共感の視点 (3) 

共感の視点(3): 「見る」、「なる」、そして、「なって見る」

前回のコラム「共感の視点(2)」では、スミスのSympathy の概念とその仕組みの骨子を紹介した。スミスのSympathyに対して日本語では共感あるいは同感が使われ、訳語が未だに定まっていない。このような基本的訳語の不統一は大きな問題だが、以下ではとりあえず、感情や情動を対象にする時は共感、更に知性や理性の働きが含まれる場合には同感を用いることにする。ここではスミスのSympathyに同感をあてるが、彼の共感論には単純な感情・情動の働きを越え、理性的と言える働きが明らかに含まれているからである。

 

  • スミスの「(想像上の)境遇の交換」

スミスは、人の行為に対する善悪の判断、つまり道徳的判断がどのように行われるかを考える時、同感”を基盤に据えた。 彼によれば、ある行為の善悪を考える場合、行為の動機を与える感情だけではなく、その感情を引き起こした原因・出来事を考慮する必要がある。そして、善悪の判断は、行為を動機づける感情が(その感情を産んだ出来事などの)原因に釣り合っているかという基準によって行われる、としたのである。その際、動機づける感情と原因が釣り合っているかを決めるのは、もちろん当事者ではなく、一般には、出来事を見ていた第三者(他人)の感情である。

例を一つ挙げておこう。今、子供が路上で大声をだして泣き叫んでいるとしよう。それに対し、傍らにいた他人(第三者)はどういった反応をするだろう。普通なら、何故泣いているの?と、子供にその理由を尋ねるのではないか。 そして、もし泣いている原因が、ゲームに夢中で、そのため石につまずいて転んだと知ったら、傍らの人は、子供は転んだ苦痛によって泣いているにしても、その原因(“転ぶ”=“痛いという感情”を生んだ原因)は当人の不注意だから、子供(の感情)に共感しないだろう。従って、泣き叫ぶ子供の行為も是認できない。だが、もし、原因が子供の肉親の死だと知った場合はどうだろう。その場合は、子供の悲しみに共感し、その行為を是認するのではないか。

このように、人の行為に対する判断はその当事者が置かれた立場や状況などの条件に依っている。言い換えれば、スミスが考えている同感は、“条件付き”、つまり条件付き同感と言えるのである。

      図1.人は”条件付き同感”で判断しながらメディアを読む

当事者の行為の是・否判断は、結局、行為を動機付ける感情を生む原因として状況を正しく認識することがカギになる。その原因を詳しく知り、正しく理解するために、スミスが考えたのが、前回のコラムでも紹介した、「(想像上の)境遇の交換」と呼ばれる方法である。

上の説明からも伺えるが、スミスの同感論は、様々な感情が知性と組み合わされて成り立っているように感じさせる。従来一般に、感情と知性や理性は対立すると捉えられてきているから、彼の同感論の方法は立ち入って吟味する価値がありそうだ。ここでは、18世紀中ごろに提案された「(想像上の)境遇の交換」の方法が、その後の近代化の進展の中で、どのように受け入れられてきたかを通して考えてみたい。

 

  • “(想像上の)境遇の交換” と 視点の働き

結果から遡ってみると、スミスの同感論の影響圏に入る分野の例は簡単に挙げられる。例えば、(精神分析領域の)心理カウンセリング、また(認知科学領域の)心情理解や“物語(文章)理解”である。他にもあるだろうが、ここではまず、心情理解や物語理解の問題を取り上げる。

 

前回説明したように、スミスは、“受難者と観察者の境遇の交換”から同感は生じると考えていたが、以下では、その”境遇の交換”という方法が何故心情理解や物語理解の問題に影響を持っているか、まず背景から始めよう。

「想像上の境遇の交換」は、Imaginary Change of Situationsの訳であるが、わかり難いところがある。特に、Situation は、境遇の他に、立場、状況、などの意味があるが、指示している焦点がどうも合わない。これらの言葉はどれも、人間を取り巻く外的ありさま(状況)を指しているが、境遇と立場や状況には、指示する対象(ありさま)に当人の意思と無関係に定められているか、そうでないかの違いがあるせいだろうか。いや、それは本質ではないだろう。

「境遇の交換」の問題性は、境遇の語義から、境遇とは当人の周りの状況であって、当人そのものは含まないと考えていることからくるのではないだろうか。以下では、必要に応じて、境遇を立場や状況と読み替えながら問題点を掘り下げよう。

スミスの“境遇の交換”が方法として注目されるのは、それが漠然と相手の立場に立つという以上の事を含意しているからだろう。

「想像上の境遇の交換」は、互いの立場を入れ替え、相手の立場に立つことであるが、相手の立場に立つということの“意味”を、以下では単刀直入に“他者”になってみることと解釈してみよう。つまり、通常、私から見える相手(他者)は自分の外部にいる対象であるが、“境遇を交換する(立場を入れ替える)”ことにより、対象(他者)そのものになってみるのである。言葉を変えて言うと、通常、私に置かれている“視点”を、境遇の交換により、私から相手(他者)に移し替える、ことに対応する。

つまり、受難者(相手=他者)と観察者(私)それぞれの視点を入れ替えれば、(対応した)各々の視点からの“眺め”を得る事になる。もし、観察者(私)に着目すれば、観察者(私)は、その視点を受難者(他者)の視点に置き、そこから周りの情景や状況(出来事)などの“眺め”を“見る”ことになる。

 

  • “見る”、“なる”、そして、“なって見る”

 視点というコトバは、一般的な立場や枠組みとして、思想や世界観を指す事もあるが、“想像上の境遇の交換“の場合,何かをどこかから見ているという時の“どこ“という起点の位置を指している。とは言え、その視点は想像上のもので、何かを実際に見ている訳ではないから、視覚や知覚の場合のような実際に目で”見る“こととは異なると考えねばならない。だが、目を介さないで”見る“に相当した働きは経験的にはよく知られている。目を閉じても、実際、ある程度は眼前にあった景色を”見る“ことは出来るし、色付きの夢を見ることもある。

しかしながら、そのような眼前にない”もの“を見るという問題やその際の視点の働きを何よりも良く説明するのは、文学(芸)作品の理解、とりわけ心情理解という分野だろう。私たちは、そこでの視点の働きを理解出来なければ、易しい文章の国語も理解できない。AIで話題をよんだ新井紀子さんも最近警鐘を鳴らしているが、国語の読解力は理系・文系に関わらずすべての基礎である。視点の働きは、知覚や情景理解などの認知科学や物理学などに繋がっていて、その役割は想像以上のようである。           図2.国語の読解力は全ての基礎

ところで、文学作品を理解するためには、読者は作者が作り出した世界の中に入っていかなければならない。特に、作品中の登場人物の気持ち、感情の理解が大きな役割を果たすことは言うまでもないだろう。その際、作品を深く理解するには、読者は視点を適切に設定し、更に移動させるという事を意識的に行うことが必要になる。

ここで、文学作品の理解において視点を設定するということは、どんな意味をもっているのだろう。それは、知覚の問題のように単に視点の位置を空間・時間的に移すという事ではなく、読者は作品中の誰かの気持ちを推定し、それを自分が持ってみること、言い換えれば、他者に“なってみる”ことである。この場合、他者とは実在する人間に限らず、作中の登場人物、あるいは人以外の動物なども含まれる。文学作品の理解におけるこのような視点の働きを認めれば、スミスの“想像上の境遇の交換“と文学作品の理解の問題の繋がりが見えてくる。

 

 スミスは同感は“想像上の境遇の交換”から生じる、と言ったが、ここで、「想像上の境遇の交換」に関するスミス自身の言葉を引き、上で述べた議論との繋がりを確かめてみよう:

空想の中で我々(観察者)が受難者(当事者)と立場を取りかえることによって、彼の感じていることを心に描いたり、それによって作用されたりするようになるのだ。

(中略)

受難者に同感する場合、観察者は何よりも彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇に置き(①)、受難者におきる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身でハッキリ考えるように努めなければならない。彼は当事者のあらゆる事情を、その最も細かいすべての付属物とともに取り入れなければならない。

 

上の文言は、具体的に境遇の交換という方法の特徴を説明していると考えられるが、①の表現に少し曖昧さがあり、解釈が分かれる可能性がある((*):付録参照))。問題は、彼自身を相手の境遇に置きという箇所の解釈として、彼(観察者)の視点を相手(受難者)自身に移して、そこから受難者の周りの眺めを想像する、として良いかどうかがである。

もし、良いとすれば、この方法は、視点を相手に移しその人物に“なって”みて、その人物の周りの世界の眺め(その人物を取り巻く環境=情景、出来事)を具体的にイメージすることで、その眺めから相手の心情を把握できる(という推測になる(まとめ(**)参照)。

そうでない場合は、観察者の視点の位置は相手(受難者)の境遇に置かれるため、その視点からは受難者を取り巻く外的状況(眺め)をイメージしても、受難者の内部に及ばないと考えられる。従って、受難者の眺めに彼の内面・心情の情報が反映されないから、その眺めからは、受難者の心情を把握(見る)ことは出来ない事になる。

 

上述した「想像上の境遇の交換」の議論は、ある意味で思考実験あるいは理論的に単純化した考察である。これらの考察が実際に適用できるかは別に考えなければならない。実際の作品の理解などを通じて本コラムの議論を吟味することは、次回以降に回すことにして、以下では、とりあえず、今回分かったことや課題をまとめておこう。

 

  • まとめ

・通常、“相手の立場になってみる”と解釈されているスミスの「想像上の境遇の交換」は、必ずしも指示する事態が明快ではない。本稿で、「想像上の交換」を“相手自身になってみる”という解釈する場合、文芸作品の理解や心情理解の世界に繋がることが分かった。

・(**)同感するためにスミスが考えた「想像上の境遇の交換」の方法では、相手(他者)からの眺めをイメージすることで、当人の感情を分かる(推定できる)と想定をしている。ここで想定されていることは、例えば、AさんからBが去っていく時、AさんからのBの見えが、下を向いて所在なさそうな後ろ姿なら、去っていくBにはきっとさみしい思いがあっただろうという推定や、この推定を第三者に想像させること、さらには、同じ対象でも、異なった視点からは違った眺め(見え)を生む、「あばたもエクボ」のような事象が該当していると思われる。しかし、そうした推測の形式の妥当性は、物語の理解のような場合に認められるとしても、一般的には仮説に留まる今後の課題だろう。

・社会学などで、スミスの「想像上の境遇の交換」による方法は、他者の共感的理解(Empathic Understanding)と呼ばれている。共感的理解も含め、スミスの共感論は感情と知性の重なりという点に大きな特徴を持つ。その結果、スミスの同感は条件付き同感になっていると考えることも出来よう。メディア全般に同感の対象が拡大している今日、私たちはどんな情報にも、ごく当たり前のように知性を働かせると同時に感情をのせ、選択的に聞いたり読んだり反応している。言い換えれば、これは条件付きで同感していることであるが、そうした反応の起源がスミスの「想像上の境遇の交換」にある可能性は高い。

・スミスの「(想像上の)境遇の交換」は明かに同感のための手段あるいは一つの段階であって、同感(共感)そのものではないことは明らかだろう。感情移入することが共感することではないのは、同様な事情による。

 

長島 知正  2018-06-18 (06-20;まとめ(**)加筆修正)

 

付録(*)

・語義から考えると、「彼自身を相手の境遇に置く」は「境遇を交換する」ということではない。「境遇を交換する」とは、彼と相手各々の境遇を入れ替えることを意味しているからである。また、「彼自身を相手(他者)そのもの」と入れ替えること、つまり“他者になる”場合とも違うと考えられる。