魅力、感性、そして共感 (3-1)

最近、“o o 力”といった言葉をマスコミで良く見かける。そうした一つに”共感力”という新しい言葉がある。マスコミに現れたからと言って、それが多くの人の支持を反映しているかは別と考えるべき事だが、どうもその背景に、感性より共感に関心を持つ人が増えているような気もする。共感の方が抽象的な感性よりイメージし易いせいかも知れない。知性から切り離された広い意味の感性にもようやく日が当るようになって来たのだろうか。歴史の脇道を歩んで来た感性にまつわる様々な概念は整備されないままモツレ、俄かに議論が進むことは無いだろうが、共感を巡る最近の話題はそうした関係をほぐす契機になるかも知れない。

共感と言えば、少し古いが、ビートルズやAKB48の公演に熱狂するファンを想像する人や、あるいは、白熱したF1レースの勝敗を分ける場面をTV観戦している時、車がコーナーにさしかかる画面に、TVの前で手に汗をかきながら、ドライバーさながら遠心力に逆らうように身体を傾けた経験を思う人もいるだろう。また、そうした汗にまみれる熱狂とは対照的に、日の当たらない暮らしの中で、つつましいけれど爽やかに生きる時代小説の主人公の振る舞いに思わず涙した体験を思う人もいるのではないか。

図1.綱渡り:見る人も緊張してしまう

このような譬え(たとえ)からも伺われるが、いわゆる共感と呼ばれる現象の幅は想像以上に広いようだ。共感という言葉が流布する一方、共感とは何か、その本質を把握することは容易でなさそうだが、ここでは、共感についてどんなことが理解できているのか、哲学との繋がりも頭に置きながら辿ってみたい。

とりあえず前回、日常的に使われる会話から、共感はどのような形で起きると考えられているのか、探ってみることにした。そこで、TV番組の視聴率を確保するために必要な事は何かという、新聞記事にあったTVプロデューサーの発言;「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できない」を取り上げた。 この記事に注目した理由は、この発言の中に、共感と感情移入という二つの概念の間には、「共感は感情移入によって得られる」という共感の起き方についての考えが端的に見られるからである。この考えは今日ごく普通の常識となっているように見える。だが、この共感についての”常識”は果たして妥当な考え方なのか、これが今回の検討したい課題である。

言葉のレベルで、共感と感情移入とはどのように繋がっているのか、前回、国語辞典で探った。だが、共感と感情移入に関する言葉の関係は捩(よじ)れ、矛盾が生じて先に進めない予期せぬ事態になってしまった。このような状況を体験すれば、理系の人ならまず十中八九、“だから文系の議論はついて行けない!”と言うに違いない。だが、一番の問題は、そうした言葉の混乱があっても、何事もないかのように見過ごされていることなのではないだろうか。国語辞典に見られるそうした混乱は、磨き上げられて展示された文化の裏側を見てしまったような気持ちにさせる。それはともかく、国語辞典に見られる語義上の詮索は止め、以下では視点を変えて本稿の問題に向かおう。

そのため、共感や感情移入それぞれの意味を掘り下げて検討し、その上で、両者の間の関係、特に「感情移入によって、共感が得られるか」という問題を考えることにしたい。便宜のため、前回引用した国語辞典(A)で与えられた共感と感情移入の語彙を再掲し、議論を進める。

先ず、共感は、

他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感

である。つまり、共感とは、他人の考えや感情をその通りだと受け止め、あるいは感じる事である。言い換えれば、「他人の思い(考えや感情)と同じ思いを持つこと」となろう。この言い換えによって、Bの辞典にある意味、“他人と同じような感情(考え)を持つこと”と重なっているのが分かる。

一方、感情移入は、

「自然や芸術作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象のものとして体験する作用。Empathy。」とある。なお、この語は心理学の用語と記されている。

これは感情移入の概念をコンパクトに説明しているとは思うけれど、心理学の用語と言うせいか、分かり易いと言えるだろうか。例えば、「その感情を対象のものとして体験する」という箇所はどのような意味だろう。

それに答えるため、感情移入に関する上の記述全体を眺めてみよう。ポイントは、感情移入は、「1)私にある体験をもたらす働き(作用)である。だが、2)その体験は、普通の私自身の体験とは異なり、対象のもとしての体験である」という事だろう。とすれば、”その感情”とは、自分の感情を対象に投射することによって、(自分の中に)生じた感情と考えられるから、それを対象のものとして体験するとは、自分に生じたその感情をあたかも対象が持っている感情と把握する体験、と理解される。

ここで、「私の感情を対象に投射する、つまり私から対象に移し入れる」というところが、感情移入における(私―>対象)という一方向性の特徴と言えるだろう。

なお、上に引用した国語辞典(A)では感情移入の対象を、自然や芸術作品などとし、なぜか人間を含めていない。経緯は不明だが、この項目の担当者が感情移入という言う言葉は、カントの流れをくむリップスの美学から始まっているという来歴に拘ったせいかも知れない。だが、その後の発展から見ればそれは絞りすぎで、Bの辞典にもあるように対象には人間を含めるべきで、本論もそのように考える。

ひとまずこれで、感情移入および共感について語の解釈はできた。けれど、その検証や、実際的観点から吟味がなければ絵に描いたモチだろう。そこで以下では、感情移入および共感と言う心的過程に対する心理学の解釈をまず「心理学事典(新版、平凡社)」に基づいて確かめる。その後、リップス自身の研究に関する専門書(*付記2)を参考に、リップスの感情移入の考え自体にある問題点も含め、共感の問題を全体的に検討することにしよう。

心理学事典によると、“感情移入”は;

・ドイツ人の美学・心理学者リップス(Lipps, T)が用いた用語ドイツ語Einfuehlungの日本語訳である。

・リップスは、感情移入の概念を「他者、自然界、創造物といった対象と対峙する自分を、その対象において客観化し、自分の定性を対象に帰属するものとして体験すること」と定義している。

・この例として同事典では、「秋の月が寂しげなのは、秋の末の寂しい自分自身の気持ちが自然界に投入されるから」を挙げて、感情移入とは「自然界や他人に自分の感情を知らず知らずに移し入れて、それら自身がその感情を持っているように感じること」と説明する。

・リップスの感情(定性)は、自我の思惟、判断、運動極めて広義なもの含み、また、自我と対象の間の心理的な交渉も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕むと考えられる。しかし、基本的には自分の側に生じている事柄が対象に移し替えられて認識されるという「自分―>対象」という方向が認められる。

・他方、共感は、一般に、あ)人と人の間で、い)主に感情に関して生ずる過程に限定され、う)その感情が他者から自分に移入・伝達されるもの(他者->自分)と考えられる。これらいずれの点でも、“共感は感情移とは相違している”。

図2.中秋の名月は、寂しげに見える?

なお、心理学事典には、共感と感情移入の関係は何故混乱したのか、経緯の一端が明らかにされている。つまり、”感情移入”は、既に述べたようにリップス(Lipps, T)が用いた用語Einfuehlungの日本語訳であるが、英語圏で使用されたEinfuehlungの英語訳empathyの日本語には“共感”という訳が与えられた、とある。この結果、日本語では感情移入=共感という理解(誤解)が生まれざるを得なかったのである(*付記1)。

 

以上が、感情移入(および共感)に対する心理学事典による解説である。これから、心理学事典自身や国語辞典Aにある感情移入の意味がリップスによる心理学(美学)に依拠していること、更に、本稿の前述した解釈もおおむね妥当と言えるようだ。また、感情移入という語が混乱した経緯もとりあえず分かった。さらに、感情移入と共感の関係について、少なくとも心理学事典の解釈に従う限り、互いに相違した概念であることも明らかだろう。

 

しかしながら、心理学事典の感情移入の説明には、あいまいで内容を明快に把握できないところが残る。その典型が、リップスの感情移入を解釈する例として挙げた、「秋の月が寂しいのはそれを眺める人が寂しいからだ」である。確かに、本来感情などない自然や芸術作品のような対象が、感情移入によって、それを眺める人のその時の感情が対象に投影され情感を帯びる。このような見方には、カントの美学の影響を受けた“自然自体は美ではあり得ない“、”美は人間が自らを貸し与える事で生じる”といった美学思想が背景にあると言われている。

その意味で、リップスが当初考えた感情移入は、自然や芸術品を鑑賞する理論にふさわしいと言えるものだろう。だが、専門書によれば、リップスはまもなく人を含めるように感情移入の対象を拡張した。それでも、感情移入はその時の人の思い(考え・感覚・感情)を単刀直入に対象に投影するだけでよいのだろうか。心理学事典も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕んでいると思われると留保をつけながらも、自分の中に生じている事柄を、自分―>対象へ移し替える、“投影”に極めて近いとしている。この“生じている事柄”はあいまいだが、少なくとも感情は含まれていよう。

もし、感情移入が自分のその時の感情などを対象に投影する(移し入れる)ことと理解するなら、他人と同じ感情を持つ共感の関係などといった問題はそもそも起きないのではないか。では、今日広く信じられるようになった「感情移入によって、共感が得られる」という常識はどのように生まれただろう。

(以下、次回(3-2)に続く)

 

長島知正  2018-02-13

*付記1:なお、現在では、共感=>Sympathy、感情移入=>Empathyを当てるのが普通と思われるが、上記の経緯が明らかにされても、心理学の領域では奇妙なことにEmpathy を感情移入と共感の両方に当てている。

*付記2:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p.225.