共感の視点(4)

共感の視点(4); 寅さんとスミスの同感

 

ご存知「わたくし、生まれも育ちも葛飾 柴又、人呼んでフーテンの寅と発します」という寅さんの口上で始まる映画「男はつらいよ」のシリーズは、平成のはじめまで続いたが、昭和の時代を代表する娯楽作品の一つと言って良いだろう。近年娯楽は大きく変わってきたが、いずれにしても客を楽しませることで成立している。映画も、それを見ている観客が楽しめるかどうかが肝心である。だが、映画にせよスポーツにせよ、観客とはおよそ身勝手なもので、感動したがって安楽椅子に収まり好きな飲み物など飲みながら見ているのだ。A. スミスは、「人はどんなに利己的なものであろうとも、」と言って、彼の同感論を語り始めたが、そうした観客が作品を楽しむ要件は何なのだろうか。ここでは、共感(スミスでは同感)を的に考えてみる。

 

前回のコラムでは、スミスが同感するために必要とした「想像上の境遇の交換」は、“なって見る”という視点の働きを導入することによって、文芸作品などの心情理解の問題に繋がることを示した。しかし、それは思考実験的な議論で、具体例を何も示していなかった。そこで、今回何らかの具体的な作品を取り上げ、前回の視点論の議論がどのように同感に影響を与えるか検討しよう。

ここでは、映画寅さんシリーズの作品を取り上げるが、寅さんの映画を選んだのは単なる思い付きで、スミスの同感論に入る代表的な作品という事ではない。と言っても、寅さんのシリーズは昭和という一昔前の時代だが、“国民的支持”があった作品である。以下では、国民的と呼ばれるほどの広い共感が、寅さんの映画作品のどのようなところから生まれたのか、視点の働きを介して考える。

 

以下で取り上げる作品は「男はつらいよ寅次郎紅の花」(監督・原作山田洋次)である。ご存知の人も多いハズだが、念のため、まずは寅さんの映画シリーズおよび第48回作品「男はつらいよ寅次郎紅の花」のあらましを述べておくことにしよう。

フーテンの寅が、あちこち旅しながら”テキや商売”をして歩く、“男はつらいよ”シリーズは、「わたくし、生まれも育ちも葛飾、柴又、人呼んでフーテンの寅と発します」という寅の口上と共に、昭和の後半から平成の初めにかけて国民的な人気を集めた、いわゆる大衆娯楽映画である。1996年製作の第48回「男はつらいよ寅次郎紅の花」でシリーズが終わったのは、寅さん役の渥美清ががんで亡くなったためである。シリーズには毎回寅さんが心を動かされるマドンナが登場する。次々登場するマドンナに寅はすぐポーッとなるが、片思いで終わる。マドンナはほとんど毎回変わるが、浅丘ルリ子演じる旅芸人の歌手リリーは例外である。最終第48作目のマドンナもリリーである。最終回では、リリーとついに結婚かと思わせる同棲生活をおくるが、フーテン暮らしの寅は結局生涯結婚はしなかった。以下は、最終回「寅次郎紅の花」のあらすじである。

 

最終回の舞台:1996年は阪神・淡路の大地震があった年だが、映画の冒頭、震災のボランティアとして活躍している寅の姿がTVニュースの画面に現れ、くるまやの人達を驚かせる。くるまやの一員に寅次郎の妹さくらの子・満男がいる。満男には密かに想いを寄せていた泉(いずみ)がいた。しかし、内気な満男が煮え切らないでいるうち、泉に地元の医者との結婚話が急に進む。結局、満男は泉の結婚式当日大あばれして、式を壊してしまう。関係者にコテンパンにやられ、やけ酒でベロベロに酔った満男はたまたま来た夜行列車に乗り鹿児島へ、更にそこから船で奄美群島の島へたどり着く。たどり着いた島には、なんとリリーの家があり、そこに、リリーと夫婦同然の顔をして暮らす寅がいた。

図1.映画の世界に共感!?

 

以下、作品の後半、寅とリリーや満男など、寅さんを取り巻く人達の間でなされるいくつかの重要な場面に注目する。そうした場面で、観客(視聴者)の視点の位置がどこに置かれ、また登場人物の間を移動していくのか、また、それが同感にどう影響しているか考えよう。

 

場面1

満男は泉の結婚を妨害したことを悔いて、反省しながら、地元の漁師を手伝って暮らしていた。 ある日、寅は満男に、リリーがきこえる前で、泉の結婚について説教を始め、

①「何故、泉の結婚を祝ってあげなかったのか」、

「男というものは引き際が肝心なの」

などと寅の美学を得意げに聞かせる。

一方、しばらくこれを黙って聞いていたリリーは、突然寅に向かって、

②「女は男からハッキリ言ってほしいの」、

「きれいごとなんかじゃないの」、

「男は卑怯!」

など罵詈雑言を浴びせ、満男を誘って、“島唄”をうたいながら飲みに行く。

③ 寅は、その後姿を黙ってみつめる。

 

視点の動きと働き:

以下、映画を視聴者・観客の標準的な視点の動きを記述してみる。(言うまでもないが、映画の見方は自由だから、ここで述べる以外にも当然ありえる。)

観客の視点は、①では満男に説教する場面で寅に置かれるが、その寅のセリフを聞いて、堪えられなくなって感情を爆発させるリリーに移す(②)。観客は、リリーの視点に立つことにより、リリーになって、寅のことばや様子を見て、二人の間のすれ違いや、そこから、寅を想いながら、通じないリリーの心情を実感として理解できる。こうして、観客はリリーの気持ちに同感するのではないか。

この場面で、特に②におけるリリーの心情を考える時、観客を観察者に、また、リリーを当事者に対応させれば、スミスの「仮想的な境遇の交換」の具体例になることは、上の説明から明らかだろう。また、続く場面(③)では、無言のままリリーの後ろ姿を眺める画面から、観客は寅に視点を移し、そこからリリーの気持ちを想像して、寅の心情がどんなものかを推し量ることになる。こうした主要当事者の間の視点のやり取りを通じて、観客の登場人物への心情の理解は深められる。

 

場面2:

医師との婚約を解消した泉は、くるまやで満男が奄美の島にいることを聞き、満男の真意を確かめるため島を訪ねる。

満男の気持ちを問いただす泉に対し、満男は「愛してる」と不器用に告白する。互いの気持ちが通じて有頂天の泉と満男を前に、寅は、

①「全ったく、無様だね!」

と啖呵(タンカ)をきるように言うが、一方リリーは、涙を浮かべて

②「若いんだもの、いいじゃない」、

「わたしたちとは違うわ」

とつぶやく。それを聞いて、寅は、

③「・・・・・」(無言)

 

視点の動きと働き:

この場面2では、互いの気持ちが通じて感激する満男と泉に置かれていた観客の視点は、「無様だね」と言う啖呵で寅(①)に移される。観客は、寅のコトバに何かちぐはぐな思いを抱いている時、リリーの「若いんだから、いいじゃない」という二人への祝福で、寅に置かれていた視点はリリーに引き寄せられる。ここで、続く「私たちとは違うわ」(②)というリリーのコトバによって、観客は若い二人とは同じにならない、寅との先行きを予感する。ここでも続いて、場面1と同様に、上のリリーの心情(②)を描写するためリリーに置かれていた観客の視点は、無言のままの寅に移される(③)。そのことにより、観客は、リリーへの愛情と共に、「若い二人とは違う」と言ったリリーのコトバを受け止める寅の心情を推し量ることになる。


図2.世界を作成する人

 

場面3:寅とリリーの最終盤での会話

やがて、寅は島での暮らしを切り上げ、リリーを連れて柴又へ帰る。周囲はついに結婚かとやきもきする中で、二人は思い出話に花を咲かせ仲睦ましく暮らしていたが、ふとしたことで喧嘩になり、リリーは島に帰ろうとする。旅支度をはじめる寅をみて、サクラはどうしてリリーを引き止めないのか、と訴える。すると、突如寅はタクシーに乗り込んだリリーの隣に滑り込む。

 寅:「か弱い女を一人寂しく旅立たせるわけにはいかないだろう」

リリー:「本当! 寅さん、どこまで送っていただけるんですか?」

寅:「男が女を送るって場合はな、その女の玄関まで送るってことよ」

とつぶやく。

 

視点の働き:

上の場面3での寅とリリーのやりとりは、「寅次郎紅の花」の実質的な終わりを告げる大詰めの会話である。

観客の視点は、まず、リリーの隣に滑り込んだ寅に置かれるが、「どちらまで送っていただけるの」という言葉でリリーに移る。「女の玄関までよ」というセリフで再び寅に戻る。

ここで、映画の観客は、寅に置かれた視点から、「男が送るってことは、女の玄関まで送るってことよ」というセリフを吐く寅の心情がどんなものか想像することを迫られる。観客は、今までのリリーとのやり取りを元に、フーテン暮らしの寅の行く先への想いがいろいろ想像される事になるだろう。

しかし、「女の玄関までよ」と言う寅のコトバは、長く続いた寅さんシリーズの最後のセリフでもある。原作者は上のリリーと寅の最後の会話に、より普遍的なメッセージを込めているのではないだろうか。南の島で幸せそうに同棲生活していた二人だが、この寅の「男が女を送るって場合はな、玄関まで送るってことよ」という言葉が示唆するように、寅は結局リリーと一緒にはならないまま映画の終末を迎える。寅に、リリーとは生まれる前から赤い糸で結ばれていた間柄と言わせてもいるが、境遇の似た二人の関係を堅気(カタギ)の暮らしのような固定させず、運任せ、風(かぜ)任せの暮らしを続けさせたのは、監督(原作者)である。寅とリリーの最後の会話は、二人を情で繋ぐ背後で「人の生涯は終わりのない旅」というさめた思想(人生観)が、シリーズを貫いて、スクリーンに登場しない作者(山田洋次)の視点として語られていると筆者は考える。

この視点は、スミスの境遇の交換(や心情理解)で使われる能動的、意図的な視点の働きとは別のものである。“男はつらいよシリーズ”が広く支持された理由も結局そうした視点に行きつくのではなかろうか。

 

文芸作品を理解するために、視点の設定や移動は物語の理解や登場人物の心情を理解する上で決定的に重要である。今回、寅さんシリーズの映画作品を取り上げ、観客(視聴者)の視点が、寅さんやリリーといった主要登場人物の間を移動することにより、互いの心情を実感的に理解する上で有用に機能しえることが取り合えず分かった。

言うまでもなく、映画では画像情報が扱われ、文字のみからなる本来の文芸(文学)作品とは異なっている。次の機会に、文芸作品を対象に、共感と視点の動きあるいは「想像上の境遇の交換」の関係について検討することにしたい。

 

長島 知正   (2018-07-03; (加筆)07-06)