魅力、感性、そして共感 (1)

”人が魅力的とはどういうことを言うのだろう?“ ”魅力的な人は一目みれば分かるでしょ! 人を引き付けるのが魅力に決まっているじゃない” そんなことを言っているからあなたのような理科系人間はダメなの、という声が聞こえそうだ。うーん、もっともだ。だが、社会全体で魅力に価値を認めようとしていた時代があったことを考えてみたいのである。歴史上魅力なる言葉が使われ出したのは、西欧社会が、権威を握っていた教会の支配を脱して近代に向かう途上、個人の能力が大きな力を持つようになると同時に、能力を含む個人の魅力に注目が集まるようになったかららしい。この後半の部分が歴史の中で省略されてしまっているのではないだろうか。遠く離れた国からは、ルネッサンス期に突然現れたように見える芸術家の目を見張る活躍も、そうした社会的背景と決して無関係ではないだろう。

歴史問題は別にしても、人間の魅力に限らず、絵画、彫刻、音楽などで当時次々に産み出された新しい芸術作品の魅力はどのように評価されていたのだろう。そこには、魅力は価値観と直観的に結びつくとしても、新しく創造されたモノの価値あるいは魅力を決める基準は何なのか、という問題が埋め込まれている。これはまた、コンピュータによって新しい人工物が作られる現代の課題なのである。

激しく変化する現代の技術分野では最近、“魅力を設計する”ということが話題にされている。一方、美学者の佐々木によれば、魅力とは、言葉には言い尽くせないもの、得も言われぬもので、それは”感じるより他ないもの“と言われる。果たして、魅力は設計できるモノなのだろうか? いずれ考えたい問題だが、ここではとりあえずこうした従来全く接点のなかった異分野が直接接する時代になったことを確認しておきたい。こうした事態は少し大げさに言えば、世紀単位の長周期の変化の始まりを象徴する出来事と思われるからだ。

ところで、感性という語は、西欧の近代哲学の中で登場したモノだが、それが明治期の我が国に理性、知性などと並んで翻訳され、新しい日本語の仲間に加えられた。そうした文脈の中で、“感性”を字義から考える時、”感じるという精神的な能力”と言う表現は的を射ているように思われる。とすれば、ここに、魅力と感性の間に一つの接点を見いだせるだろう。

永い歴史を持つ哲学の一部門である美学やその感性学との微妙な関係などについては専門家に聞いて頂く他ないが、ここでは哲学や美学に関する知識を前提せずに、感じるという精神的な能力としての感性について、語の意味から考えてみよう。そ

図1.陶器の魅力とは

のため、取りあえず手元の国語辞典で「感性とは何か」を調べてみた。だが、結論を先に言うと、感性とは何かについて、すっきりした説明がなされているとはとても言えない。筆者は「近代以降人間の感性は宙づりになっている」とこのサイトでも以前書いたが、以下の議論で、語の問題の側面からその辺りの事情が垣間見られるかも知れない。

それはともかく、“感性”の項目を辞典(集英社、第2版)で引くと、
①対象からの刺激を感じ取る直観的な能力。
②感受性
とある。

上の記載によれば、感性の主な語彙は二つある事が分かる。それぞれの説明から、感性について読み取れることを考えよう。先ず、感性の第一の意味を考える。「外界からの刺激を感じ取る」ということが感覚レベルでの感じか、心の中で感じているかが明らかでない。とは言え、感性は単純な感覚自身と区別されて然るべきだろう。そこで、感じ取る直観的能力という言葉遣いに注目すれば、こころの中での作用を意味していると解釈されよう。とすれば、少し言葉を補って、「外界にある対象の刺激によって、直観的に何かを感じ取るこころの働き」となるように思われる。だが、そうだとしても、何かを感じ取る心の働きには、知性に繋がる、視覚をはじめとする外部知覚も含まれるのではないか。その点で感性の意味を抽出出来ているのだろうか。また、「微妙な差異を感じ取る心の働き」というやや立ち入った感性の捉え方とも隔たっていて、感性の第一の意味は判然としない。

感性の第二の意味、“感受性”に移ろう。この感受性も意味は色々ありそうだから、それを同じ辞典で調べると、感受性とは、「外からの刺激を受け入れること、また、その刺激を受け止め感動を起こす心の働き」とある。この意味はかなり把握できる。特に、“外からの刺激を受け止めて、感動を起こすという心の働き”は、話を芸術分野に絞るなら、例えば、ある絵画に心を奪われるように感じる体験(=感動)が該当するだろう。また、日常生活の中でも、成人になる前の、特に思春期に特徴的な、ちょっとした事に敏感に反応して、涙ぐんだり、叫んだりといった感情(情動)行動を挙げられるだろう。そのような特別な体験をもたらす“感受性”に相当する外国語は、英語ではsensibility(仏語;sensibilite′)が該当する。参考のため、英英辞典(New Oxford American Dictionary)を見ると、

Sensibility;the ability to appreciate and respond to complex emotional oraesthetic influences.

とある。僅か数行の文にすぎないのだが、先の国語辞典の説明と比べ、記述には質的な差が認められないだろうか。気になったので、感性の意味を、いくつか国語辞典で引いてみたが、どれも明確さを欠いているようだ。

国語辞典による感性の語義の問題はこれくらいにして、以下では、感受性、共感や感情移入といった互いに似通った概念の関係を考えたい。これらの語は、現在共通する面と異なる面が混然とないまぜにして使われているのではないだろうか。ここではまず、感受性と共感の関係を考えた後、共感と感情移入の基本的な関係を確認する。(以下では、感受性が感性の第二の意味であることは繰り返さないが、留意頂きたい。)

図2.   熱狂

まず共感であるが、最もプリミティブな意味は、ルソーによる「不幸な出来事に苦しんでいる人を見て、自然に哀れみ、同情すること」と言えるだろう。この共感の働きは、利害と関わりがないにも関わらず他者の心情に関心を持つことに特徴があるが、その元には、先の感受性、つまり、“刺激を受け止めて、感動するこころの働き”が関わっていることは明らかだろう。ただし、感動は、心を動かすことだが、必ずしも、サッカー観戦やAKB48の舞台のように熱狂する必要はない。ある意味で、感受性は共感の基礎にあると言って良いだろう。

続いて、感情移入および共感の間の関係を考える。ここで、魅力がテーマの本稿には格好の記事があるので、以下引用しよう:

対象の記事は、新聞(朝日)に最近掲載された、民間テレビ局のプロデューサーU氏の発言を中心とした記事の抜粋であるが、TV局のプロデューサーほど、視聴率という物差しを通じて魅力と戦っている人もいないのではないか。特に興味ある点は、ドラマという作品をどのような考えでプロデュースしているかだ:

04年に松本清張原作の「黒の手帖」を手掛けて以来、(~~中略~~)、主演の米倉さんと組んでヒット作品を生み出してきた。一貫しているのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと「私が視聴者として毎週会いたいのは、行動を含めて本音で生きているヒロイン。聖人君子みたいな役では感情移入できないので」。

注目したいのは、「自分自身が主人公に共感できること」と「聖人君主では感情移入できない」のように共感と感情移入が同列のモノのとして扱われていることである。ここで、言われている「共感」とは、自分が主人公の行為や感情に同感(同意)できるということと思われるが、その時、その主人公の行為や心情を把握する手段として自分自身の気持ちを主人公に移し入れることで(=感情移入)、主人公の行為や感情を把握できる、と思うのはあながち故なきことではない。

感情移入は日常会話で使われるありふれたコトバであるが、実際にはどのようなことを言うのか、余り説明を見ない気もするから、ここで A. スミスの説明(道徳感情論、水田洋訳、1973、筑摩書房)を紹介しよう:

「ある受難者に同感する時、観察者は出来る限り自身を相手の境遇におき、受難者に起こる可能性のある困難のあらゆる事情を、自身でハッキリ考えるようにしなければならない。」と言っている。この原著の説明はやはり分かりやすくはないから、思い切り簡単にして言えば、感情移入は、「他者に作用している刺激がもし自分に作用するとすれば、どんな感じがするか想像すること」と言えるだろう。

上の同感は共感と同じと考えても良いと思われるが、それは、単なる哀れみや同情のような感情ではない。感情が基礎にあるにしても、知的な働きが介在していることは容易に認められよう。

スミスの説明するところによれば、感情移入によって共感(同感)が得られるから、紹介したTVプロデュサーの記事のように、それらを同列に見做す、あるいは、感情移入を共感の代わりと見做すことが出来るだろう。

実際、こうした感情移入によって”共感を得る方法”は、他者の考えや気持ちの理解が求められる分野に適用され、極めて広い範囲に応用されるようになった。具体例を挙げれば、ドラマや小説の登場人物を理解したり、演劇の役作りのための方法とされている。ここで、他者は狭い意味の人間に限らず、小説などの作中人物といった仮想的な人物や芸術作品のようなモノも対象に含まれることも注意しておこう。

このように広く受け入れられている共感や感情移入だが、以下で検討したいのは、共感と感情移入を同列に扱うことや単純に同一視できると思われていること自体である。何故なら、共感と感情移入の概念は、必ずしも同列な概念と言えない不協和を見いだせるからである。その結果、共感と感情移入を同一視することは、概念の混同なのかも知れないのである。そのような話のきっかけは、「感情移入は、観察者のこころを相手に投影していても、それは観察者の感情や思考の押し付けにすぎないのではないのか」という指摘である。

詳しい話は次回に譲り、これまでの議論を取り合えずまとめておこう:

魅力とは語りえぬもの、と言われる。ならば、語りえぬモノは語らなかった、自然科学に象徴される近代に対し、語りえぬものを語る方法が問われているのが現代(の課題)と言えるのではないか。また、今回、国語辞典に見られた翻訳語の乱れは以前議論した”翻訳不確定性”の現れと言って良いだろう。この問題は上の課題との繋がりで今後更に注目されるかも知れない。

 

長島 知正  2017-11-30