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“それはセンスの問題だ”(ⅳ)

前回までの簡単な復習から始めよう。”○○のセンス”という言葉や”それはセンスの問題だ”という文言は極めて広い分野で、とりわけ事象の局面を左右するような場面で使われている。問題はそうしたセンスとは一体何なのかである。前回まで、センスの働きをことばから探るべく、国語辞典でセンスの語義を、続いてセンスの原語senseの語義を英和辞典で調べた。しかし、こうした言語世界の探索は、センスとは何かに対する答を導くというより、逆に問題を拡散させるという、外来語が抱える問題を露わにしてしまった。となれば、センスとは何かを捉えるには、言語の世界をこえた思想の領域に入る必要があるようだ。

当面する課題は二つある。中でも肝心なのは、センスの第一の意味、”物事の微妙な感じ(よさ、味わい)を知る(感じ取る)心の働き”と”それはセンスの問題だ”という文言が含意する「様々な事象に一瞬のうちに結論を下す」というセンスの関係は自明ではなく、それらはどう結びつくのか、という問題だろう。もう一つは、センスの第二の意味がバラついているように見えることだ。

はじめの課題から始めよう。センスの第一の意味は、物事の微妙な感じ(よさ、味わい)を知る(感じ取る)こころの働きである。一方、”それはセンスの問題だ”という文言の方では、物事の微妙な感じ(よさ)とか味わいに特に注目している訳ではない。両者はセンスに着目していても、想定している対象は一般に異なっている。また、そうした対象の違いに加え、記述の仕方にも違いがある。ここで、”○○はセンスの問題だ”という文言で、○○に代入可能な対象は、芸術や科学など従来議論されてきた分野にとどまらず、それらとは非常に異なる、例えば、サッカー等のスポーツや武術等の分野にも及びそうだということを思い起こそう。そうした広い領域に通用するセンスには、近代の枠組みが見失った、分野を繋ぐ横糸が潜んでいるかも知れないと思うのである。

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前回、センスの第一の意味は辞書の中で原語senseの意味と大きく食い違っていると云った。とは云え、senseの最も基本的な意味は”感覚”(感じる)にあると考えてよいのでないだろうか。ここで、”感覚”とはいわゆる感覚器によって感じられる”感覚”を指す。何故なら、そうした”感覚”は広く動物が生きていく上で必須のものであって、その重要性が”感覚”をsenseの第一の意味に置いた理由のハズだからだ。

”感覚”というsenseの最も基本的な意味が、(外来語の)センスでは消えたのは、国語辞典の編纂者/担当者が哲学や美学関係者だからと考えるのは筆者の思い込みだろうか。もし、理科系の人がいれば、そうならなかったのではないか。いずれにしても、ここで重要なのは、senseの原義である”感覚”を一般化し、広く外界(世界)を感じる性質ないし能力として”広義の感覚”というものを考えた人がいた事ではないだろうか。ここで、”感じる”ということは、”生きる”ということに比類するほどの広がりを持つことに注意したい。”感じる”ことを○○感と表現される場合に限っても、満腹感、満足感、幸福感、高級感、崇高感、正義感、違和感、一体感、存在感、等々のように、実存的なものから抽象的なものまで広がっている。さらに、こうしたヒトに特有の概念的な感じに留まらず、感じることは、すべての生き物が生きてある証し(あかし)でもあるから、感じるということを起点に世界をひとくくりにするような理屈を夢見る人は少なからずいたに違いない。晩年まで”美しい”という感じにこだわりを見せたカントのような人もそうした一人だったのだろうか。

我が国では、西欧哲学は混沌とした世界の中に秩序を与える見方(認識)や合理的思考を提供してきたと云われ、また実際私たちは、西欧の近代化の流れにのって生活している。が、哲学は常に正しいことを教えてくれるなどとは思わない方が良い。卑近な例として、センスの意味からsenseの原義である”感覚”という意味を消したのは哲学(関係)者でないかと推測されるのである。何故なら、西洋哲学では感覚は真理の邪魔をする存在と見なしてきたからだ。

話をはじめの課題に戻そう。そのため、senseの原義つまり、五感としての感覚を出発点に据え、その延長上で、五感の意味で感じる感覚とは別の”感じ”(感覚)について少し掘り下げていこう。感じること全体の広がりについては今後の課題とし、ここでは、伝統的な哲学を中心とした領域で”感じ”がどのように捉えられたかに注目する。いわゆる五感と呼ばれる感覚は個別感覚器に依存した身体的な能力であるけれど、西欧哲学では、それは人間の精神とは対極にあるという伝統的な見方がある。云い換えれば、(五感の)感覚の対極に精神(こころ)があるという枠組みであるが、こころで”感じる”ような働きを捉えるためには両者が重なった領域を考えざるを得ない。そのため、こころで感じるような働きには二通りのアプローチがあり得る。端的な方法は、精神の中に感覚的な働きを想定すること、つまり、”何か”を感じる精神(こころ)という見方である。この段階で、感じる対象として”芸術的な対象”を想定すれば、センスの第一の意味に採用されている「物事の微妙な感じを知る心の働き」を素直に受け入れることが出来るのでないだろうか。

もう一つのアプローチは、上の見方とは逆に、センスをあたかも心で感じているような感覚、つまり心(精神)のように働く感覚と把握しようとする。つまり、五感で感じる感覚は個別感覚器の機能によって、互いに異なる個別的なものを感じるのに対し、センスは、個別的感覚を超え、それらにはない複数の感覚にまたがりそれらを統合し外部世界の全体的感じを捉えるという(特徴)性質を持つと考えるのである。外部にある事物の全体を感じる働きは、実在を離れ想像による心(精神)の領域の働きとみなせることは、その典型的例として、甘いささやき、心に響く、といった日常生活を豊かにすることばの比喩的な使い方に現れている。

こころで感じるようなこうした働きは、芸術的な対象に限らず広い対象に対し、外部世界(事象)の全体的感じを捉える性質ないし能力として通用する、センスの基本的な一つの特徴と云えるだろう。

さらにセンスの基本的な特徴を考えよう。センスは感じるこころの働き、あるいは、こころで感じるような感覚であると云ったが、いずれにしても、感じるということによって、必然的にセンスには”瞬時の出来事”という特徴がある。とは云え、センスで大切なことは、感じることに判断が伴い、感じた瞬間すでに判断がなされている点である。これはもちろん、命題の連鎖によってなされる推論のような、理性の中核にある論理的判断とは別のものである。しかし、以上のセンスの特徴だけでは”○○はセンスの問題だ”という文言が周囲の者をたじろがせるような響きがある理由を説明するには足りないだろう。不足しているのは何か。センスは対象である様々な事物について、良し・悪しの判断を瞬時に下すからではないだろうか。良し・悪しは対象についての価値に関する判断である。対象はさまざま異なってもセンスは、一瞬のうちに各対象の全体的な価値を含む判断を下してしまうから、周囲の者はたじろがざるを得ないのではないだろうか。

これまでの議論をまとめておこう。まず、senseの原義から出発し、国語辞典にみられるセンスの第一の意味は、芸術的対象とくに美的なものを対象に作られたであろうこと、また、”心の領域で感じる”というセンスの基本的な特徴を考えることによって、とりあえず芸術分野をこえた対象にも通用すると思われるセンスの幾つかの機能を示した。しかし、芸術における鑑賞と異なり、運動を伴うスポーツや武術分野におけるセンスに限っても、それは行動と繋がっていて、一般化するためには、上述したセンスの特徴が、スポーツや武術などにおいて適切か更に吟味が必要である。

いずれにしても、”それはセンスの問題だ”という文言が当てはまりそうな分野は恐ろしく広く見える。その事実は何を意味しているのか、興味深いこれからの問題だろう。

sixth sense(第六感)、common sense(常識)、good sense (思慮、分別、良識)などセンスの第二の意味にも繋がりのある二つ目の議論がなお残ってしまった。それらについては、別の機会に取り上げることにしたい。

長島 知正        (2016-12-16)

“それはセンスの問題だ”(ⅲ)

”〇〇はセンスの問題だ”という文言には、センスということばによって瞬時に結論付けられ、あたかも聞くものを切り捨てるような独特な作用がある。このような働きをするセンスとは一体何なのか。前回とりあえず、国語辞典を引き、センスの第一の意味が、”微妙な感じ(味わい)を知る(感じ取る)心の働き”と集約されることを確認した。(以下、”第一の意味”の”第一の”を略し”意味”と記す)。そうしたセンスの意味と聞くものをたじろがせてしまう独特の作用の関係は自明ではないけれど、まず、センスの意味が何処から来るのか、気になるところだ。センスの原語senseに由来を尋ねるのは自然なことだろう。とはいえ、カタカナ外来語にはそのシンプルなイメージとは裏腹に、一般に複雑な背景が潜んでいる。どうやら、”センス”という外来語はその典型らしく、後で分かることだが、原語senseの語意とセンスの意味の対応は複雑を超えている。以下では、センスの原語senseに焦点を当て、センスとsenseの意味の間の錯綜した関係を眺め、その上でセンスと感性の繋がりも検討したい。

まず、センスの原語”sense”の語意を、英和辞書(大修館ジーニアス英和大辞典)で調べてみる。以下、取りあえず、名詞の上位の意味から順に記す;             ①感覚、                                 ②a;(・・・に対する)認識力、判断力、センス、・・・感、b;(・・・に対する)自覚、観念、 ③(・・・する)良識、思慮分別、道理にかなったこと、常識、            ④(・・・という)感じ、気持、感触、                        ⑤正気、意識、本性、本心、                          ⑥意味、意図、趣旨、                            ⑦価値、意義、効果、                            ⑧以下、省略。

これから直ちに分かるのは、日本語のセンスとは対照的に、原語senseには、数多くの語意が含まれていることだろう。当然、センスと原語senseの意味に1:1の対応はない。さらに、意外なのは、senseの語意には日本語のセンスということばの特徴である「物事の”微妙な”感じ」の”微妙な”に相当することばが見当たらないことだ。ここには、原語senseの語意の中にセンスの意味が明示的には含まれていない、という奇妙な状況が見られる。(ただし、②で、認識力、判断力の後に”センス”とあるが、このセンスとは何のことなのだろう。原語senseに由来するセンスを、原語の語意として充てるのは辞書として不適格である。) こうした奇妙な事態は、一体何を示しているのだろう。私たちはセンスの意味を探ぐる作業を始めたのだが、想定外のことに出会ったらしい。端的に云うと、言語世界の脆い断層に当たったのである。つまり、外来語(翻訳語を含め)を使用するとき、上述した原語と外来語としての日本語の間にある語意のズレ(違い)が、常に存在しているということなのだ。例として、もし、センス(日本語)をsense(原語)に機械的に置き換えるとすれば、意味のない(ナンセンスな)言葉が生れてしまう訳だ。簡単に答えを出せる話ではないけれど、そこには理科系の人も避けて通れない我が国の情報化の基本的課題の一つがあると思うのである。

Sakura(2)

図3-1.日本人の感性

日本語のセンスの意味に含まれる”物事の微妙な感じ”は日本語特有のニュアンスのようにも思われるが、それに対応したことばが英語にあるだろうか、とりあえず再び辞書を引いてみよう。答えとしては、ひとまず、senseとは別なsensibilityということばが近いと云えそうである。つまり、sensibilityの意味 には、                    1.(芸術・倫理などに対する)識別能力、感性。                 2.(・・・に対する)敏感さ。                          3.(傷つきやすい)感情、細やかな神経。                    などが挙げられているからだ。ちなみに、sensibilityの語源が後期ラテン語のsensibilitasであることも記されている。ここまでくれば、語形から、sensibility=sense+abilityと分け、sensibilityがsense(=センス)とは別の語であることははっきりしてくる。云い換えると、日本語のセンスの原語はsenseであるけれど、センスの意味に近い語はsenseではなくsensibility なのである。 上のsensibilityの語意には”感性”が含まれている。感性ということを一言で説明せよと云われた時、筆者は”感性とはセンスのこと”、と云うことにしてるが、正確には、”感性とはsensibility”、と云い直さなければならないことになる。

センスにまつわるここまでの話では細かい議論に手間取ってしまったが、ようやく、センスの意味と原語を結びつける道として、センスの意味”物事の微妙な感じ(よさ)を知るこころの働き”に対応する原語はsenseではなく、sensibilityが対応している、という本筋が現れて来たようだ。

しかし、センスの第二の意味に目を向けた場合、sensibilityではセンスの(第二の)意味のバラつきを説明できそうにない、さらに、上で棚上げしたセンスの第一の意味と聞くものをたじろがせるような作用との関係など、センスについては未だ多くの議論が残されている。こうした事を捉えるには、英語などの個別言語が扱う範囲をこえ、歴史的にセンスという語が作られた思想の領域に立ち入らなければならないようだ。

次回これらをまとめて取り上げてみたい。

長島 知正  (2016-11-13)

 

 

 

 

 

 

 

 

”それはセンスの問題だ”(ⅱ)

考えようによっては、”〇〇はセンスの問題だ”という文言の対象範囲が極めて広いという事実は驚くべきことである。何故なら、論理的な正当化という近代が要請する手続きを取っていないとは云え、その文言は、それ次第で事態が大きく変わるような場面で、一瞬のうちになされる判断だからである。

分かり易い例が、従来重要な研究対象と見做されてこなかったスポーツの分野に多く見られるようだ。身近な例としては、サッカーにおける選手達はそのような判断(=センス)の良し悪しによって、評価がなされる典型だろう。他の球技スポーツもほとんど同様に思われるが、さらに興味あるのは、歴史的経緯などが異なっている武道などにもそれに通じるものがあるように見えることである。いずれにせよ、ここで重要なことは、スポーツと云っても、選手の能力は単に筋肉を動かす運動能力ではなく、状況を見極める知的な能力としての判断で評価されている点である。その判断は勿論、時間をかけてなされる論理的推論ではなく、一瞬のうちに下されものでなければならない。私たち見るものは、優れた選手の一瞬の判断(=センス)のすばらしさに魅せられるのである。

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図2-1 魅力はセンスの問題!

”それはセンスの問題だ”という文言が、”センス”ということばによってあたかも聞くものを切り捨てるような独特の雰囲気を産み出し、また一流のサッカー選手の一瞬の判断によって見るものを釘づけにする、そのような効果はどうして生まれるのだろうか。興味をそそる課題である。以下では、センスと云う語の意味を立ち入って検討し、センスとは何かについて掘り下げてみよう。

前回、国語辞典(集英社)を引くことによって、センスとは「物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力」とひとまず考えた。しかし、センスは外来語であるから、国語辞典の編者や執筆者の観点によって、センスの語意の採択や解釈に違いがあることも考えられる。そこで、手元にある幾つかの国語辞典で”センス”を比べてみた。すると、

[1]「物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力。感覚。」(集英社)、       [2]①「物事の微妙な感じ(よさ)を知る心の働き。」、②「普通の人なら当然持っているはずの感覚。常識。」(三省堂)、                        [3]①「物事の微妙な感じをさとる働き・能力。感覚。」、②「思慮。分別。」(広辞苑)

となった。これより、”細かな違い”を気にしなければ、センスの第一の意味は、物事の微妙な感じを捉える働き・能力と云って良い。”細かな違い”に関しては、[1]と[3]には”感覚”ということばが付け加えられているが、[2]ではそれがないことによる。つまり、センスの第一の意味は基本的に、物事の微妙な感じ(味わい、よさ)を知る(感じ取る)(心の)働きとくくれるとして、”感覚”という語が並置されている[1]、[3]では、その働きがこころと感覚双方(知覚と感覚)により、他方[2]では、それは、もっぱらこころの働き(知覚)によるもので、感覚は関与しないと捉えていると、解釈できるだろう。だとすれば、この違いは結局、感覚と知覚を区別して考えるか、区別できないとするかという立場の違いに帰着すると云えそうである。

感覚と知覚の関係の取り扱いは厄介な問題をはらんでいるけれど、ここでは、感覚と知覚が区別できるとして、第一の意味に現れた”センス”の特徴について考えたい。[1]、[2]、[3]の第一の意味に書かれた”センス”は、幸い「事物の微妙な感じ(味わい)」を「知る(悟る、感じ取る)」というコンパクトな形にまとめられる。これより、国語辞典を比較した結果は、「センスの第一の意味は、物事の微妙な感じ(味わい、よさ)を知る(感じ取る)心の働き」と集約されよう。

この要約のポイントは、センスは、”感じる”ことによる一瞬で行う判断であるが、感覚器官による感覚(感じる)とは、”こころ(精神)で知る(感じ取る)”という点で概念的に区別される、ということにある。この”こころの働き”は、勿論、論理的段階を踏んで判断し結論づける過程とは別のものである。そうした事の反映が、”センスのいいデザイン”とか、”ユーモアのセンス”といった既成の表現に見られるが、センスで大切なことは、埋もれている表現を見出すことだろう。意外な発見の契機がそうした表現の工夫の中にこそあるからである。

一方、センスの第二の意味については、[2]は、「普通の人なら当然持っているはずの感覚。常識。」、また[3]では、「思慮。分別。」とある。それらの意味は異なって見える。 結局、外来語センスの意味として、上で議論した「物事の微妙な感じを知る」という第一の意味がどのようにできたのか、さらに第二の意味が何故バラついているか等を理解するには、センスの原語”sense”にその由来を尋ねる必要がある。

考えるに、センスの原語senseには、 nonsense(無意味)、sixth sense(第六感), common sense (常識、共通感覚)等、日本語としては一見無関係のように見える、興味深い語が連なっている。この辺りには多くの話題が残されているけれど既に予定の紙幅を大幅に超えてしまった。それらについては、稿を改めて考えることにしたい。

長島 知正 (2016-10-28)

 

 

 

 

 

 

”それはセンスの問題だ”(ⅰ)

我が国で、”それはセンスの問題だ”と実際云ったことがある人は余り多くないかも知れないが、そのことばには下に述べるような一種独特の響きがある。その文言が発せられる場面を考えると、会話の中で話題にのぼった判断について、その根拠が問われていることが多い。だが、根拠を与えるべき場面で、ただひとこと”それはセンスの問題だ”という答えが返ってくるのである。その時、”センスって何?”と聞けば良いのだが、実際に聞くことははばかられてしまう。その文言はそういう特殊な雰囲気を産むのである。だから、それは聞いた者にそれ以上話を進める気を失なわせ、せいぜい”ああ”、とか”そうだね”と云わせる、一種の問答無用な断定とも云える。

”それはセンスの問題だ”という答え方は、直感による断定と云えるが、それは明らかに、問われたことに対して、根拠となる理由を論理に従って明示的に答える、近代の科学的思考とは異なっている。その文言は科学的、あるいは理性的思考法と相いれないものだから、センスそれ自体、あるいは、センスに頼った直感的判断などは良くないもの、出来るだけ使ってはいけないものと見做そうという気持ちは故なきことではない。そのためかは知らないが、我が国では古くから、”山勘(やまかん)”ということばが”当てずっぽう”でいい加減な予想の代名詞とされてきた。

しかし、そういう答えや態度が科学的なものと相いれないが故に、どこかで反科学的で、意味のないものとか誤ったものといったひどい誤解を産んではいないだろうか。”それはセンスの問題だ”と云う時、論理的な方法によっては当面結論が導けなくても、その代わり直感的判断で結論が得られることも示唆しているのである。誰しも身の周りの出来事の中で、例えば、外見がすっかり変わった友人を瞬時に認識したりするような、科学的に結論を導けそうにないにも拘らず、直感によって言い当てるという経験を一度ならずしているはずだ。

このように功罪相半ばし、一見捉えどころなく見える”センスの問題”について、詳しい様相に立ち入るには、センスの意味を掘り下げる必要がある。

 

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   図1-1.音楽はセンスの問題だ

取りあえず、国語辞典(集英社)で”センス”の語意を調べてみると、”物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力。感覚。”とある。大掴みすれば、下線部にあるセンスの説明は私たちの経験と整合したものと云えるだろう。

ところで、その語意を受け入れるとした時、”それはセンスの問題だ”という文言はどのような分野に適応するのだろう。広い分野に及ぶことは容易に見当がつく。何故なら、”それ”に代入出来る語は非常に広いからである。仮に芸術関係を想定すれば、例えば”芸術はセンスの問題だ”という”まともな”文言になる。また、芸術をいろいろ分けて、例えば”作曲はセンスの問題だ”のようにも使える。芸術関係以外はどうだう。”数学はセンスの問題だ、あるいは”理論物理はセンスの問題だ”等もOKのようである。また、サッカーなどのスポーツでも、十分使える。こうしてみると、”〇〇はセンスの問題だ”の〇〇に該当する分野のすそ野の広がりは恐ろしい程だ。これは、センスが理系・文系と云った既存の学問の枠はもとより、芸術、産業、スポーツのような社会的に作られた壁をはるかに越え、広く機能するポテンシャルを示していると思うのである。

長島 知正      (2016-10-17)