宙づりの感性(2)

前回大変な駆け足であったけれど、デカルトがどのようにして、コギトの発見から、精神物質の二元論という枠組みを帰結させたか、その大まかな道筋を説明した。また、デカルトの二元論からは、見方を変えれば、認識する主観と認識される客観が相対立する認識図式が導かれるなど、後の自然科学が発展の契機とした基本的要因が垣間見えることも述べた。ここまでを取りあえずの手掛かりとして、”宙づりの感性”と云うコラムの本題に話を進めよう。話の向かう先は人間の感性である。と云っても、いずれ明らかになることだが、感性についての物語や想いを述べたいのではない。云いたいのは、”宙づりの感性”という事態が、デカルトが創った近代の枠組み、つまり、二元論から論理的に導かれるということである。”宙づりの感性”とはどう云うことか、また何故、そうなるのかはこれから説明する。詳しいことは後に回し、まず全体的な話から始めよう。

精神物質を実体とする二元論に行きついたデカルトは、この世界には、コギト(=考える我)とは全く異なる存在として物質が存在するとしたが、物質を具体的にどのように捉えていたのだろう。物質をどう認識していたかについては”方法序説”より、体系的な説明を後に発表した”省察”でしている。省察は、自らが打ち立てた二元論の体系に対する疑問に答える形をとり、改めて、自然界ーそれは神が創造したーは透明化され、機械論的な世界として構成できると主張した。実際、彼の確信は、科学・技術の歴史の中にクッキリと残されることになった。つまり、デカルト以降、自然科学は自らの根拠として二元論を採用し、その物質の側だけを研究してきたと云えるのではないか。そうした科学の選択は産業革命を可能としたばかりか、21世紀に至る科学技術の驚くべき進展に繋がっている。だが、二元論には、精神(こころ)と身体がバラバラに分離されるという”心身問題”に留まらず、外観は心身問題とは異なる形をした解決困難な問題が隠されていることも知られている。本稿の”宙づりの感性”で云わんとすることも、二元論に基づくデカルトの物質観それ自体から導かれる人間の感性に関する一つの帰結である。

デカルトが、完全なる神の存在を介して物質の存在を結論付けたことは前回紹介した。しかし今日では、神の存在まで持ち出す議論はどこかウサンクサイと感じる人は多いに違いない。ウサンクサイどころか、不信感さえ持つ人がいて当たり前だろう。何故、そんな手の込んだことをするのか、目の前にモノがあれば(見えていれば)、それが存在しているのは当然でしょう、と。

”素朴実在論(直接的実在論)”と呼ばれる感覚・知覚経験に根ざした物質界に対するこうした素朴な見方は日常生活を実践するうえで非常に有用なものだ。しかし、改まって考えてみると、当たり前でないことに気づくかも知れない。

素朴実在論の特色は日常生活の経験で知覚の直接的な対象を外的事物とすることにある。ドライブ中、急に眼の前に崖が現れたら、ブレーキを踏むのはその証しだ。しかし、文字通り素朴に、知覚の対象を外的事物に置き換えるのが困難なことも多くの事例が教える。例えば、目に映る景色は文字通りの大きさで外的なものが存在していない。広い意味の錯覚である。また、物理学によれば色は光の中に存在していない。だから、知覚の対象を素直に外部の事物と見なすことは難しそうだ。素朴実在論には根拠が与えられていないのである。

とすれば、知覚の対象として物自体と直接関係しない”何か”を考えざるを得ない、と云うのは哲学者だ。その”何か”を表すものの一つが、西欧では古くから”観念”であったようだ。普通、観念はある事物を意識した時、意識のうちにあらわれる意識内容を意味している。海と聞いたり、山を見たとき、心に現れる一種のイメージ(表象)を指すが、デカルトは、神から与えられた生得的で明晰に意識に現れる観念を元に彼の理論を組み立てた。つまり、我の精神(こころ)の働きの中に、”観念”を据え、その上で、神の存在を介して物質からなる自然を客観的に組み立てた。言葉をかえれば、二元論で物質との直接作用を禁止された、我の精神は、直接の対象として観念に作用(思惟)し、例えば、自らの内に生じる観念を知覚する。逆に云えば、外界の事物は、我の観念によって表象されたものとして見られ(知覚され)るのである。つまり、こころは間接的に外部の事物を見ているのだ(間接的実在論)。デカルトが近代哲学の父と呼ばれるワケも、カントに至る西欧の認識論の骨格と云える、こうした”観念を知覚する”認識モデルを創めたことに核心があるのだろう。もっとも、その評価はまた別の問題と付け加えなければならないが、、、。

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 図1.カンセツテキ・ジツザイ!?

具体的なデカルトの物質観に話を進めよう。デカルトによれば、上の説明のように、外界の物体は、我の精神のうちにある観念によって表象される、間接的な知覚の対象である。だが、その観念のすべてが本質的な存在(実体)を表してないということから話は複雑になる。つまり、外界にあるように心の中で感じられる観念は二種に分けられる。一つの観念は、物質の本質を表す延長のように、明晰判明に知覚され、数学的明証的に把握できる性質(一次性質)を持つ。しかし他方、色、音、匂い、味など感覚的に感じられる観念は、こころの中で感じられても、物質としては存在しないという性質(二次性質)があるというのである。この一次、二次性質の区分は実はデカルトが始めたものではなく、既にガリレオによって主張されていた。またロックによって詳しく分析されたが、ここでは、デカルトの物質観を色濃く表わした、省察3(三木清訳、岩波文庫)にある記述を引用しよう。

デカルトは、”そうして物体的なものの観念についていえば、”と云ってから、以下のような物質観を述べる: (中略)

”これらにおいて私が明晰に判明に知覚するものはただ極めて僅かであることに気づくのである。言うまでもなく、それは、大きさ、すなわち、長さ、広さ及び深さにおける延長、かかる延長の限定によって生ずる形体、種々の形体を具えたものの相互に占める位置、及び運動、すなわちかかる位置の変化であって、これになお実体、持続及び数を加えることができる。”

ここで、デカルトは物質の本質を、大きさ、つまり、長さ、広さ、深さという三次元的に広がる延長のほか、有限な延長による形、様々な形の位置とその変化による運動のみに限定し、物質の概念をそうした数少ない基本要素だけに還元した。これは勿論現代的原子論とは異なっているが、マクロな物質の本質的概念を抽出することによって、ニュートンの力学にも繋がりがある。

しかし、光や色、味、香などは夫々の感覚体験を物体から受け取る。だが、それらの体験は信じられるより疑わしい、とデカルトは云い、次のように”省察”で続ける:

”しかるにその他のもの、例えば光と色、音、香、味、熱と寒、また他の触覚的性質は、ただ極めて不分明に不明瞭にのみ私によって思惟せられるのであり、従って私は、それらが真であるのか、それとも偽であるのか、言い換えると、それらについて私の有する観念があるものものの観念であるのか、それとも何ものでもないものの観念であるのか、をさえ知らないのである。”

この短い段落では、感覚による知識や感覚自体へのデカルトの不信をはっきり現し、科学の対象からそれらを排除すべきという基本的な姿勢がうかがえる。

以上の記述に現れたデカルトの物質観を簡単にまとめてみよう。まず、客観的に存在する物質(物体)は無色透明、無味、無臭であって、空間に広がる延長や運動など限られた性質のみ持つことが許されている。一方、色、音、匂い、味などは物体とは切り離され、心の中でのみ感じられるものである。こうしたガリレオ・デカルトに始まる区別は、どこかオカシイ。だが、現代の科学、特に生理学の見解に類似しているから、ヒョットすると違和感を感じるというより、むしろ科学的に正しいではないかといった反応があるかも知れない。匂いや味などについて基本的にはその通りと云って良いのだろう。とは云え、精神と切り離された物体は、(無色な)形質や形は外界にある対象に属しているが、一方その色彩や匂いなどは精神(こころ)のうちにあるというのはオカシクないか。例えば、長い海岸の景色を見て、地平線と海岸線でかこまれる領域にある海や海辺の砂浜などの形質(無色な物)とそれらの形は遠くはなれた位置にあり、他方、海の青や砂浜の白等の色彩は形とは切り離されて心の中にあると云うことになるからだ。

イラストや パン 

図2.焼きたてパン

また、おいしそうに焼きあがったパンのもつ豊かさはどうなるだろう。パンの豊かさには、焼けたパン生地の色づきやイーストの香りのみならず、ふっくらと焼きあがった形状も与っている。パンの形状はあちらにあって、色や匂いは心の中にあるだろうか。バナナの匂いはバナナそのものに備わっているように感じられるように、元来、モノに備わった十全な感性的性質は一体感の中にあり、バラバラになっては感じられないのではないか。

こうしたオカシサはデカルトも知っていた。つまり、物質の一次性質、つまり客観的に把握される物質の性質と感覚的にこころの中でのみ感じられる二次性質はバラバラに独立に存在するのではない、と。つまり、経験的に心の中に現れる感覚的表象(印象)は外部の対象物質からの刺激が因果的に繋がって現れるからだ。云い換えれば、こころで感じる感性的性質の知覚経験は、外部に客観的に存在する物質の何らかの性質が原因となり、その性質が身体を経由して、こころに伝わり、表象が作られるからである。この説によれば、感覚的性質は結局、物質の性質によって決まっていることになる。こうして、デカルトは客観的に把握できる物質についての科学を進めて行くことによって、感覚的な性質まで分析できるに違いないと考えた。

実は、こころに浮かぶ表象(観念)が外部にある物体を間接的に表すという間接的実在論の立場から見れば、上述した見方はその中に当然含まれるハズであり、後に知覚因果論と呼ばれ広く知られるようになった。しかしここに、デカルトの、ひいては現代科学の楽観が隠されていた。つまり、知覚因果論はデカルト以降300年を経て今日なお未解決、というより、むしろある意味で不可能と云える問題を内蔵しているからである。

話が大分長くなったので、ここで結論を一部先回りして云うことにしよう: 

私たちは今日、ガリレオ・デカルトの一次、二次性質という物質観を基本的に受け入れる一方、科学的正当化の道を外された感性(感覚的性質)は、一体感を失い、行先 定まらぬまま宙に浮いてしまっているのである。

 

知覚因果論は今日の脳科学にも関わる問題である。それらについては次回考えよう。

 

長島 知正      (2017-03-18)