的に解明できる」と夢見た。
確かに、このような言語観は科学的に言語を捉えようとする立場からは好都合に思われる。だが、それに反対の立場もある。その典型的な例として、社会的規約を無視した詩的なことば遣い、ポエジーがあることは前回紹介した。“言葉は社会的な規約に従うもの”と思い込んでいる人には、そのような言葉遣いをする人との会話は、ギクシャクとどこか伝わらないところが残るに違いない。これが、理科系・文科系の文化の間の相反ないし乖離現象の内実であり、広い範囲にまたがる根深い文化的対立の芯ではないだろうか。といっても、言葉よるコミュニケーション不全は理科・文化で区分されるような問題以外にも当然ある。その中のかなり部分は、言葉の意味と言葉が指示するものとの食い違いに起因しているように思われる。そうしたあれこれを議論し始めればキリがないから、ここでは、典型的な例を少しだけ挙げるに留めよう。

“私はキツネだけど、あなたはタヌキ?”という文は、字義上の意味を考えると、何か動物たちがアイサツしているようだが、日常生活でいきなり聞けば、何のことかと首をかしげるだろう。実際は、蕎麦屋で昼食のソバの注文をしている時の会話だ。また、ラジオのスポーツ中継でアナウンサーが、決定的場面を迎えて “絶対絶命のピンチを迎えました!”と叫んでいる。だが、このアナウンサーの叫びを聞いて、言葉自身の意味は分かっても、どんなことが実際に起きているかは伝わらない。ピンチやチャンスと言う言葉は聞き手の立場と切り離しては、指示するものが定まらないからだ。このような会話不全の原因が明らかな事例を挙げることはこれくらいにして、以下では、より間接的で微妙なコミュニケーションの問題に目を向けたい。

ところで、話者の感じている感情は、工夫を凝らした言葉で表現すれば、受け手にそのまま伝わるものなのだろうか。例えば、日常生活のコミュニケーションにおいて、“あなたに、私の苦しみがわかる!?“といった会話に見られる感情的な齟齬(そご)は、理系・文系などという区別と関わりなく、会話不全を生む。それはブツブツこころの中でくすぶり、ある時突然破裂したりする。
前回、新しい意味を創りだすという価値観に基づいた言語観に立つ、受け手主体の推論型コミュニケーションを紹介した。上のような会話における感情的な齟齬の問題もその範疇の問題と考えられる。しかし、ここではむしろ、この推論型コミュニケーションの範疇はとてつもない広がりがあることを強調しておくべきだろう。

図1.早朝の小鳥のさえずりに幸せな一日を予感する

上のような(会話不全という)事態は話者と聞き手の間の言葉によるコミュニケーションとは限らないからである。つまり、私たちは日常の暮らしにおいて、特に意識もせず身の回りの出来事を(ことばを超えた)記号として捉え、主体的に意味付けしている。言い換えると、私たちは日常的に、本来は言葉のようなメッセージ機能を持っていないモノに対しても意味を認め、自らの判断に基づいてそれに解釈を与えることをいわば習慣として行っているのである。例えば、はらはらと舞い落ちるサクラに世のはかなさを感じたり、庭に見つけた草木の新芽にいのちの息吹を共感し、また、早朝の小鳥たちのさえずりに、良い一日を予感している。ここでは、こうした毎日の暮らしに起きる、身の回りの小さな出来事をきっかけに生じる感情や印象のような心に浮かぶ心象について考えたいのである。上の例をとると、小鳥のさえずりが記号を表し、その記号が幸いな一日という意味を表している現象と見做せる。「何かが別な何かを表して(=意味して)いる」という意味で、これを記号あるいは記号現象と呼ぶことが出来る。こうした見方は、言葉ではないが、あたかも言葉のようなものとして、事物をことばに擬して捉える言語観と言えるだろう。それは伝統的な言語観とは異なり、相容れないモノも含まれるから、人々の間に目に見えない壁を作り、コミュニケーション不全を産むといったことにも繋がる。

以下では、このような記号現象が、前回取り上げた、受け手の主体性に基づくコミュニケーションの一種として、仮説形成推論(アブダクション)と言われる推論によって把握出来ることを示そう。初めに、仮説形成推論について説明する。
簡単に言うと、仮説形成推論は、私たちの周りにおきた説明がつかない現象(出来事)に出会った時(C)、その出来事が導かれるような仮説(H)を作って独自な推論をする。つまり、仮説Hによれば、現にある出来事Cがうまく説明できる。だから、Hは正しいかもしれない、と推測をするのである。簡単な例を挙げてみよう:

机の上に一つまみのコシヒカリの米粒がある。その机の上には、何袋かコメ袋が置かれている。そのコメ袋の中に、コシヒカリのコメだけが詰まっているコメ袋(a)が一袋見つかった。しかし、その他のコメ袋には、どんな種類のコメが混じっているか分からない。

この状況で、問題は「机の上にある一つまみのコシヒカリは、どのコメ袋からきたコメ(コシヒカリ)なのか」である。

この問題に対して、仮説形成推論は、「コシヒカリだけが入ったコメ袋(a)から、一つまみコシヒカリをとって机上に置いたのではないか、即ち、 机上の一つまみのコシヒカリは全て袋(a)からのコメ(コシヒカリ)ではないか」と仮説を立てる(推論する)。

この推測を論理的な形式で書けば、
(C)一つまみのコシヒカリがある。
(A)コシヒカリだけが入った袋(a)が見つかった。
(C)と(A)を前提に、結論として、次の仮説(H)
(H)一つまみのコシヒカリは全て、袋(a)からのコメ(コシヒカリ)である。
を推測する。

この推論は、広く科学で用いられる推論の形式、演繹推論や帰納的推論とは異なっている。つまり、演繹推論では、真理を保存したかたちで、前提に含まれる内容を分析・析出する。また、帰納推論は、有限個のデータを基に、一般的な命題を形成する推論である。これに対して、仮説形成推論は、説明のつかない現象に対して、合理的な説明をするための仮説を、上のような形式に従って導き出すのである。

図2.枯れすすきは晩年の記号?

上の例では、机上のコメ粒(コシヒカリ)の出どころが、どの袋から来たかについて、それがすべて(a)の袋からと推測した。しかし、コシヒカリは(a)のコメ袋以外にも含まれている可能性が否定されていないから、その推理結果はあくまで誤る可能性がある。ここに挙げた推論の例は正しい結果を導くというより、シャーロックホームズの推理小説などに見られる、意図的に誤った推理を読者に誘導させる仕掛けられたトリック(罠)のように感じた人がいたかも知れない。科学的な問題領域での正しい推論として使用するためには、仮説(推理結果)は採用すべきか検定が不可欠である。実際、この仮説形成推論は新しい科学的発見を導くための方法として考えられ始めたのであるが、ここでは敢えて、科学的な対象の対極に位置づけられるような感性的な問題を取り上げてみよう。

具体的には、先に引用した“早朝の小鳥のさえずに、幸いな一日を予見する”という、一種の感性的なこころの動きを対象として、上の仮説形成推論を適用してみる。記号現象として解釈すれば、「早朝の小鳥たちのさえずり」という記号に、「一日の幸い」というイメージを意味として読みとる過程と見做せる。この記号現象で興味あることは、“小鳥の鳴き声に、良い一日を読み取るというこころの働きである。以下で、それを先の仮説形成推論として考える;
(C):早朝の小鳥のさえずり    ‥・・・ 手元にある出来事(事例)
(A):幸運な一日     ・・・・・ 出来事の持つイメージ、印象(=意味)
(C)と(A)を前提として、仮説(H)を形成(こころの中に創造)する
(H):何か良いことがある日は早朝に小鳥がさえずる   ・・・・こころに形成された仮説

誌的な記号として表される “小鳥たちのさえずりに、一日の幸い” を読み取るこころの働きは、何気ない日常の出来事の中に何か明るい出来事を感じ分ける受け手のセンスであり、これは感性と言えるものだろう。それが新しい仮説を作り出す上のような推論として表現されている訳である。素人考えでは、こう表現されることによって、詩が詠まれる一歩前に近づくと言って良いのではないかと思う。これが示唆していることは、小さくないのではないだろうか。その一つは、机上のコシヒカリの来歴を探る例が、推理小説の謎解きのように正解を求めるための推論である一方、上の例の推論は誌的な世界を創造する過程に関わるという対照を示している事だ。ここで注目されるのはもちろん、推理的な探索誌的な表象という質的に対照的な課題が同一形式で扱われている事実である。

議論が大分荒っぽくなってきたので、この辺で、表題にある問題の中心からは相当逸脱する事になるが、今後の科学技術の課題に繋がる側面から、本論をまとめよう。

ことばは固定された意味を伝達するものという伝統的な言語観とは異なる新たな言語観に注目し、特に、受け手主体のコミュニケーションにおける言葉の新しい意味の創造という特性を検討した。具体的には、「小鳥たちのさえずり」という外界の出来事を「幸いな一日」という表象に結びつける、誌的なアイディアを表す記号現象が仮説形成推論として表現されることを例示した。この結果は、(1)「誌的なアイディアに含まれる創造性が形式化して明示される」、と同時に(2)「そのアイディアの創造的な仮説は誤っている危険がある」といった相反した特性を併せ持つことを示している。その特性の意味を更に検討すれば、「仮説形成推論は、芸術の創造性と科学的真実をつなぐ論理的な場である」という解釈が成り立つかも知れない。また、モノづくりのための方法として仮説形成推論は注目される。特に、何らかのイメージに合う新しいデザインを試行錯誤によって決定していくプロセスを支える思考方法、また、ユーザーの立場に立つ製品の感性評価法の開発に有用と思われる。これらは、各分野の専門家には経験的によく知られていることかも知れないが、モノづくりのための工学の基盤という認識には未だ至っていないのでなかろうか。

 

長島 知正 (2017-10-31)、(加筆:2017-11-01、02)