魅力、感性、そして共感(2)

一昔前の年末恒例行事の一つに、キリスト教などの教会関係者による社会鍋や地域の福祉関係による炊き出しがあった。来年は明治元年(1868)から150年になるが、最近、そうした炊き出しのニュースはあまり聞かれなくなった。炊き出しが必要なくなるほど、社会は住みやすくなったということなのだろうか。わが国の近代が明治維新を契機に始まったことを否定する人は少ない。だが、明治維新の中身やその評価はどうだろう。その仔細は別にして、ここでは、明治維新を象徴する文明開化や和魂洋才といったキーワードに注目したい。

文明開化や和魂洋才というコトバでは、前者はストンと落ちても、後者はどこか引っ掛かる人はかなりいるのではないか。和魂洋才は、雑に言えば「和魂(和のこころ)を失うことなく、西洋の進んだ知識・技術を吸収し・利用する」といった意味で使われる。ここに、“和の魂(こころ)”というコトが出てくるが、この和魂洋才をタテに、古き時代の大和魂が失われたと主張する人も少なからずいる。古き良き時代の大和魂に戻ることが、今後のわが国の進む道なのだろうか。

図1.炊き出し

筆者は西欧近代の思想に問題があることを認めるが、西洋思想を安易に否定することに賛同はできない。文明開化を急ぎすぎたわが国では、西欧の思想自体正しく理解されなかったところに問題がある、と考えるからである。“和のこころ”は感性に繋がるが、それをどのように繋げるかが今日的課題である。前置きが長すぎたが、以下では、共感とは何か、特にここでは“共感”と“感情移入”の関係を検討したい。最近日常の生活で共感が話題にされることが増えたようだ。だが、少し考えてみると共感には良く分からないことが沢山ある。

今想えば、子供のころ、よく親から“相手の身になってごらんなさい”と聞かされた気がする。子供の躾(しつけ)のために、“その人の身になって“と言う言葉が使われたのだろう。それがどういうことか深く考える事など、子供には覚つかないはずだが、そのコトバによって、相手におきた不運な出来事を想像できたそぶりはしていたらしい。

この“相手の身になる“ということは感情移入”のキーワードになる。共感や感情移入という言葉は現在盛んに使われる日常用語で、前回紹介した民放TVプロデュサーの新聞記事ではこんな具合に使われていた:

「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できないから」。つまり、この文は感情移入と共感が結び付けられる典型と思われるが、そこで感情移入は「共感できる」ための条件あるいは手段と考えられている。こうした言葉使いは、ごく当たり前になっているのでないか。

ところが、心理学や哲学などでは、それは異なる概念の混同とされているのである。以下で、そこにどんな問題があるかを考えてみたい。そのため、まず感情移入、共感それぞれの言葉の意味について確認し、その後、それらの関係を検討しよう。

とりあえず、前回同様、国語辞典を引くことにする。ここでは2種の辞書(A:集英社、第二版、B:三省堂、第2版)を引き、それらの意味を並記する。まず、「共感」の意味は、

A:他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感。

B: 他人と同じような感情(考え)になること。

「感情移入」については、

A:[心] 自然や芸術作作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象からのものとして体験する作用=>empathy.

B:人間の表情や身振り、自然の景色、絵画・彫刻、楽器の音色などに接した時、その対象自体が何らかの感情を表出していると感じ理解すること。(俗には、自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味に用いられる。)

である。なお、参考に、「同情」の意味(辞書A)を調べると、

「同情」:他人の悲しみや苦しみを、自分のことのようにともに感じること。かわいそうに思うこと。思いやり。

とある。

感情移入より始めよう。

先に、“相手の身になって”が感情移入のキーワードであると言った。Bでは感情移入の対象を人間まで広げているが、A, Bともに自然や芸術作品を主な対象に、自己を対象に投入することの心理学的な意味の説明をしている。つまり、心理学では、感情移入とはこうした対象のうちに自己の感情を投げ入れて、それによって、アリアリと対象の持つ感情、動作、作用などを把握する働きを言う。これらの辞書は明らかに美学を念頭に置いた心理学に依っているために、感情移入の焦点は(美的な)感情に当てられている。しかし、感情移入の概念自体は、むしろ近代社会を巡る議論に始まる。特に、A. スミスらによる道徳感情論は古くから知られている。スミスは「道徳感情論(*)」の冒頭、Sympathy(日本語訳:同感)について説明する中で、「我々は他の人々が感じることについて、直接の経験を持たないから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、我々自身が同様な境遇において何を感じるはずであるかを心に描くよりほかない」と述べ、例えば、ある受難者に同感する時、「観察者は彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇におき、受難者に対して起きる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身ハッキリ考えなければならない」とした。このようにスミスはSympathyを得るための基礎として“想像上の境遇の交換”があると言う。この“想像上の境遇の交換”は感情移入の概念と類似しているが、相手の感情に限らず、広く思考にも及ぶ。実際、社会学等では他者理解の方法として共感的理解(Empathic understanding)と呼ばれ広く利用されているようだ。

以上の議論を簡単にまとめれば、感情移入という概念は、もし自分がその人の立場であれば、きっとこうなるだろうという想像、あるいは、相手の中に自分の感情や考えを投入することによって、生まれる感情や思考である。

一方、共感についての国語辞典の説明は意外にシンプルである。双方比べても一見似たように見える。だが、共感の概念は微妙なところがある。基本的にA, B共に、他人の感情や考えと自分のそれを比べている。しかし、Aでは、他人の感情や考えに対し、“その通りだ”という、それを是とする評価をしているのは明らかだが、Bは、他人と自分が同じ感情や考えになると単に言っているようである。言い換えれば、Aでは、他人の考えや感情に対する良し・悪しの判断の方に重きが置かれている。ここで、国語辞典のマニアックな話になるけれど、「同情」という言葉と共感の関係に付言しておこう。Aの辞典で見られるように、共感の意味を、相手と同じ感情になるということから、その通りという判断に重点を移したことによって、古くから知られている(元来共感に含まれていた)相手が感じている悲しさ・苦しみなどの否定的感情と同じ感情になる意味を表す言葉が足りなくなった。「同情」という言葉はその不足を賄う役を担っているようだ。共感という言葉について、50種ほどの国語辞典を調べた研究によれば、共感には、元来「同情」があてられていたが、時代と共に、我が国では判断を重視する概念が強調されるようになったため、「共感」と言う言葉が使われるようになった。そうした概念の進化への対応が、辞書によって、同情と共感という別な言葉として使い分ける、あるいは共感という言葉に二つの意味を多義的に含ませる形式に分かれたようなのである。

図2.辞書はコトバの培地

上での議論を振り返えって、今回の本題、共感と感情移入の関係の問題を考えることにしよう。上での語の意味に関する議論から、「共感と感情移入は別の概念である」ことはほとんど明らかではないだろうか。端的な違いは、「共感は他人と自分、つまり人と人の間の関係を指すのに対し、感情移入は人に限らない他者と自分の関係を扱っている」と言って良いだろう。辞書のレベルで分かるこうした明かな違いを、何故同じように思うのか、むしろ不思議な気がしないだろうか。心理学事典によると、感情移入はEinfuehlungの日本語訳だが、一方Einfuehlungの英語訳はempathyであり、そこで与えられる日本語訳は共感になっているようだ。そこに、共感と感情移入が混同する原因の一つが認められる。しかし、そうした詳細に立ち入る余裕はないから、本題に戻り、ここで話をまとめることにしよう。

”共感”は人と人の間の関係に限られるということを文字通り受け入れれば、“感情移入”という手段によって”共感”できる相手は人間に限定されることになる。このように、問題の範囲を狭め、感情移入の対象を人間に制限した場合には、共感と感情移入の間には問題はないのだろうか。端的には、例えば、他人の悲しみなどの感情に触れた場合、感情移入によって、相手と同じ感情になることができるとのか、が問題になろう。こうし基本的な問題に対して、哲学はNOと言うのである。そのワケを一言で言えば、他人に自分の感情を投射しても、それは自分がこうだろうといった想像にすぎないからだ、と。言い換えれば、他人の自律的な思いを想像によって把握することは出来ないと言って良いかも知れない。

こうした議論から、共感と感情移入は別の概念として扱うべしと心理学や哲学は説くのである。共感は珍し現象なのだろうか、それとも誰でも経験しているありふれたことなのだろうか。共感の本質は何か、といった問題に繋がるを議論する予定であったが、錯綜する言葉のジャングルの中で、形式的な準備に誌幅を費やしてしまった。

共感については、近年ミラー・ニューロンの発見を契機に脳科学の議論が加わり、新たな局面が拓かれようとしているとも言われている。この続きは年を改めて行いたい。

長島 知正      2017-12-31

 

付記

(*)A. スミス著、水谷洋訳、道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)、岩波文庫(上、下)、2003年。

原書は1759年初版である。著者A. スミス(Adam Smith)は英国で始まった産業革命の時期に国富論を表して、個人の自由な競争による自由経済の思想をひろめ、経済学の父と呼ばれる。ある意味で現在の資本主義経済の礎を創った人物である。だが、彼はそうした経済学の専門家ではなく、道徳哲学の教授であり、国富論に先だって道徳哲学の講義をこの「道徳感情論」にまとめた。彼はその主題にSympathyのを置いた。近代西洋の経済面における自由と個人主義を説いた人物が、社会における道徳の原理的基礎を考えていた事になる。この辺りに何があるのか明らかなのだろうか。なお、Sympathy は水谷訳で同感と訳されているが、同書での同感は共感と同じとみなすことが多い。なお、共感には、哲学ではSympathy が使われるようだが、心理学では、SympathyもEmpathyも使われ、統一されていない。