共感の視点 (6)

共感の視点(6): 共感は感情移入や一体感と区別される

 

  • はじめに

宇宙旅行の予約が人気を集めるほど科学技術時代の今日、“共感”と聞いて、人はまずどんなイメージを持つのだろうか? ビートルズが登場した世代の筆者などは、ビートルズの公演に熱中した観客が我を忘れ、会場全体が一体化する様を思い浮かべたりする。

 

18世紀中葉、ヨーロッパの近代がその姿を現し始めていた。英国のスミスは不幸な人への哀れみや同情と思われていた共感を、単に人間が本能的に持っている能力と見做すことから、“共感的理解(Empathic Understanding)”(感情移入的理解と訳されることもある)を介して、知性の領域にもまたがる共感の概念へ大きく変えた(*1)。共感的理解の概念は、前回紹介した医療分野の看護学(Nursing)や心理学分野のカウンセリングにおける共感に見られるように、社会の中で共感が関わる対象を大きく拡げた。このように、スミスは共感の間口を広げたが、どんな優れた新説にも行き過ぎや誤解があるように、スミスの議論にも手放しでは受け入れられないところがある。

 

スミスの共感(Sympathy)における問題点として、どこまでを共感の範囲と見做せるのか、また共感の起源は何か、を挙げられる。共感現象の分野的な広がりについては前回までのコラムで取り上げたから、今回は、共感の概念を掘り下げて、往々にして共感の一部と見做される概念、例えば、共感と感情移入共感と一体感の異同、さらにそれらの関係を考えたい。ここで、一体感は、サッカーのワールドカップのようなスポーツや音楽ライブなど特定のイベントに集まった人の間に見られる、個人をこえて一体化し、高揚した感覚である。共感と感情移入の異同はこれまでも説明したから、以下では主に共感と一体感の異同やその関係に的を当て、更に、その延長上で、スミスが人間の本性と呼んだ共感の起源の問題についても検討しよう。

 

  • スミス曰く:共感(同感)とは

スミスの共感の概念の確認も兼ねて、スミスの著作“道徳感情論”(Theory of Moral Sentiments)にもう一度目を向けることにしよう。(スミスが用いたSympathyは“共感”に対応するが、「道徳感情論」(岩波文庫、水田洋訳)では“同感”が使われている。)

共感に関するスミス自身のオリジナルな考えが伝わるよう、彼の文を少し長めに引くことにする(ただし、訳は筆者によって変えてある)。

 

スミスは、共感に関して、

「他の人々の悲しみから、我々が悲しみを引き出すことは、人間の本性であり、例を挙げるまでもなく明白である。」

と言う。その一方で、

「他の人々が感じることについて、我々は直接の経験を持たないから、彼らがどんな感受作用を受けるかは、我々自身が同じ境遇に置き何を感じるか想像するより、どんな観念も形成できない。」

と共感の問題性を指摘する。つまり、

「他人の感情がどうであるかについての観念を形成できるのは、我々の想像力だけなのである。その想像力も我々を助けるのは、もし我々が彼の立場に置かれた場合、我々の感情はどうだろうかと言うことを示すより他はない。」

言い換えると、共感とは、

「そうした想像力により、我々自身を彼の境遇に置くことで、我々は彼と全く同じ責め苦をしのんでいることを想像し、いわば彼の身体に入り込み、ある程度彼になって、彼の感情についての観念を形成する。その結果、程度は弱いがなにがしか似たような感情を感じるようになる。 彼の苦悩は、我々自身にはっきり感じさせられた時、我々に作用しはじめ、彼が何を感じているかを考え、震えるのだ。」

 

図1.幼児のままごと遊び(左側の)幼児にとって、当人はママに、また人形は赤ちゃんと一体化している。一方、眺めている母親(第三者)から見ると、幼児は人形に感情移入して、あたかるもママになっているようだ。これは、感情移入の基礎に一体感があることを示唆している。

 

 

上述の説明には、スミスの共感(同感)の考えが詳しく描写されている。ここで、下線した部分は、相手の立場にたつことによって、相手の思いを把握する、通常“感情移入”と言われる事に対応している。このこと注目すれば、スミスは“感情移入”を前提に共感を把握していると解釈もできるだろう。つまり、コラム:共感の視点(2)でスミスの共感の構造を細かく分析したが、見方を変えれば、スミスの共感論は、従来受動的に捉えられていた共感を、”感情移入”によって能動的に捉えているのだと解釈されるという事でもある。

感情移入というコトバは20世紀に入る頃登場し、その後かなり意味は揺らいでいるが、上のような解釈が、共感は感情移入と同じと見做す人の誘因になっているのかも知れない。

 

前回のコラムで、スミスのこうした方法が、現在の看護やカウンセリング(臨床心理学)で実際応用されていることを見た。ただし、そこでは、ある意味で、スミスの共感以上に知性の働きが強く働いている。即ち、看護師やカウンセラーは当事者(患者、相談者)の悩みに向き合い、患者の感情を深く理解して、あたかも当事者の感情と同じようでも、それになりきってはならない。自ら(観察者;看護師やカウンセラー)の感情は患者のそれと画然と区別されるというところに、こうした態度には観察者の意思や(反省的)知性が働いているから、以前(共感の視点(2)および(3)で)条件付きの共感と呼んだこと(感情のみならず知性が組み込まれている(*2))の具体例にもなる。従って、条件付き共感の間の関係をより正確に把握するためには、条件付きの感情移入と呼ぶべきかも知れない(=>感情移入しても、共感はしない)。

図2.看護師

大切な点は、こうした共感現象において、感情と知性の働きが結びつく典型例が見られるということである。基本的に、従来の科学や哲学は、知性と感情を分離し、互いに独立した存在と見做してきたが、こうした知性と感情の結び付きによって、客観性にのみ価値を認める科学とは価値的に異なる世界が視野に入ってくる点を強調しておきたい。

  • 一体感と共感との区別と関連

このようにスミスの共感論は新たな観点に手がかりを与えるが、典型例を提示するところで綻びを見せる。スミスは

「受難者と立場を入れ替えることによって、我々は彼の感じていることを心に描いたり、それにより作用されたりするようになる。それは、それ自体では十分明証的と考えられない事であっても、多くの明白な観察から証明される。」

と言って、下記の事例を挙げる:

  • ①「他人の足また手を一撃がねらい、正に振り下ろされようとするのを見る時、我々は自然に身を縮め、自分の足や手を引っ込める。そして、それが振り下ろされる時、我々はある程度それを感じ、受難者だけでなく我々も、それによって傷つけられる」、また、
  • ②「観客がゆるい綱の上のダンサーを見つめている時は、自然に自身の 身体をくねらせ捻じ曲げてバランスをとる。観客はダンサーがしているのを見て同じようにする。自分たちが彼の境遇においてするに違いないと、感じる通りなのである」。

 

上の例は、スミスが共感の典型的な現象と考えて挙げたものが、それらはいずれも共感とぴったり重ね合わすことが出来ない、類似の現象と考えられる。

 

まず、上の共感の例で注意をひくのは、いずれの場合も観察者の行動に現れる身体的特徴だろう。①の場合、受難者が正に処刑されようとする時、それを見つめる観察者は誰しも手や足を瞬時に引っ込めるに違いない。それは、意図した行動ではなく、無条件反射的な行動である。②の特徴は、当事者(ダンサー)の動きを見ている観察者は直ちにそれとそっくりの運動をするという点にある。それは、誰かに命令されたり、自ら意図した運動ではないことは明らかだ。従って、ダンサーと同じ運動をする観察者の運動は、ダンサーの動きに不随意的、反射的に追従したものと考えるのが適当だろう。

図3.綱渡り:見ている観客もつられて身体を揺らせる

 

確かに②は興味を引く例である。実際、共感の神経基盤として、話題を呼んだミラー・ニューロンの発見グループも、著書の中でこのスミスの綱渡りの例を取り上げていた。が、少し注意して考えれば他にも、類似の現象として、オートレースのTV中継を見ている観客は、コーナーに差し掛かったドライバーが重心を傾けて曲がろうとする時、それと同じようにTVの前で自分の体を傾ける。また、ひいきの力士が勝負をかける相撲中継では、観客は中腰になって自分の体に力を入れたりする。こうした例はまだ広く見つかるだろう。

 

さらに踏み込むなら、性格が少し違うけれど、赤ちゃんの泣きの伝染などの類似の現象も考えられる。保育園などで赤ちゃんは、誰かひとり泣き始めるとやがて泣きは他の赤ちゃんにうつり(伝染し)、次第に、泣き声は集団に広まることが知られている。また、大人でも退屈な講話などでは、一人があくびをすると別の人に伝染することはまま見られる。

 

以下では、このような現象がどんな条件で起きるか検討しよう。

あくびの伝染の場合、話が退屈なために、聞き手は集中を欠き眠気を感じたり、ぼんやりした精神状態となって、自他を識別する意識は弱まり、あるいは消えているのだろう。赤ちゃんの泣きの伝染では、もちろんは赤ちゃん(乳幼児)は未だ自他の違いを認識してはいない。それ故、これらの場合、共感に必要な要件を満たせないのである。仮に、赤ちゃんの感情が他の赤ちゃんにうつったとしても、「意識的に区別された我と他者が同じ感情に持つ」という共感ではない。

 

ここであくびの伝染や赤ちゃんの泣きの伝染で起きていることは、そのような自他を区別する意識を欠いた身体間で起きる伝搬や一体化した運動と考えられ、(霊長類や鳥類などの)人間以外の動物に見られる“同化行動”(*3)と呼ばれるカテゴリーの行動と見做せるようだ。

 

一方、スミスが挙げた処刑されようとしている人の状況を見た観察者が、反射的に手足を縮める反応をしたり、また綱渡りするダンサー(当事者)に観客(観察者)が同じ運動を追従する場合、起きる条件は一見全くかけ離れてように思われる。だが、こちらの場合も、自他の区別が失われていると言う点は同じと考えられる。

何故なら、この場合、観察者は当事者の置かれた極端な状況にのめり込み、そこに注意を過度に集中した結果、我を忘れ(無我夢中、脱我)、当事者の精神状態と一体化してしまっていると解釈するのが適当ではないか。つまり、この場合、観察者は当事者と同じ行動を同じ感情になって追従しているが、自他の区別を失って、共感の要件を欠いていることに違いはない。スミスはこの点を見誤って、共感の典型例と考えたのではないか。

 

  • まとめ

これまでの議論の要点を簡単にまとめよう。

綱渡りのダンサーを見つめる時、観客はダンサーの行動を直ちに追従する行動と共に、自らの自我を他者の個体的自我と一体化させている。こうした“脱我”状態にある観客は、ダンサーと無意識的な同一視による“一体感”を体験する。従って、このような一体感は自・他それぞれが共に苦しみあるいは楽しむ“共感”と異なった概念である。

ところで、上述した一体感と共感の間に関係は何もないのだろうか? 最後に、この疑問を取り上げよう。この問題は人間の発達過程から考えるのが分かりやすいので、以下、一部だが、人間の発達過程に触れることにしよう。

 

マガモのような鳥類などの離巣性動物では、母親などへの刷り込みによる模倣行動(Imprinting)(*3)が知られている。少し乱暴な言い方をすると、人間の赤ちゃんが発達する上で不可欠な模倣も、原理的には離巣性動物の刷り込みと同様な反射的で、不随意的な行為・行動と同等と見做せるようだ。

 

まず、自ら移動できない状態で生まれた人間の赤ちゃんが生きていくには、母親と一体化していくほかない。ハイハイも出来ない時期から、母親の表情や身振りを模倣しようとする。親の行動を模倣することによって、自らの行動を学び、行動のパターンを広げていく一方、幼児はやがて、“人見知り”を始める。この人見知りはやがて他者を知ることになる契機で、そこから、他者が自分と異なる考え、感情を持つ存在で、自らの思いを母親のように聞いてはくれない相手であるという、認知的一大事件に触れることになる。

 

共感は、”我”とこうした”他者”の間で同じ感情や思いをシェアーすることによって成り立つ現象であるが、上述のような発達の経過から、自他未分離の時に体験した“一体感“は、発達し成長を遂げた個体の間の共感を支える基盤の一つと考えられる。

 

こうした人間の発達過程によれば、綱渡りするダンサーに同期的に追従する運動に見られる観客の行動は、ある意味で赤ちゃんが母親を反射的に模倣する行動と“同類“の運動と考えられる。これは、既に言ったように、自他が未分化の身体レベルの一体化であり、自他の認知が伴った共感とは区別される。

 

長島 知正  2018-10-22

 

補注:

*1)スミスは「道徳感情論」の後に「国富論」を著した。

スミスは、“道徳感情論“(1759年)で社会の秩序が如何に達成されるかを論じた後、“諸国民の富(国富論:Wealth of Nations)”(1776年)において、社会はどのように繁栄させられるかを示した。その後、国富論は自由主義経済のバイブルとして欧米社会で受け入れられ、スミスは経済学の父と呼ばれるようになった。国富論は普通、市場経済と個人の自由な競争によって経済成長し、豊かな国になるというシナリオを示したと解釈されている。

しかし、素朴な疑問として、個人の勝手な経済競争によって国の経済成長をもたらされるという国富論の解釈は、人間の道徳原理として同じスミスが著した“道徳感情論”と齟齬があるような感じは残る。

 

AIブームともいわれる昨今、マスコミでは著名人によって、AIが発達すると労働者の単純労働が奪われるとして、スミスの国富論とくに“見えざる神の手”による価格調整作用の不全が起きると、議論されているのを目にした。議論の詳細は良く分からないが、いずれにしても気になるのは、AIを軸に21世紀の経済社会を論じる議論としては、視野が余りにも狭いことである。むしろ今日必要なのは、スミスの自由主義経済の枠組み自体の限界について、個人の幸福感に合わせた観点から徹底した議論を積み上げることではないか。これは思い付きではない。OECDも既に取り組んでいる大きな今後のテーマである。

 

*2)条件付き共感とは:

スミスの共感(同感)では、観察者(第三者)は当事者の置かれた境遇に注目し、その境遇と当事者の感情が調和しているか、否かが共感できるかどうかを分けている。ここで、当事者の置かれた”境遇の理解”が共感のポイントになっていることは明らかだろう。

 

*3)一体化する行動の生物学的理由

霊長類やマガモなどの動物には、刷り込み(imprinting)行動のような、特異的な行動が見られる。これは、遺伝的に組み込まれた不随意的、反射的なものである。マガモの行進などを見ると大変可愛いらしいが、当事者の感情は関与していない、機械的な運動である。誕生してすぐに群れを成し、身近にいる親あるいは刺激の後を追う行動は、親や仲間にくっつき接着するため”である。そうした接着行動は、単独に行動するより、その集団の生命維持に有利だからと、生物学的には説明されている。

 

その接着行動は、単に一緒にいるという事だけではなく、親などの振る舞いと同じ行動を反射的に行うという特徴を伴っている。この後追いは、親と同じ運動パターンを繰り返す反射的運動で、時に共鳴と呼ばれている。接着行動と共鳴を併せて“同化行動”と呼ぶ。共鳴というコトバは、壁に掛かったいくつかのアナログ時計の振り子は互いに位相を揃える引き込み現象との類似性からだろう。

 

親に追従する運動は、不随意的な模倣行動と見做せる。これはある意味で機械的運動だが、遺伝的な行動の仕組みによる無意識的な模倣の機構によって生成される。