「我感じる、故に我あり」(一)

表題の「我感じる、故に我あり」は、云うまでもなくデカルトのつぶやき「我思う、故に我あり」をもじったものである。デカルトのことばは余りに有名だから、ここでその解説を繰り返すことはしない。しかし、「我思う、故に我あり」という文言の意味は誰からみても明らかなのだろうか、筆者は必ずしもすっきりしないものを永年感じてきた。

表題の「我感じる、故に我あり」は、感性工学”という得体の知れないものに十数年前出会って間もなくふっと浮かんだことばであるが、その時以来、デカルトのつぶやきは良くて、「我感じる、故に我あり」は何故ダメなのか、気になりながら時間が経ってしまった。

最近、デカルトを読み直す機会があった。少しだけデカルトが「我思う、故に我あり」とつぶやいて真理を発見する場面を想像してみよう。そこでは、「我思う」という前段の命題から「我あり」という真理発見に至る過程が、「故に」により導かれる形式論理的推論によるか、あるいは推論ではなく直感的判断によるかの議論は今日に至っても未だ分かれているようだ。

こうした議論を踏まえ、改めて「我感じる、故に我あり」を考えてみると、「我の存在」を「我感じる」から論理によって推論していると考えることは出来ないだろう。何故なら、「我感じる」という前段は、個人によって真偽が変わるため、命題とは云えないからだ。であれば、上記の議論のように、「我感じる、故に我あり」を直感的判断として考える時、それはダメだという納得いく理由はなさそうである。もちろん、「我感じる、故に我あり」は「我が感じている」ことを一種の根拠に「我の存在」を捉えているという以上のものではないけれど、”感る”は、”思う(考える)”が立ち上がる前に働くから、より根源的なレベルから我の存在を捉えようとした文言である。 それ故、近代のシンボルであったデカルトのつぶやきに代わって、「我感じる、故に我あり」は感性を軸に据えた文言として、これからの時代のシンボルにふさわしいかも知れない。だが、仮に「我の存在」が云えたとしても、我以外のものの存在を何らかの方法で捉えることが問題である。

長島 知正 (2016-10-06)