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魅力、感性、そして共感(2)

一昔前の年末恒例行事の一つに、キリスト教などの教会関係者による社会鍋や地域の福祉関係による炊き出しがあった。来年は明治元年(1868)から150年になるが、最近、そうした炊き出しのニュースはあまり聞かれなくなった。炊き出しが必要なくなるほど、社会は住みやすくなったということなのだろうか。わが国の近代が明治維新を契機に始まったことを否定する人は少ない。だが、明治維新の中身やその評価はどうだろう。その仔細は別にして、ここでは、明治維新を象徴する文明開化や和魂洋才といったキーワードに注目したい。

文明開化や和魂洋才というコトバでは、前者はストンと落ちても、後者はどこか引っ掛かる人はかなりいるのではないか。和魂洋才は、雑に言えば「和魂(和のこころ)を失うことなく、西洋の進んだ知識・技術を吸収し・利用する」といった意味で使われる。ここに、“和の魂(こころ)”というコトが出てくるが、この和魂洋才をタテに、古き時代の大和魂が失われたと主張する人も少なからずいる。古き良き時代の大和魂に戻ることが、今後のわが国の進む道なのだろうか。

図1.炊き出し

筆者は西欧近代の思想に問題があることを認めるが、西洋思想を安易に否定することに賛同はできない。文明開化を急ぎすぎたわが国では、西欧の思想自体正しく理解されなかったところに問題がある、と考えるからである。“和のこころ”は感性に繋がるが、それをどのように繋げるかが今日的課題である。前置きが長すぎたが、以下では、共感とは何か、特にここでは“共感”と“感情移入”の関係を検討したい。最近日常の生活で共感が話題にされることが増えたようだ。だが、少し考えてみると共感には良く分からないことが沢山ある。

今想えば、子供のころ、よく親から“相手の身になってごらんなさい”と聞かされた気がする。子供の躾(しつけ)のために、“その人の身になって“と言う言葉が使われたのだろう。それがどういうことか深く考える事など、子供には覚つかないはずだが、そのコトバによって、相手におきた不運な出来事を想像できたそぶりはしていたらしい。

この“相手の身になる“ということは感情移入”のキーワードになる。共感や感情移入という言葉は現在盛んに使われる日常用語で、前回紹介した民放TVプロデュサーの新聞記事ではこんな具合に使われていた:

「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できないから」。つまり、この文は感情移入と共感が結び付けられる典型と思われるが、そこで感情移入は「共感できる」ための条件あるいは手段と考えられている。こうした言葉使いは、ごく当たり前になっているのでないか。

ところが、心理学や哲学などでは、それは異なる概念の混同とされているのである。以下で、そこにどんな問題があるかを考えてみたい。そのため、まず感情移入、共感それぞれの言葉の意味について確認し、その後、それらの関係を検討しよう。

とりあえず、前回同様、国語辞典を引くことにする。ここでは2種の辞書(A:集英社、第二版、B:三省堂、第2版)を引き、それらの意味を並記する。まず、「共感」の意味は、

A:他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感。

B: 他人と同じような感情(考え)になること。

「感情移入」については、

A:[心] 自然や芸術作作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象からのものとして体験する作用=>empathy.

B:人間の表情や身振り、自然の景色、絵画・彫刻、楽器の音色などに接した時、その対象自体が何らかの感情を表出していると感じ理解すること。(俗には、自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味に用いられる。)

である。なお、参考に、「同情」の意味(辞書A)を調べると、

「同情」:他人の悲しみや苦しみを、自分のことのようにともに感じること。かわいそうに思うこと。思いやり。

とある。

感情移入より始めよう。

先に、“相手の身になって”が感情移入のキーワードであると言った。Bでは感情移入の対象を人間まで広げているが、A, Bともに自然や芸術作品を主な対象に、自己を対象に投入することの心理学的な意味の説明をしている。つまり、心理学では、感情移入とはこうした対象のうちに自己の感情を投げ入れて、それによって、アリアリと対象の持つ感情、動作、作用などを把握する働きを言う。これらの辞書は明らかに美学を念頭に置いた心理学に依っているために、感情移入の焦点は(美的な)感情に当てられている。しかし、感情移入の概念自体は、むしろ近代社会を巡る議論に始まる。特に、A. スミスらによる道徳感情論は古くから知られている。スミスは「道徳感情論(*)」の冒頭、Sympathy(日本語訳:同感)について説明する中で、「我々は他の人々が感じることについて、直接の経験を持たないから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、我々自身が同様な境遇において何を感じるはずであるかを心に描くよりほかない」と述べ、例えば、ある受難者に同感する時、「観察者は彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇におき、受難者に対して起きる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身ハッキリ考えなければならない」とした。このようにスミスはSympathyを得るための基礎として“想像上の境遇の交換”があると言う。この“想像上の境遇の交換”は感情移入の概念と類似しているが、相手の感情に限らず、広く思考にも及ぶ。実際、社会学等では他者理解の方法として共感的理解(Empathic understanding)と呼ばれ広く利用されているようだ。

以上の議論を簡単にまとめれば、感情移入という概念は、もし自分がその人の立場であれば、きっとこうなるだろうという想像、あるいは、相手の中に自分の感情や考えを投入することによって、生まれる感情や思考である。

一方、共感についての国語辞典の説明は意外にシンプルである。双方比べても一見似たように見える。だが、共感の概念は微妙なところがある。基本的にA, B共に、他人の感情や考えと自分のそれを比べている。しかし、Aでは、他人の感情や考えに対し、“その通りだ”という、それを是とする評価をしているのは明らかだが、Bは、他人と自分が同じ感情や考えになると単に言っているようである。言い換えれば、Aでは、他人の考えや感情に対する良し・悪しの判断の方に重きが置かれている。ここで、国語辞典のマニアックな話になるけれど、「同情」という言葉と共感の関係に付言しておこう。Aの辞典で見られるように、共感の意味を、相手と同じ感情になるということから、その通りという判断に重点を移したことによって、古くから知られている(元来共感に含まれていた)相手が感じている悲しさ・苦しみなどの否定的感情と同じ感情になる意味を表す言葉が足りなくなった。「同情」という言葉はその不足を賄う役を担っているようだ。共感という言葉について、50種ほどの国語辞典を調べた研究によれば、共感には、元来「同情」があてられていたが、時代と共に、我が国では判断を重視する概念が強調されるようになったため、「共感」と言う言葉が使われるようになった。そうした概念の進化への対応が、辞書によって、同情と共感という別な言葉として使い分ける、あるいは共感という言葉に二つの意味を多義的に含ませる形式に分かれたようなのである。

図2.辞書はコトバの培地

上での議論を振り返えって、今回の本題、共感と感情移入の関係の問題を考えることにしよう。上での語の意味に関する議論から、「共感と感情移入は別の概念である」ことはほとんど明らかではないだろうか。端的な違いは、「共感は他人と自分、つまり人と人の間の関係を指すのに対し、感情移入は人に限らない他者と自分の関係を扱っている」と言って良いだろう。辞書のレベルで分かるこうした明かな違いを、何故同じように思うのか、むしろ不思議な気がしないだろうか。心理学事典によると、感情移入はEinfuehlungの日本語訳だが、一方Einfuehlungの英語訳はempathyであり、そこで与えられる日本語訳は共感になっているようだ。そこに、共感と感情移入が混同する原因の一つが認められる。しかし、そうした詳細に立ち入る余裕はないから、本題に戻り、ここで話をまとめることにしよう。

”共感”は人と人の間の関係に限られるということを文字通り受け入れれば、“感情移入”という手段によって”共感”できる相手は人間に限定されることになる。このように、問題の範囲を狭め、感情移入の対象を人間に制限した場合には、共感と感情移入の間には問題はないのだろうか。端的には、例えば、他人の悲しみなどの感情に触れた場合、感情移入によって、相手と同じ感情になることができるとのか、が問題になろう。こうし基本的な問題に対して、哲学はNOと言うのである。そのワケを一言で言えば、他人に自分の感情を投射しても、それは自分がこうだろうといった想像にすぎないからだ、と。言い換えれば、他人の自律的な思いを想像によって把握することは出来ないと言って良いかも知れない。

こうした議論から、共感と感情移入は別の概念として扱うべしと心理学や哲学は説くのである。共感は珍し現象なのだろうか、それとも誰でも経験しているありふれたことなのだろうか。共感の本質は何か、といった問題に繋がるを議論する予定であったが、錯綜する言葉のジャングルの中で、形式的な準備に誌幅を費やしてしまった。

共感については、近年ミラー・ニューロンの発見を契機に脳科学の議論が加わり、新たな局面が拓かれようとしているとも言われている。この続きは年を改めて行いたい。

長島 知正      2017-12-31

 

付記

(*)A. スミス著、水谷洋訳、道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)、岩波文庫(上、下)、2003年。

原書は1759年初版である。著者A. スミス(Adam Smith)は英国で始まった産業革命の時期に国富論を表して、個人の自由な競争による自由経済の思想をひろめ、経済学の父と呼ばれる。ある意味で現在の資本主義経済の礎を創った人物である。だが、彼はそうした経済学の専門家ではなく、道徳哲学の教授であり、国富論に先だって道徳哲学の講義をこの「道徳感情論」にまとめた。彼はその主題にSympathyのを置いた。近代西洋の経済面における自由と個人主義を説いた人物が、社会における道徳の原理的基礎を考えていた事になる。この辺りに何があるのか明らかなのだろうか。なお、Sympathy は水谷訳で同感と訳されているが、同書での同感は共感と同じとみなすことが多い。なお、共感には、哲学ではSympathy が使われるようだが、心理学では、SympathyもEmpathyも使われ、統一されていない。

 

 

 

 

 

魅力、感性、そして共感 (1)

”人が魅力的とはどういうことを言うのだろう?“ ”魅力的な人は一目みれば分かるでしょ! 人を引き付けるのが魅力に決まっているじゃない” そんなことを言っているからあなたのような理科系人間はダメなの、という声が聞こえそうだ。うーん、もっともだ。だが、社会全体で魅力に価値を認めようとしていた時代があったことを考えてみたいのである。歴史上魅力なる言葉が使われ出したのは、西欧社会が、権威を握っていた教会の支配を脱して近代に向かう途上、個人の能力が大きな力を持つようになると同時に、能力を含む個人の魅力に注目が集まるようになったかららしい。この後半の部分が歴史の中で省略されてしまっているのではないだろうか。遠く離れた国からは、ルネッサンス期に突然現れたように見える芸術家の目を見張る活躍も、そうした社会的背景と決して無関係ではないだろう。

歴史問題は別にしても、人間の魅力に限らず、絵画、彫刻、音楽などで当時次々に産み出された新しい芸術作品の魅力はどのように評価されていたのだろう。そこには、魅力は価値観と直観的に結びつくとしても、新しく創造されたモノの価値あるいは魅力を決める基準は何なのか、という問題が埋め込まれている。これはまた、コンピュータによって新しい人工物が作られる現代の課題なのである。

激しく変化する現代の技術分野では最近、“魅力を設計する”ということが話題にされている。一方、美学者の佐々木によれば、魅力とは、言葉には言い尽くせないもの、得も言われぬもので、それは”感じるより他ないもの“と言われる。果たして、魅力は設計できるモノなのだろうか? いずれ考えたい問題だが、ここではとりあえずこうした従来全く接点のなかった異分野が直接接する時代になったことを確認しておきたい。こうした事態は少し大げさに言えば、世紀単位の長周期の変化の始まりを象徴する出来事と思われるからだ。

ところで、感性という語は、西欧の近代哲学の中で登場したモノだが、それが明治期の我が国に理性、知性などと並んで翻訳され、新しい日本語の仲間に加えられた。そうした文脈の中で、“感性”を字義から考える時、”感じるという精神的な能力”と言う表現は的を射ているように思われる。とすれば、ここに、魅力と感性の間に一つの接点を見いだせるだろう。

永い歴史を持つ哲学の一部門である美学やその感性学との微妙な関係などについては専門家に聞いて頂く他ないが、ここでは哲学や美学に関する知識を前提せずに、感じるという精神的な能力としての感性について、語の意味から考えてみよう。そ

図1.陶器の魅力とは

のため、取りあえず手元の国語辞典で「感性とは何か」を調べてみた。だが、結論を先に言うと、感性とは何かについて、すっきりした説明がなされているとはとても言えない。筆者は「近代以降人間の感性は宙づりになっている」とこのサイトでも以前書いたが、以下の議論で、語の問題の側面からその辺りの事情が垣間見られるかも知れない。

それはともかく、“感性”の項目を辞典(集英社、第2版)で引くと、
①対象からの刺激を感じ取る直観的な能力。
②感受性
とある。

上の記載によれば、感性の主な語彙は二つある事が分かる。それぞれの説明から、感性について読み取れることを考えよう。先ず、感性の第一の意味を考える。「外界からの刺激を感じ取る」ということが感覚レベルでの感じか、心の中で感じているかが明らかでない。とは言え、感性は単純な感覚自身と区別されて然るべきだろう。そこで、感じ取る直観的能力という言葉遣いに注目すれば、こころの中での作用を意味していると解釈されよう。とすれば、少し言葉を補って、「外界にある対象の刺激によって、直観的に何かを感じ取るこころの働き」となるように思われる。だが、そうだとしても、何かを感じ取る心の働きには、知性に繋がる、視覚をはじめとする外部知覚も含まれるのではないか。その点で感性の意味を抽出出来ているのだろうか。また、「微妙な差異を感じ取る心の働き」というやや立ち入った感性の捉え方とも隔たっていて、感性の第一の意味は判然としない。

感性の第二の意味、“感受性”に移ろう。この感受性も意味は色々ありそうだから、それを同じ辞典で調べると、感受性とは、「外からの刺激を受け入れること、また、その刺激を受け止め感動を起こす心の働き」とある。この意味はかなり把握できる。特に、“外からの刺激を受け止めて、感動を起こすという心の働き”は、話を芸術分野に絞るなら、例えば、ある絵画に心を奪われるように感じる体験(=感動)が該当するだろう。また、日常生活の中でも、成人になる前の、特に思春期に特徴的な、ちょっとした事に敏感に反応して、涙ぐんだり、叫んだりといった感情(情動)行動を挙げられるだろう。そのような特別な体験をもたらす“感受性”に相当する外国語は、英語ではsensibility(仏語;sensibilite′)が該当する。参考のため、英英辞典(New Oxford American Dictionary)を見ると、

Sensibility;the ability to appreciate and respond to complex emotional oraesthetic influences.

とある。僅か数行の文にすぎないのだが、先の国語辞典の説明と比べ、記述には質的な差が認められないだろうか。気になったので、感性の意味を、いくつか国語辞典で引いてみたが、どれも明確さを欠いているようだ。

国語辞典による感性の語義の問題はこれくらいにして、以下では、感受性、共感や感情移入といった互いに似通った概念の関係を考えたい。これらの語は、現在共通する面と異なる面が混然とないまぜにして使われているのではないだろうか。ここではまず、感受性と共感の関係を考えた後、共感と感情移入の基本的な関係を確認する。(以下では、感受性が感性の第二の意味であることは繰り返さないが、留意頂きたい。)

図2.   熱狂

まず共感であるが、最もプリミティブな意味は、ルソーによる「不幸な出来事に苦しんでいる人を見て、自然に哀れみ、同情すること」と言えるだろう。この共感の働きは、利害と関わりがないにも関わらず他者の心情に関心を持つことに特徴があるが、その元には、先の感受性、つまり、“刺激を受け止めて、感動するこころの働き”が関わっていることは明らかだろう。ただし、感動は、心を動かすことだが、必ずしも、サッカー観戦やAKB48の舞台のように熱狂する必要はない。ある意味で、感受性は共感の基礎にあると言って良いだろう。

続いて、感情移入および共感の間の関係を考える。ここで、魅力がテーマの本稿には格好の記事があるので、以下引用しよう:

対象の記事は、新聞(朝日)に最近掲載された、民間テレビ局のプロデューサーU氏の発言を中心とした記事の抜粋であるが、TV局のプロデューサーほど、視聴率という物差しを通じて魅力と戦っている人もいないのではないか。特に興味ある点は、ドラマという作品をどのような考えでプロデュースしているかだ:

04年に松本清張原作の「黒の手帖」を手掛けて以来、(~~中略~~)、主演の米倉さんと組んでヒット作品を生み出してきた。一貫しているのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと「私が視聴者として毎週会いたいのは、行動を含めて本音で生きているヒロイン。聖人君子みたいな役では感情移入できないので」。

注目したいのは、「自分自身が主人公に共感できること」と「聖人君主では感情移入できない」のように共感と感情移入が同列のモノのとして扱われていることである。ここで、言われている「共感」とは、自分が主人公の行為や感情に同感(同意)できるということと思われるが、その時、その主人公の行為や心情を把握する手段として自分自身の気持ちを主人公に移し入れることで(=感情移入)、主人公の行為や感情を把握できる、と思うのはあながち故なきことではない。

感情移入は日常会話で使われるありふれたコトバであるが、実際にはどのようなことを言うのか、余り説明を見ない気もするから、ここで A. スミスの説明(道徳感情論、水田洋訳、1973、筑摩書房)を紹介しよう:

「ある受難者に同感する時、観察者は出来る限り自身を相手の境遇におき、受難者に起こる可能性のある困難のあらゆる事情を、自身でハッキリ考えるようにしなければならない。」と言っている。この原著の説明はやはり分かりやすくはないから、思い切り簡単にして言えば、感情移入は、「他者に作用している刺激がもし自分に作用するとすれば、どんな感じがするか想像すること」と言えるだろう。

上の同感は共感と同じと考えても良いと思われるが、それは、単なる哀れみや同情のような感情ではない。感情が基礎にあるにしても、知的な働きが介在していることは容易に認められよう。

スミスの説明するところによれば、感情移入によって共感(同感)が得られるから、紹介したTVプロデュサーの記事のように、それらを同列に見做す、あるいは、感情移入を共感の代わりと見做すことが出来るだろう。

実際、こうした感情移入によって”共感を得る方法”は、他者の考えや気持ちの理解が求められる分野に適用され、極めて広い範囲に応用されるようになった。具体例を挙げれば、ドラマや小説の登場人物を理解したり、演劇の役作りのための方法とされている。ここで、他者は狭い意味の人間に限らず、小説などの作中人物といった仮想的な人物や芸術作品のようなモノも対象に含まれることも注意しておこう。

このように広く受け入れられている共感や感情移入だが、以下で検討したいのは、共感と感情移入を同列に扱うことや単純に同一視できると思われていること自体である。何故なら、共感と感情移入の概念は、必ずしも同列な概念と言えない不協和を見いだせるからである。その結果、共感と感情移入を同一視することは、概念の混同なのかも知れないのである。そのような話のきっかけは、「感情移入は、観察者のこころを相手に投影していても、それは観察者の感情や思考の押し付けにすぎないのではないのか」という指摘である。

詳しい話は次回に譲り、これまでの議論を取り合えずまとめておこう:

魅力とは語りえぬもの、と言われる。ならば、語りえぬモノは語らなかった、自然科学に象徴される近代に対し、語りえぬものを語る方法が問われているのが現代(の課題)と言えるのではないか。また、今回、国語辞典に見られた翻訳語の乱れは以前議論した”翻訳不確定性”の現れと言って良いだろう。この問題は上の課題との繋がりで今後更に注目されるかも知れない。

 

長島 知正  2017-11-30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか [3]

若いソシュールは、一世紀ほど前、様々な種類の言語があるにもかかわらず、言葉が同じように伝わるのは何故か、と問い、 「ことばを記号の一種と捉える一方、言葉の意味を社会的に共通の規約と見做すことによって、言葉が他者の間を伝わる普遍的な仕組みを科学的に解明できる」と夢見た。
確かに、このような言語観は科学的に言語を捉えようとする立場からは好都合に思われる。だが、それに反対の立場もある。その典型的な例として、社会的規約を無視した詩的なことば遣い、ポエジーがあることは前回紹介した。“言葉は社会的な規約に従うもの”と思い込んでいる人には、そのような言葉遣いをする人との会話は、ギクシャクとどこか伝わらないところが残るに違いない。これが、理科系・文科系の文化の間の相反ないし乖離現象の内実であり、広い範囲にまたがる根深い文化的対立の芯ではないだろうか。といっても、言葉よるコミュニケーション不全は理科・文化で区分されるような問題以外にも当然ある。その中のかなり部分は、言葉の意味と言葉が指示するものとの食い違いに起因しているように思われる。そうしたあれこれを議論し始めればキリがないから、ここでは、典型的な例を少しだけ挙げるに留めよう。

“私はキツネだけど、あなたはタヌキ?”という文は、字義上の意味を考えると、何か動物たちがアイサツしているようだが、日常生活でいきなり聞けば、何のことかと首をかしげるだろう。実際は、蕎麦屋で昼食のソバの注文をしている時の会話だ。また、ラジオのスポーツ中継でアナウンサーが、決定的場面を迎えて “絶対絶命のピンチを迎えました!”と叫んでいる。だが、このアナウンサーの叫びを聞いて、言葉自身の意味は分かっても、どんなことが実際に起きているかは伝わらない。ピンチやチャンスと言う言葉は聞き手の立場と切り離しては、指示するものが定まらないからだ。このような会話不全の原因が明らかな事例を挙げることはこれくらいにして、以下では、より間接的で微妙なコミュニケーションの問題に目を向けたい。

ところで、話者の感じている感情は、工夫を凝らした言葉で表現すれば、受け手にそのまま伝わるものなのだろうか。例えば、日常生活のコミュニケーションにおいて、“あなたに、私の苦しみがわかる!?“といった会話に見られる感情的な齟齬(そご)は、理系・文系などという区別と関わりなく、会話不全を生む。それはブツブツこころの中でくすぶり、ある時突然破裂したりする。
前回、新しい意味を創りだすという価値観に基づいた言語観に立つ、受け手主体の推論型コミュニケーションを紹介した。上のような会話における感情的な齟齬の問題もその範疇の問題と考えられる。しかし、ここではむしろ、この推論型コミュニケーションの範疇はとてつもない広がりがあることを強調しておくべきだろう。

図1.早朝の小鳥のさえずりに幸せな一日を予感する

上のような(会話不全という)事態は話者と聞き手の間の言葉によるコミュニケーションとは限らないからである。つまり、私たちは日常の暮らしにおいて、特に意識もせず身の回りの出来事を(ことばを超えた)記号として捉え、主体的に意味付けしている。言い換えると、私たちは日常的に、本来は言葉のようなメッセージ機能を持っていないモノに対しても意味を認め、自らの判断に基づいてそれに解釈を与えることをいわば習慣として行っているのである。例えば、はらはらと舞い落ちるサクラに世のはかなさを感じたり、庭に見つけた草木の新芽にいのちの息吹を共感し、また、早朝の小鳥たちのさえずりに、良い一日を予感している。ここでは、こうした毎日の暮らしに起きる、身の回りの小さな出来事をきっかけに生じる感情や印象のような心に浮かぶ心象について考えたいのである。上の例をとると、小鳥のさえずりが記号を表し、その記号が幸いな一日という意味を表している現象と見做せる。「何かが別な何かを表して(=意味して)いる」という意味で、これを記号あるいは記号現象と呼ぶことが出来る。こうした見方は、言葉ではないが、あたかも言葉のようなものとして、事物をことばに擬して捉える言語観と言えるだろう。それは伝統的な言語観とは異なり、相容れないモノも含まれるから、人々の間に目に見えない壁を作り、コミュニケーション不全を産むといったことにも繋がる。

以下では、このような記号現象が、前回取り上げた、受け手の主体性に基づくコミュニケーションの一種として、仮説形成推論(アブダクション)と言われる推論によって把握出来ることを示そう。初めに、仮説形成推論について説明する。
簡単に言うと、仮説形成推論は、私たちの周りにおきた説明がつかない現象(出来事)に出会った時(C)、その出来事が導かれるような仮説(H)を作って独自な推論をする。つまり、仮説Hによれば、現にある出来事Cがうまく説明できる。だから、Hは正しいかもしれない、と推測をするのである。簡単な例を挙げてみよう:

机の上に一つまみのコシヒカリの米粒がある。その机の上には、何袋かコメ袋が置かれている。そのコメ袋の中に、コシヒカリのコメだけが詰まっているコメ袋(a)が一袋見つかった。しかし、その他のコメ袋には、どんな種類のコメが混じっているか分からない。

この状況で、問題は「机の上にある一つまみのコシヒカリは、どのコメ袋からきたコメ(コシヒカリ)なのか」である。

この問題に対して、仮説形成推論は、「コシヒカリだけが入ったコメ袋(a)から、一つまみコシヒカリをとって机上に置いたのではないか、即ち、 机上の一つまみのコシヒカリは全て袋(a)からのコメ(コシヒカリ)ではないか」と仮説を立てる(推論する)。

この推測を論理的な形式で書けば、
(C)一つまみのコシヒカリがある。
(A)コシヒカリだけが入った袋(a)が見つかった。
(C)と(A)を前提に、結論として、次の仮説(H)
(H)一つまみのコシヒカリは全て、袋(a)からのコメ(コシヒカリ)である。
を推測する。

この推論は、広く科学で用いられる推論の形式、演繹推論や帰納的推論とは異なっている。つまり、演繹推論では、真理を保存したかたちで、前提に含まれる内容を分析・析出する。また、帰納推論は、有限個のデータを基に、一般的な命題を形成する推論である。これに対して、仮説形成推論は、説明のつかない現象に対して、合理的な説明をするための仮説を、上のような形式に従って導き出すのである。

図2.枯れすすきは晩年の記号?

上の例では、机上のコメ粒(コシヒカリ)の出どころが、どの袋から来たかについて、それがすべて(a)の袋からと推測した。しかし、コシヒカリは(a)のコメ袋以外にも含まれている可能性が否定されていないから、その推理結果はあくまで誤る可能性がある。ここに挙げた推論の例は正しい結果を導くというより、シャーロックホームズの推理小説などに見られる、意図的に誤った推理を読者に誘導させる仕掛けられたトリック(罠)のように感じた人がいたかも知れない。科学的な問題領域での正しい推論として使用するためには、仮説(推理結果)は採用すべきか検定が不可欠である。実際、この仮説形成推論は新しい科学的発見を導くための方法として考えられ始めたのであるが、ここでは敢えて、科学的な対象の対極に位置づけられるような感性的な問題を取り上げてみよう。

具体的には、先に引用した“早朝の小鳥のさえずに、幸いな一日を予見する”という、一種の感性的なこころの動きを対象として、上の仮説形成推論を適用してみる。記号現象として解釈すれば、「早朝の小鳥たちのさえずり」という記号に、「一日の幸い」というイメージを意味として読みとる過程と見做せる。この記号現象で興味あることは、“小鳥の鳴き声に、良い一日を読み取るというこころの働きである。以下で、それを先の仮説形成推論として考える;
(C):早朝の小鳥のさえずり    ‥・・・ 手元にある出来事(事例)
(A):幸運な一日     ・・・・・ 出来事の持つイメージ、印象(=意味)
(C)と(A)を前提として、仮説(H)を形成(こころの中に創造)する
(H):何か良いことがある日は早朝に小鳥がさえずる   ・・・・こころに形成された仮説

誌的な記号として表される “小鳥たちのさえずりに、一日の幸い” を読み取るこころの働きは、何気ない日常の出来事の中に何か明るい出来事を感じ分ける受け手のセンスであり、これは感性と言えるものだろう。それが新しい仮説を作り出す上のような推論として表現されている訳である。素人考えでは、こう表現されることによって、詩が詠まれる一歩前に近づくと言って良いのではないかと思う。これが示唆していることは、小さくないのではないだろうか。その一つは、机上のコシヒカリの来歴を探る例が、推理小説の謎解きのように正解を求めるための推論である一方、上の例の推論は誌的な世界を創造する過程に関わるという対照を示している事だ。ここで注目されるのはもちろん、推理的な探索誌的な表象という質的に対照的な課題が同一形式で扱われている事実である。

議論が大分荒っぽくなってきたので、この辺で、表題にある問題の中心からは相当逸脱する事になるが、今後の科学技術の課題に繋がる側面から、本論をまとめよう。

ことばは固定された意味を伝達するものという伝統的な言語観とは異なる新たな言語観に注目し、特に、受け手主体のコミュニケーションにおける言葉の新しい意味の創造という特性を検討した。具体的には、「小鳥たちのさえずり」という外界の出来事を「幸いな一日」という表象に結びつける、誌的なアイディアを表す記号現象が仮説形成推論として表現されることを例示した。この結果は、(1)「誌的なアイディアに含まれる創造性が形式化して明示される」、と同時に(2)「そのアイディアの創造的な仮説は誤っている危険がある」といった相反した特性を併せ持つことを示している。その特性の意味を更に検討すれば、「仮説形成推論は、芸術の創造性と科学的真実をつなぐ論理的な場である」という解釈が成り立つかも知れない。また、モノづくりのための方法として仮説形成推論は注目される。特に、何らかのイメージに合う新しいデザインを試行錯誤によって決定していくプロセスを支える思考方法、また、ユーザーの立場に立つ製品の感性評価法の開発に有用と思われる。これらは、各分野の専門家には経験的によく知られていることかも知れないが、モノづくりのための工学の基盤という認識には未だ至っていないのでなかろうか。

 

長島 知正 (2017-10-31)、(加筆:2017-11-01、02)