魅力、感性、そして共感 (3-2)

前回説明したように、リップスによる“感情移入”は元来自然や芸術作品を対象とした美的観念のための態度で、“共感”とは異なる概念である。つまり、当初考えられた感情移入は、自然や芸術作品を対象として鑑賞する際、鑑賞者のその時持っている感情を対象に投射して生じる感情を自然や作品のものとしようとする。こうした感情移入は、他者と同じ感情を持つという共感とは明かにかみ合わない。にも拘わらず、感情移入が共感と何らかの関係を持つようになるには、そうなる契機があったハズだ。すぐ想像されることは、実際リップスもそうしたように、当初の感情移入の対象を人間にまで広げることだろう。しかし、感情移入の対象を人間を含むように拡張した場合、「“感情移入”の意味自体が変わらざるを得ない」ところに、その後の感情移入を巡る議論を混迷させた一因があるようだ。本稿ではそうした次第に立ち入ることにする。

 

まず、課題を具体的にすることから議論をはじめよう。

感情移入の対象を無生物とする場合、対象は元来感情など持っていないから、鑑賞する人(私)は対象にどんな感情でも勝手に投射することは可能だ。だから、そこで共感などという事を考えるのはむしろ奇妙にさえ感じる。一方、人間が対象になる場合には、その人(他者)には感情があり、同時に、その人を見ている別の人(私)の感情もある。この場合、私の感情を移入しても、一般に対象である他者の感情と一致することはない。だからこそ、“他の人(他者)と同じ感情をもつ”という共感の現象が注意を引くことになった訳だ。実際、現在の共感と意味がズレテいるが、共感の語源とされる、「共に苦しむ、共に感じる」を意味する“Sympathy“はギリシャ時代には既に使われていた(付記1)。こう言うと、”共感は如何にして起きるのか”という疑問は関心をもたれて当然のようだが、実際の西欧の歴史は違う道を歩んだ。“個”に絶対的とも言える価値を見出した西欧的近代化の影に隠され、その疑問は議論されても、大きなまとまりになることは無かった。

そうした流れの中で20世紀初頭、「共感は感情移入によって得られる」という“画期的見方”が美学・心理学分野に現れると、そのアイディアは隣接分野から一挙に広まったらしい。共感(や感情移入)の話題は現在も、人間の本性を巡る問題として議論されているが、以下では、今日一つの常識となった「感情移入によって共感が得られる」という課題に絞って考える。

そのためここで、語の意味の問題を一度離れ、共感の問題の構造に注目しよう。例えば、事故でケガをした人が痛そうにしている時、それを見た人はケガをした人に“ダイジョブ?”と声をかけたりするだろう。古くから知られた、共感の原型と見なされる同情は、こうした不運な事態を経験している他者(A)を見て、相手を気遣う人(B)の反応である。

図1.痛そうにしている人を見るとどうして同情するのか?

共感の現象は、この例のように見かけは単純でも、複数の過程が関与している。問題はどのような心的過程が関わっているかだろう。心理学事典よれば、上の例の場合、共感は以下の過程として“定義”される:

  • (1)ある人(A)がけがをして痛そうにしている時、
  • (2)(A)の様子を認知した他の人(B)が、(A)と同様な感情を体験し、
  • (3)(B)は自分に生じた感情と類似した感情を(A)の中で起こっている(だろう)と認知する。

共感の問題を理解するためには、「上の(2)、(3)がどのようにして起こるか」、言い換えれば、ケガもしていない人が、どのようにして負傷した人の痛みを知り、相手を気遣うという反応をするのか、が問われるが、心理学事典にハッキリした説明は与えられていない。そのため以下で、一つの説明を試みることにする。

まず、上記の(2)、(3)を成り立たせる基礎について考えよう。すると、「他者が体験している事柄を、自分のものとして体験する」という事柄が該当するように思われる。ここで便宜上、他人の体験を、自分のものとして体験することを広義の”追体験”(付記2)と呼ぶ事にしよう。もし、このような追体験(広義)の働きがなければ、傍観者として他者の苦しみは理解できても、自分の苦しみとして感じられようにはならないように思われる。その意味で追体験(広義)は“共感”に深くかかわっていると見られる。

ところで、共感の要素である(2)、(3)を具体的な“追体験(広義)”の形で表す場合、次の常識的な形式が考えられよう:

  • (a)他者の示す様子を知覚する(他者―>自分)。その様子(の認識)から、
  • (b)自分に昔起きた同様な体験が想起され、自分の中に苦しかった感情が生じる。
  • (c) (b)で想起された体験から、きっと他者も苦しいに違いないと類推する。
  • (d) (c)の類推結果を他者に移し入れ(感情移入)(自分―>他者)、他者が自分と同様な感情を持っていると思う。

 

上の(a)~(d)を見ると、(d)に、自分の感情を他者に移し入れる過程があり、これを“感情移入”と見ることも出来そうである。すると、議論の出発点である共感の問題にさかのぼってみると、その中にリップスによる始原的な“感情移入”に形式的に対応する過程 (d)が現れていることになる。しかし、同じ“感情移入”という言葉を使うとしても、自分=>他者へという向きが保たれているものの、そこで移し入れられる内容は違う。リップスの始原的な感情移入では、対象に自分(鑑賞者)のその時の感情が投射されるのに対し、ここで他者に移し入れられるのは、自分が追体験(広義)によって生じた考え・感情である。ここでは勝手な感情を投射してはいない。

図2.映画に感情移入

以上、大変大急ぎであったけれど、心理学事典であいまいに説明されていた内容を補い、その上で、“感情移入”と共感の関係も一応定められたようだ。

 

今までの共感についての議論を振り返ってみると、自分が他人と同じ考えや感情を持つことを共感と考えれば、共感では、「どのようにして他人の考え・感情が、自分と同じであると知ることが出来るのか」という問いが問題の中心にあることが分かる。言い換えれば、それは、外部から直接知ることが出来ない他人の感情などを如何にして知るのか、という”他我認識”問題に入ることになる。従って、共感の要素である(2)、(3)、あるいは、それらを他者の体験を自分のものとして体験する追体験(広義)として表した(a)~(d)は、他我認識と本質的に重なっていると言える。

では、前回からの課題「感情移入によって、共感が得られるのか」についてはどうなるのか。答えは「否」である。何故なら、上の共感の仕組みが依拠している、「他者の感情が自分の感情から類推して得られる」という推理が論理的に破綻しているからである。つまり、そこで使われた論理(類推)は、検定する方法が原理的にないから、どんなことを言ってもOKになってしまうのである。本稿の例について言えば、“感情移入”で移し入れた感情(d)が他者の感情(1)と一致するとは言えないのである。

 

結論をまとめよう。「感情移入によって、共感が得られる」という“常識”を論理的に示すことは、他人の感情を自分の体験に基づいて推測する限り、不可能である。これが今回の結論であるが、もちろん共感が起きないと言っているのではない。人のこころの内実を担う痛みや感情は、現在の科学によってもそれを外から直接捉えることは出来ない。そのため、我々は日常生活の中で、外に現れた振る舞いや言葉から、他者のこころに起きた事柄を、”何よりも良く分かる”自分の体験に基づいて説明しようとする。「共感は感情移入によって得られる」という常識もそうした一つで、本論で議論したようにそれは論理的に成り立たないと言っている訳である。

しかし、大急ぎで次のことを付け加えておかねばならない。上の結論を導いた方法は近代科学のものであり、「論理的に正しくても、納得できるかは別のこと」として残っている、と。

そうした意味で、共感は“常識の衣”をかぶった、ヤッカイナ見方に囲まれている。そこには、“(他者の)感情の意味”の問題をはじめ、AIの発展に深くかかわる課題もある。今回、ようやく共感の問題の入口に到達したが、多くの地続きの課題は別の機会に取り上げていきたい。

 

長島 知正   (2018-03-02;(文言修正)2018-03-04)

*付記1:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p225.

付記2:追体験は、一般に、他者の体験を(後から)辿ることによって、自分の体験として把握するという場合に使われるが、本稿の広義の追体験では、他者の体験を辿るのではなく、むしろ自分の過去の経験を辿って、他者が経験している事柄に近い体験を探索している。