共感の視点(序説)

共感に関する基本的な事柄として、前回までに1)国語辞典で扱われている意味、および、2)日常的に使用されている「感情移入と共感の関係」について、検討した。しかしながら、例えば、前回取り上げた「共感は感情移入よって得られるか」という問題は論理的に成立しないという結論を導いたけれど、実際には新聞などでも相変わらず、「感情移入によって、共感が得られる」という論理はいたるところで使われている。何故なのだろう。議論が不完全なせいなのか、あるいは別の理由があるからなのか。いずれにしても、共感についての前回までの議論には消化不良な印象が残ったようだ。

そこで以下では、共感について不足している課題の議論を補う一方、新たな視点から、共感の現象を掘り下げてみることにしたい。

 

先の冬季オリンピック・パラリンピックでは、わが国は多くのメダルを獲得し盛り上がりを見せた。昔ほどではないにしても、金メダルを期待される競技の放送は多くの人が実況放送を視聴しているようだ。そこでは、メダルをかけて争う日本選手を自然に応援するという感情、一種の共感の働きが見られる。私たちは普通、知らない国の選手の競技には興味を持たないが、同胞選手の競技に関心を寄せる。

とは言え、金メダルを争った小平奈緒と韓国の選手(李 相花)の友情も話題となった。これは、先の同胞意識(としての広義の共感)とは別な、国の違いを超えた、スポーツマン個人の思い遣りとして共感を呼んでいる。これらの例にも見られるように、一口に共感と言っても、そこには相当違うものが含まれ、全貌を把握することは簡単でない。 共感を定義することは現在も未だ閉じていない課題と思われる。

図1.冬季オリンピック

本稿の目的は、永い歴史と広がりを持った共感への序説を兼ね、今後取り上げる予定の概要をスケッチすることである。今日、共感という言葉は普通、苦しみや悦びに関する同じ感情を他者と共に持つという意味で使われているが、その起源は古代に遡ることが知られている。例えば、西欧では、アリストテレスが哀れみに注目している。アリストテレスが考えた“哀れみ”の意味は“同情”とほぼ重なっているようだ。また同時代に、仏教や儒教の思想で、それぞれ“慈悲”や“哀れみ”が重要なものとされてきたことも興味深いけれど、ここでは、共感に関する古くからの議論に大きな影響を与えたと思われる、アダム・スミスによる“共感論“を一つの手掛かりとして、次回からの議論の準備を進めていきたい。以下では、今後取り上げるおおよその流れを説明しよう。

 

スミスは、18世紀産業革命の影響が現れ始めた英国グラスゴーで“国富論”を著し、経済学の父と呼ばれている。彼の経済理論をどれほどの人が理解しているかは別にしても、国富論の名は誰でも聞いたことがあるに違いない。しかしわが国では、彼が国富論の前に、人の道徳は感情のSympathyを基礎に成り立つとして、“Theory of Moral Sentiments”(日本語訳、道徳感情論、上・下、水田 洋訳、岩波文庫)を著したことを知る人は多くなさそうだ。この辺りの話は、劇的な文明化を150年という短期間で遂げたわが国では、特に馴染みにくいものなのだからかも知れない。

そのせいかは分からないが、わが国で“人間とはどういうものか”といったような基本的な議論に接する機会は少ない。そうした議論はいくらしても、“それが愛と言うものよ!”という寅さんのセリフの方が好まれる現実は変わらないでしょ、という嘆き声も聞こえるが、それは、我が国では魅力ある議論が少ないからという見方は偏見だろうか。

 

”人間がどんなに利己的なものと想定されうるとしても、彼の本性には、彼に他の人びとの運不運に関心を持たせ、彼らの幸福を、それを見る喜び以外何も得るものがないにも拘わらず、自分に必要と感じさせてしまうというもう一つの原理がある。それに属するものに、哀れみ、あるいは同情がある。”

道徳感情論の冒頭に述べられたスミスの言葉である。

スミスはこのように同情に注目するけれど、同情自身を問題にするためではない。彼の目標は、人間の行為が適切か不適切か判定するために同情と言う感情を使うことである。スミスの考えでは、他人のある行為が適切なものであるか否かは、その行為の動機となった感情が、その感情を引き起こした原因と釣り合っていることで判断される。つまり、他人の行為の動機となった感情を、その原因からみて適切であると判断することにより、その行為自体が適切であると判断する、というのである。こうしたスミスの道徳判断の考え方には、他人の感情が適切であるかどうかを判断するために、自身の持つ対応する感情を用いるよりほかないという前提があると言えるだろう。

Theory of Moral SentimentsのキーワードがSympathyであることは誰にも明らかなのだが、道徳感情論の訳ではSympathyに対して”共感”ではなく“同感”が当てられている。そこには留意すべき点があるようだ。スミスのSympathy を単に“共感”と言う場合もあるけれど、同感を共感と区別した方が適切な時もある。道徳感情論でのSympathyの訳語としては同感がふさわしい。何故なら、上で触れたように、彼はSympathyを行為の適切性を判断(是認、否認)するという文脈で用い、内容を単純な同情や共感から大きく逸脱させているからだ。

そうした内容のズレに呼応するように、スミスは、感情移入に“類似した“概念として、“境遇の交換”という概念を導入した。これは、T. リップスの感情移入と同様、共感を受動的ではなく能動的なものとして捉え、同時に、対象を人間以外のものにも拡げたと受け止められている。その効用は情報メディア隆盛の今日決して小さいものではない。しかし、スミスの”境遇の交換“が許容される範囲やリップスの感情移入と異同については、必ずしも十分検討されてはいないようだ。

図2.綱渡りは見ているだけで疲れる

スミスの道徳感情論には多くの独創的な考えが示されている。以下そのいくつかを簡単に触れてみよう。共感の典型例として、スミスはサーカスの綱渡りとそれみる観客の身振りを挙げていることもその一つだろう。彼は、綱渡りする当事者と観客の間に現れる身体的な同調動作、言い換えれば身体的共鳴に着目し、これが共感現象の、十分明証的に説明は出来ないが、明らかな観察によって証明される例であると言う。何故なら、観客は“境遇の交換”によって、綱渡りしている当事者の立場に立ち、その気持ちになって、身体をよじりバランスをとるのだ、と言いたいのである。

このスミスの議論の筋道にこそ、「感情移入によって、共感が得られる」という今日常識となっている原型があるように思われる。ならば、その前提は成り立つのだろうか、また、感情移入と境遇の交換は同じものか、等々を検討しなければならないだろう。

少し考えると、綱渡りの問題は、共感の成り立ちに関する問題も投げかけていることが分かる。その一つに共感と模倣の関係の問題がある。旧聞になるが、脳科学から、ミラーニューロンという神経細胞が模倣の生理的基盤に深くかかわっていることが指摘された話題を知っている人も少なくないだろう。

哲学分野で、人間の自他識別の問題に関わって模倣が議論されることがあるが、スミスは道徳感情論の中で、自分の行為の道徳判断の原理として、「他人は自分自身の行為をみるための鏡」と述べている。これは、20世紀のラカン精神分析学における、自己の鏡像に関する「鏡像段階」論の先駆けとなる見方とも言え、スミスの人間を見る目の確かさを現わしているようだ。

 

今日、共感を議論する狙いの一つは、スミスの言葉を借りれば、人間の本性とは何かについて、人間は本来自らのことを追求する以外に、他者を思い遣る性質、つまり利他性を考えるところにある。とは言え、”哀れみ”や”同情”という話から始まる共感の議論は、それらの言葉が今日どう受け止められているかを考慮しなければならないのかも知れない。つまり、「同情なんかされたくない」という言葉が時代の気分を特徴づけている、と言われる今日、哀れみや同情は最も嫌われるコトバだということをどう考えるのか、である。

好き嫌いは個人の主観だから、確かに時代の気分を変えることは困難だが、哀れや同情という言葉について、適切な知識を補うことは出来る。言い換えれば、言葉の意味は変化しているという事実に注意したいのである。そのような言葉の典型が、哀れや同情である。とりわけ、哀れという言葉ほど、見事に意味を変化させた言葉も珍しいだろう。詳しくは辞典などをご覧いただきたいが、哀れは、現在、気の毒で見ていられないような、みすぼらしく悲惨な様を指すものと受け取られているけれど、元来全く違っていたのだ。

端的に言えば、”哀れ”の原義は、深い感動を感じたときに発する感動詞で、そもそもは,称賛や悦びを表していた。それが後世、“アッパレ”という褒めたたえる言葉が現れて、現代語として引き継がれた。その一方、哀れという言葉の意味は時代と共に悲哀や哀れみという対照的な意味で用いられることが増え、今日の使い方に繋がったのである。この他、しみじみとした風情といった意味でも哀れは使われる。同情についても、少なくとも戦前は“情を同じくすること”という、現在の共感と同様な意味で用いられ、否定的な感情を指すものではなかった(文献1)。

 

哀れは特別な日本語である”。150年ほど前まで、わが国で最も基本的な心情を現わす言葉が「もののあはれ」であり、そこに、(万物一体といわれる)わが国の感性の特質が現わされている、といった先達の指摘(文献2)を付け加えておきたい。

筆者のような理系人間にとって、「もののあはれ」の感性を取り戻すことは、恐らく出来ないだろが、少なくとも、そこに着目して、現在、西欧近代の美学に始まる感性と伝統的なわが国の感性を見比べることは無意味でないと思うからである。

次回から、こうした共感の広がりと成り立ちをめぐる問題を様々な視点から検討してみたい。

 

長島 知正    (2018-04-14、加筆;2018-04-17)

 

文献

1.共感の思想史、仲島 陽一、2006、創風社

2.知の構築とその呪縛、大森壮蔵、1994、ちくま学芸文庫