宙づりの感性(1)

新年ということもあって、前回のコラムでは当サイト、特にコラムのこれからの予定について、筆者の多少の思いも交えて「デカルト的近代からの旅立ち」という題で書いた。そこでは、サイトの名称「理科系のための、哲学、芸術、、、」にある「理科系のため」というただし書きに着目する形で、西欧近代に対する筆者の考えが述べられている。しかし、読み直してみると、話の対象が400年に亘るものである一方、それを捉えるための重要なポイントは絞り込んで書かれていないことが気になる。そこで、「デカルト的近代からの旅立ち」というテーマの内容を浮き彫りにするポイントがどこにあるか、コラムの中で今後取り上げて行くことにしたい。ただ、コラムとはいえ、筆者に予め決まった答が用意されているわけではないから、不定期的になることはお許し頂きたい。

今回はまず、デカルト的近代とはどのようなものであるか、その起点にある”コギト”から考えてみたい。「われ思う、ゆえにわれあり」という文言は恐らく誰もが一度は聞いたことがあるに違いない。コギトはそこに出てくる。デカルトが生きた時代の学術文書は普通ラテン語で、”コギト”は ”われ思う(考える)” のラテン語 で、”コギト・エルゴ・スム”は「われ思う(考える)、ゆえにわれあり」と訳され、コギトは重要なタームとして扱われる。ただし、この文言は仏語で書かれた原書「方法序説」の中で登場するから、原語は仏語 “Je pense, donc je suis” で、そのラテン語訳が上の文言にあたる。

西欧がわが国を含む世界を永く主導してきたといわれる歴史の中で、デカルトはそうした思想的基盤を支えた人物として「哲学の父」と呼ばれている。デカルトの名は広く知られているが、理科系の人は、デカルト座標やその直接的効用として解析幾何学を創めたことを知っていても、その人が哲学の父と呼ばれるワケについては、何故か余り関心がないようだ。見方によっては、あたかも自分たちには思想など必要ないと云いたいようにすら見える。「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルトが自身の思想の出発点としたポイントである。この古い文言を取り上げることにしたい。それは古臭くても、理系・文系に関わりない新しい問題に繋がっているからである。

55図1 われ考える

筆者自身の話から始めよう。その文言をはじめて聞いたのは中学の社会科だったような記憶がある。だが、文言の意味を自問したのは、確か大学進学の前後あたりで、「われ思う、ゆえにわれあり」の意味として自分なりに考えたのは、「人間は生きものの一種だが、人間と呼べるのは、考える能力をもつ生きものだからだ」というものだった。戦後のいわゆる高度成長期に理科系の道を歩んだ故か、「人間は理性によってこそ、人間たりえる」という先の解釈を全く疑うことなく、人生を振り返るころまでそう思っていた。他人に聞いたことはないので分からないが、デカルトの文言の意味を”知性こそ人間を特徴付ける特性である”と理解している人は結構いるような気もする。哲学ではその解釈を取らない、つまりマチガッテイルことを筆者は偶然から知った。

「コギト・エルゴ・スム」は近代西欧の出立点と見なされているから、既に十分過ぎるほど議論はなされているが、デカルトと私たちの関わりを考えるため、以下では哲学での標準的な解釈がどういものか、またそれがどのように現代に繋がるかを取りあげたい。まず、哲学における標準な解釈から始める。

デカルトを考えるうえで時代的背景は重要である。デカルトの時代は、永く教会支配の続いた中世が科学革命を契機として大転回し始めるという歴史の転換点に当っている。一口で云うならば、そうした中で、デカルトは自らそのエンジンになろうと考えていたということである。そのため、彼は「如何にして中世の世界観と異なった正しい世界観を持つことができるか」を普通の市民に訴えるべく、敢えて仏語で「方法序説」を書いた。

方法序説にあるその文言に至るために、デカルトは”方法的懐疑”と呼ばれる手段を考えついた。懐疑的な方法と云っても、未だ完全に正しいことが明らかでない考えがあった時、もしかするとマチガイかも知れないという、一定の留保や躊躇をすることではない。科学的な発見では、様々なことを疑ってみるという注意深さが要求されるのは当たり前のことである。だが、デカルトは科学の範囲に留まらない、思想家である。彼が考えた”方法的懐疑”は科学の常識を超えたもので、マチガイがあるかもしれないという相対的な懐疑ではなく、ありとあらゆるすべてを疑うというのである。そこでは、彼自身が信頼できるとした数学や、また、眼前にある事象すら、夢かもしれないという懐疑の対象にしなければならない。デカルトはこうしたすべてを疑うという考えを徹底して押し進め、それでも疑われずに残るものがあることにたどり着いた。つまり、

すべてを疑わしいとしても、そう考えている私はある」ということは真実だ!

と。これが、デカルトの「われ考える、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」に対する哲学の標準的な解釈である。

ところで、”思っている(考えている)われ”は、普通の人間ではない。コギトには肉体がないのである。”われ”は肉体から切り離され、物と一切の関係を持たない、精神として存在している。それは物体が空間的に広がり(延長する)こととは対照的に、空間的な広がりをもたず、また特定の場所を占めることもない。デカルトはこの精神を物と並ぶ本質的な存在、実体と見なした。こうして、考える能力をもつ精神=コギトとそれとはまったく関わりをもたないとが存在する(実体)二元論の骨格が現われる。

デカルトはこのコギトの発見、つまり、考えているわれこそ、あらゆる疑わしさを超え、およそ人間の精神が世界の真理を手に入れる起点になると考えた。つまり、方法序説や省察において、デカルトは、完全な神の存在を介して、われは幾何学的明晰さを基準にして物が作る外部世界を正しく認識出来るとした。言い換えれば、物質世界の仕組みを数学的な方法によって正しく知ることができると云うのである。この記述には相当な省略があるためそれを割り引いての話であるが、そこに、アリストテレス的な有機性(霊性)を内包した世界が透明化されると共に、”認識するわれ”と”認識される対象世界”という近代的な認識論の構図の一端は見てとれるのではないだろうか。また、デカルトが哲学の父と呼ばれるワケもそこに根ざしている。つまり、西欧の近代は、コギトの発見によって、永く続いた教会を中心とした閉鎖的な中世的世界観から、無限に広がる世界の中の対象を外側から客観的に眺める私という、認識論的転回によって始まる、と。

ここまでくれば、筆者の以前理解していた「われ思う、ゆえにわれあり」の解釈のマチガイはもう明らかだろう。以下では、デカルトは今日の私たちとどう関わっているかという観点から浮上してくる問題に注目したい。

上で粗削りしたデカルトの思想の中でも、特に、”考えるわれ=コギト”が、その知性に基づいて数学的な方法を使用すれば物質世界を客観的で正しい理解を獲得できる”というシナリオは、自然学に大きな力を与えたと云われている。実際、上述したように、ガリレオから始まりニュートンで完成した科学革命はそうした背景の中で起き、またその流れは現在にまで及び、今日も自然科学を学ぶ時、デカルトの思想そのものが基礎(の一部)として使われているのではないか。

しかし、デカルトの認識論は、二元論の見方を変えるだけで得られるのだから、二元論が導かれた枠組みと事実上同じ枠組みに依存している。二元論に問題があれば、そこには同じ水準の問題があることにならないか。哲学では、デカルトの二元論は心身問題を引き起こし、その克服が最大の課題と云われ続けている。他方、哲学の外にいる人達の間で、二元論や関連した問題が真面めに議論されている形跡はほとんどない。

いずれにしても、こうした問題の答えは簡単に見いだせるものではないが、全ての人の生き方と緊密な繋がりを持ち、専門家に任せれば良いという問題ではないと思うのである。ここまで準備してきたが、既に紙幅を超えてしまった。次回、デカルトの二元論が生み出した問題として、人間の感性を取り上げて考えることにしたい。

長島 知正    (2017-02-14)