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共感の視点(序説)

共感に関する基本的な事柄として、前回までに1)国語辞典で扱われている意味、および、2)日常的に使用されている「感情移入と共感の関係」について、検討した。しかしながら、例えば、前回取り上げた「共感は感情移入よって得られるか」という問題は論理的に成立しないという結論を導いたけれど、実際には新聞などでも相変わらず、「感情移入によって、共感が得られる」という論理はいたるところで使われている。何故なのだろう。議論が不完全なせいなのか、あるいは別の理由があるからなのか。いずれにしても、共感についての前回までの議論には消化不良な印象が残ったようだ。

そこで以下では、共感について不足している課題の議論を補う一方、新たな視点から、共感の現象を掘り下げてみることにしたい。

 

先の冬季オリンピック・パラリンピックでは、わが国は多くのメダルを獲得し盛り上がりを見せた。昔ほどではないにしても、金メダルを期待される競技の放送は多くの人が実況放送を視聴しているようだ。そこでは、メダルをかけて争う日本選手を自然に応援するという感情、一種の共感の働きが見られる。私たちは普通、知らない国の選手の競技には興味を持たないが、同胞選手の競技に関心を寄せる。

とは言え、金メダルを争った小平奈緒と韓国の選手(李 相花)の友情も話題となった。これは、先の同胞意識(としての広義の共感)とは別な、国の違いを超えた、スポーツマン個人の思い遣りとして共感を呼んでいる。これらの例にも見られるように、一口に共感と言っても、そこには相当違うものが含まれ、全貌を把握することは簡単でない。 共感を定義することは現在も未だ閉じていない課題と思われる。

図1.冬季オリンピック

本稿の目的は、永い歴史と広がりを持った共感への序説を兼ね、今後取り上げる予定の概要をスケッチすることである。今日、共感という言葉は普通、苦しみや悦びに関する同じ感情を他者と共に持つという意味で使われているが、その起源は古代に遡ることが知られている。例えば、西欧では、アリストテレスが哀れみに注目している。アリストテレスが考えた“哀れみ”の意味は“同情”とほぼ重なっているようだ。また同時代に、仏教や儒教の思想で、それぞれ“慈悲”や“哀れみ”が重要なものとされてきたことも興味深いけれど、ここでは、共感に関する古くからの議論に大きな影響を与えたと思われる、アダム・スミスによる“共感論“を一つの手掛かりとして、次回からの議論の準備を進めていきたい。以下では、今後取り上げるおおよその流れを説明しよう。

 

スミスは、18世紀産業革命の影響が現れ始めた英国グラスゴーで“国富論”を著し、経済学の父と呼ばれている。彼の経済理論をどれほどの人が理解しているかは別にしても、国富論の名は誰でも聞いたことがあるに違いない。しかしわが国では、彼が国富論の前に、人の道徳は感情のSympathyを基礎に成り立つとして、“Theory of Moral Sentiments”(日本語訳、道徳感情論、上・下、水田 洋訳、岩波文庫)を著したことを知る人は多くなさそうだ。この辺りの話は、劇的な文明化を150年という短期間で遂げたわが国では、特に馴染みにくいものなのだからかも知れない。

そのせいかは分からないが、わが国で“人間とはどういうものか”といったような基本的な議論に接する機会は少ない。そうした議論はいくらしても、“それが愛と言うものよ!”という寅さんのセリフの方が好まれる現実は変わらないでしょ、という嘆き声も聞こえるが、それは、我が国では魅力ある議論が少ないからという見方は偏見だろうか。

 

”人間がどんなに利己的なものと想定されうるとしても、彼の本性には、彼に他の人びとの運不運に関心を持たせ、彼らの幸福を、それを見る喜び以外何も得るものがないにも拘わらず、自分に必要と感じさせてしまうというもう一つの原理がある。それに属するものに、哀れみ、あるいは同情がある。”

道徳感情論の冒頭に述べられたスミスの言葉である。

スミスはこのように同情に注目するけれど、同情自身を問題にするためではない。彼の目標は、人間の行為が適切か不適切か判定するために同情と言う感情を使うことである。スミスの考えでは、他人のある行為が適切なものであるか否かは、その行為の動機となった感情が、その感情を引き起こした原因と釣り合っていることで判断される。つまり、他人の行為の動機となった感情を、その原因からみて適切であると判断することにより、その行為自体が適切であると判断する、というのである。こうしたスミスの道徳判断の考え方には、他人の感情が適切であるかどうかを判断するために、自身の持つ対応する感情を用いるよりほかないという前提があると言えるだろう。

Theory of Moral SentimentsのキーワードがSympathyであることは誰にも明らかなのだが、道徳感情論の訳ではSympathyに対して”共感”ではなく“同感”が当てられている。そこには留意すべき点があるようだ。スミスのSympathy を単に“共感”と言う場合もあるけれど、同感を共感と区別した方が適切な時もある。道徳感情論でのSympathyの訳語としては同感がふさわしい。何故なら、上で触れたように、彼はSympathyを行為の適切性を判断(是認、否認)するという文脈で用い、内容を単純な同情や共感から大きく逸脱させているからだ。

そうした内容のズレに呼応するように、スミスは、感情移入に“類似した“概念として、“境遇の交換”という概念を導入した。これは、T. リップスの感情移入と同様、共感を受動的ではなく能動的なものとして捉え、同時に、対象を人間以外のものにも拡げたと受け止められている。その効用は情報メディア隆盛の今日決して小さいものではない。しかし、スミスの”境遇の交換“が許容される範囲やリップスの感情移入と異同については、必ずしも十分検討されてはいないようだ。

図2.綱渡りは見ているだけで疲れる

スミスの道徳感情論には多くの独創的な考えが示されている。以下そのいくつかを簡単に触れてみよう。共感の典型例として、スミスはサーカスの綱渡りとそれみる観客の身振りを挙げていることもその一つだろう。彼は、綱渡りする当事者と観客の間に現れる身体的な同調動作、言い換えれば身体的共鳴に着目し、これが共感現象の、十分明証的に説明は出来ないが、明らかな観察によって証明される例であると言う。何故なら、観客は“境遇の交換”によって、綱渡りしている当事者の立場に立ち、その気持ちになって、身体をよじりバランスをとるのだ、と言いたいのである。

このスミスの議論の筋道にこそ、「感情移入によって、共感が得られる」という今日常識となっている原型があるように思われる。ならば、その前提は成り立つのだろうか、また、感情移入と境遇の交換は同じものか、等々を検討しなければならないだろう。

少し考えると、綱渡りの問題は、共感の成り立ちに関する問題も投げかけていることが分かる。その一つに共感と模倣の関係の問題がある。旧聞になるが、脳科学から、ミラーニューロンという神経細胞が模倣の生理的基盤に深くかかわっていることが指摘された話題を知っている人も少なくないだろう。

哲学分野で、人間の自他識別の問題に関わって模倣が議論されることがあるが、スミスは道徳感情論の中で、自分の行為の道徳判断の原理として、「他人は自分自身の行為をみるための鏡」と述べている。これは、20世紀のラカン精神分析学における、自己の鏡像に関する「鏡像段階」論の先駆けとなる見方とも言え、スミスの人間を見る目の確かさを現わしているようだ。

 

今日、共感を議論する狙いの一つは、スミスの言葉を借りれば、人間の本性とは何かについて、人間は本来自らのことを追求する以外に、他者を思い遣る性質、つまり利他性を考えるところにある。とは言え、”哀れみ”や”同情”という話から始まる共感の議論は、それらの言葉が今日どう受け止められているかを考慮しなければならないのかも知れない。つまり、「同情なんかされたくない」という言葉が時代の気分を特徴づけている、と言われる今日、哀れみや同情は最も嫌われるコトバだということをどう考えるのか、である。

好き嫌いは個人の主観だから、確かに時代の気分を変えることは困難だが、哀れや同情という言葉について、適切な知識を補うことは出来る。言い換えれば、言葉の意味は変化しているという事実に注意したいのである。そのような言葉の典型が、哀れや同情である。とりわけ、哀れという言葉ほど、見事に意味を変化させた言葉も珍しいだろう。詳しくは辞典などをご覧いただきたいが、哀れは、現在、気の毒で見ていられないような、みすぼらしく悲惨な様を指すものと受け取られているけれど、元来全く違っていたのだ。

端的に言えば、”哀れ”の原義は、深い感動を感じたときに発する感動詞で、そもそもは,称賛や悦びを表していた。それが後世、“アッパレ”という褒めたたえる言葉が現れて、現代語として引き継がれた。その一方、哀れという言葉の意味は時代と共に悲哀や哀れみという対照的な意味で用いられることが増え、今日の使い方に繋がったのである。この他、しみじみとした風情といった意味でも哀れは使われる。同情についても、少なくとも戦前は“情を同じくすること”という、現在の共感と同様な意味で用いられ、否定的な感情を指すものではなかった(文献1)。

 

哀れは特別な日本語である”。150年ほど前まで、わが国で最も基本的な心情を現わす言葉が「もののあはれ」であり、そこに、(万物一体といわれる)わが国の感性の特質が現わされている、といった先達の指摘(文献2)を付け加えておきたい。

筆者のような理系人間にとって、「もののあはれ」の感性を取り戻すことは、恐らく出来ないだろが、少なくとも、そこに着目して、現在、西欧近代の美学に始まる感性と伝統的なわが国の感性を見比べることは無意味でないと思うからである。

次回から、こうした共感の広がりと成り立ちをめぐる問題を様々な視点から検討してみたい。

 

長島 知正    (2018-04-14、加筆;2018-04-17)

 

文献

1.共感の思想史、仲島 陽一、2006、創風社

2.知の構築とその呪縛、大森壮蔵、1994、ちくま学芸文庫

 

 

 

魅力、感性、そして共感 (3-2)

前回説明したように、リップスによる“感情移入”は元来自然や芸術作品を対象とした美的観念のための態度で、“共感”とは異なる概念である。つまり、当初考えられた感情移入は、自然や芸術作品を対象として鑑賞する際、鑑賞者のその時持っている感情を対象に投射して生じる感情を自然や作品のものとしようとする。こうした感情移入は、他者と同じ感情を持つという共感とは明かにかみ合わない。にも拘わらず、感情移入が共感と何らかの関係を持つようになるには、そうなる契機があったハズだ。すぐ想像されることは、実際リップスもそうしたように、当初の感情移入の対象を人間にまで広げることだろう。しかし、感情移入の対象を人間を含むように拡張した場合、「“感情移入”の意味自体が変わらざるを得ない」ところに、その後の感情移入を巡る議論を混迷させた一因があるようだ。本稿ではそうした次第に立ち入ることにする。

 

まず、課題を具体的にすることから議論をはじめよう。

感情移入の対象を無生物とする場合、対象は元来感情など持っていないから、鑑賞する人(私)は対象にどんな感情でも勝手に投射することは可能だ。だから、そこで共感などという事を考えるのはむしろ奇妙にさえ感じる。一方、人間が対象になる場合には、その人(他者)には感情があり、同時に、その人を見ている別の人(私)の感情もある。この場合、私の感情を移入しても、一般に対象である他者の感情と一致することはない。だからこそ、“他の人(他者)と同じ感情をもつ”という共感の現象が注意を引くことになった訳だ。実際、現在の共感と意味がズレテいるが、共感の語源とされる、「共に苦しむ、共に感じる」を意味する“Sympathy“はギリシャ時代には既に使われていた(付記1)。こう言うと、”共感は如何にして起きるのか”という疑問は関心をもたれて当然のようだが、実際の西欧の歴史は違う道を歩んだ。“個”に絶対的とも言える価値を見出した西欧的近代化の影に隠され、その疑問は議論されても、大きなまとまりになることは無かった。

そうした流れの中で20世紀初頭、「共感は感情移入によって得られる」という“画期的見方”が美学・心理学分野に現れると、そのアイディアは隣接分野から一挙に広まったらしい。共感(や感情移入)の話題は現在も、人間の本性を巡る問題として議論されているが、以下では、今日一つの常識となった「感情移入によって共感が得られる」という課題に絞って考える。

そのためここで、語の意味の問題を一度離れ、共感の問題の構造に注目しよう。例えば、事故でケガをした人が痛そうにしている時、それを見た人はケガをした人に“ダイジョブ?”と声をかけたりするだろう。古くから知られた、共感の原型と見なされる同情は、こうした不運な事態を経験している他者(A)を見て、相手を気遣う人(B)の反応である。

図1.痛そうにしている人を見るとどうして同情するのか?

共感の現象は、この例のように見かけは単純でも、複数の過程が関与している。問題はどのような心的過程が関わっているかだろう。心理学事典よれば、上の例の場合、共感は以下の過程として“定義”される:

  • (1)ある人(A)がけがをして痛そうにしている時、
  • (2)(A)の様子を認知した他の人(B)が、(A)と同様な感情を体験し、
  • (3)(B)は自分に生じた感情と類似した感情を(A)の中で起こっている(だろう)と認知する。

共感の問題を理解するためには、「上の(2)、(3)がどのようにして起こるか」、言い換えれば、ケガもしていない人が、どのようにして負傷した人の痛みを知り、相手を気遣うという反応をするのか、が問われるが、心理学事典にハッキリした説明は与えられていない。そのため以下で、一つの説明を試みることにする。

まず、上記の(2)、(3)を成り立たせる基礎について考えよう。すると、「他者が体験している事柄を、自分のものとして体験する」という事柄が該当するように思われる。ここで便宜上、他人の体験を、自分のものとして体験することを広義の”追体験”(付記2)と呼ぶ事にしよう。もし、このような追体験(広義)の働きがなければ、傍観者として他者の苦しみは理解できても、自分の苦しみとして感じられようにはならないように思われる。その意味で追体験(広義)は“共感”に深くかかわっていると見られる。

ところで、共感の要素である(2)、(3)を具体的な“追体験(広義)”の形で表す場合、次の常識的な形式が考えられよう:

  • (a)他者の示す様子を知覚する(他者―>自分)。その様子(の認識)から、
  • (b)自分に昔起きた同様な体験が想起され、自分の中に苦しかった感情が生じる。
  • (c) (b)で想起された体験から、きっと他者も苦しいに違いないと類推する。
  • (d) (c)の類推結果を他者に移し入れ(感情移入)(自分―>他者)、他者が自分と同様な感情を持っていると思う。

 

上の(a)~(d)を見ると、(d)に、自分の感情を他者に移し入れる過程があり、これを“感情移入”と見ることも出来そうである。すると、議論の出発点である共感の問題にさかのぼってみると、その中にリップスによる始原的な“感情移入”に形式的に対応する過程 (d)が現れていることになる。しかし、同じ“感情移入”という言葉を使うとしても、自分=>他者へという向きが保たれているものの、そこで移し入れられる内容は違う。リップスの始原的な感情移入では、対象に自分(鑑賞者)のその時の感情が投射されるのに対し、ここで他者に移し入れられるのは、自分が追体験(広義)によって生じた考え・感情である。ここでは勝手な感情を投射してはいない。

図2.映画に感情移入

以上、大変大急ぎであったけれど、心理学事典であいまいに説明されていた内容を補い、その上で、“感情移入”と共感の関係も一応定められたようだ。

 

今までの共感についての議論を振り返ってみると、自分が他人と同じ考えや感情を持つことを共感と考えれば、共感では、「どのようにして他人の考え・感情が、自分と同じであると知ることが出来るのか」という問いが問題の中心にあることが分かる。言い換えれば、それは、外部から直接知ることが出来ない他人の感情などを如何にして知るのか、という”他我認識”問題に入ることになる。従って、共感の要素である(2)、(3)、あるいは、それらを他者の体験を自分のものとして体験する追体験(広義)として表した(a)~(d)は、他我認識と本質的に重なっていると言える。

では、前回からの課題「感情移入によって、共感が得られるのか」についてはどうなるのか。答えは「否」である。何故なら、上の共感の仕組みが依拠している、「他者の感情が自分の感情から類推して得られる」という推理が論理的に破綻しているからである。つまり、そこで使われた論理(類推)は、検定する方法が原理的にないから、どんなことを言ってもOKになってしまうのである。本稿の例について言えば、“感情移入”で移し入れた感情(d)が他者の感情(1)と一致するとは言えないのである。

 

結論をまとめよう。「感情移入によって、共感が得られる」という“常識”を論理的に示すことは、他人の感情を自分の体験に基づいて推測する限り、不可能である。これが今回の結論であるが、もちろん共感が起きないと言っているのではない。人のこころの内実を担う痛みや感情は、現在の科学によってもそれを外から直接捉えることは出来ない。そのため、我々は日常生活の中で、外に現れた振る舞いや言葉から、他者のこころに起きた事柄を、”何よりも良く分かる”自分の体験に基づいて説明しようとする。「共感は感情移入によって得られる」という常識もそうした一つで、本論で議論したようにそれは論理的に成り立たないと言っている訳である。

しかし、大急ぎで次のことを付け加えておかねばならない。上の結論を導いた方法は近代科学のものであり、「論理的に正しくても、納得できるかは別のこと」として残っている、と。

そうした意味で、共感は“常識の衣”をかぶった、ヤッカイナ見方に囲まれている。そこには、“(他者の)感情の意味”の問題をはじめ、AIの発展に深くかかわる課題もある。今回、ようやく共感の問題の入口に到達したが、多くの地続きの課題は別の機会に取り上げていきたい。

 

長島 知正   (2018-03-02;(文言修正)2018-03-04)

*付記1:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p225.

付記2:追体験は、一般に、他者の体験を(後から)辿ることによって、自分の体験として把握するという場合に使われるが、本稿の広義の追体験では、他者の体験を辿るのではなく、むしろ自分の過去の経験を辿って、他者が経験している事柄に近い体験を探索している。

魅力、感性、そして共感 (3-1)

最近、“o o 力”といった言葉をマスコミで良く見かける。そうした一つに”共感力”という新しい言葉がある。マスコミに現れたからと言って、それが多くの人の支持を反映しているかは別と考えるべき事だが、どうもその背景に、感性より共感に関心を持つ人が増えているような気もする。共感の方が抽象的な感性よりイメージし易いせいかも知れない。知性から切り離された広い意味の感性にもようやく日が当るようになって来たのだろうか。歴史の脇道を歩んで来た感性にまつわる様々な概念は整備されないままモツレ、俄かに議論が進むことは無いだろうが、共感を巡る最近の話題はそうした関係をほぐす契機になるかも知れない。

共感と言えば、少し古いが、ビートルズやAKB48の公演に熱狂するファンを想像する人や、あるいは、白熱したF1レースの勝敗を分ける場面をTV観戦している時、車がコーナーにさしかかる画面に、TVの前で手に汗をかきながら、ドライバーさながら遠心力に逆らうように身体を傾けた経験を思う人もいるだろう。また、そうした汗にまみれる熱狂とは対照的に、日の当たらない暮らしの中で、つつましいけれど爽やかに生きる時代小説の主人公の振る舞いに思わず涙した体験を思う人もいるのではないか。

図1.綱渡り:見る人も緊張してしまう

このような譬え(たとえ)からも伺われるが、いわゆる共感と呼ばれる現象の幅は想像以上に広いようだ。共感という言葉が流布する一方、共感とは何か、その本質を把握することは容易でなさそうだが、ここでは、共感についてどんなことが理解できているのか、哲学との繋がりも頭に置きながら辿ってみたい。

とりあえず前回、日常的に使われる会話から、共感はどのような形で起きると考えられているのか、探ってみることにした。そこで、TV番組の視聴率を確保するために必要な事は何かという、新聞記事にあったTVプロデューサーの発言;「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できない」を取り上げた。 この記事に注目した理由は、この発言の中に、共感と感情移入という二つの概念の間には、「共感は感情移入によって得られる」という共感の起き方についての考えが端的に見られるからである。この考えは今日ごく普通の常識となっているように見える。だが、この共感についての”常識”は果たして妥当な考え方なのか、これが今回の検討したい課題である。

言葉のレベルで、共感と感情移入とはどのように繋がっているのか、前回、国語辞典で探った。だが、共感と感情移入に関する言葉の関係は捩(よじ)れ、矛盾が生じて先に進めない予期せぬ事態になってしまった。このような状況を体験すれば、理系の人ならまず十中八九、“だから文系の議論はついて行けない!”と言うに違いない。だが、一番の問題は、そうした言葉の混乱があっても、何事もないかのように見過ごされていることなのではないだろうか。国語辞典に見られるそうした混乱は、磨き上げられて展示された文化の裏側を見てしまったような気持ちにさせる。それはともかく、国語辞典に見られる語義上の詮索は止め、以下では視点を変えて本稿の問題に向かおう。

そのため、共感や感情移入それぞれの意味を掘り下げて検討し、その上で、両者の間の関係、特に「感情移入によって、共感が得られるか」という問題を考えることにしたい。便宜のため、前回引用した国語辞典(A)で与えられた共感と感情移入の語彙を再掲し、議論を進める。

先ず、共感は、

他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感

である。つまり、共感とは、他人の考えや感情をその通りだと受け止め、あるいは感じる事である。言い換えれば、「他人の思い(考えや感情)と同じ思いを持つこと」となろう。この言い換えによって、Bの辞典にある意味、“他人と同じような感情(考え)を持つこと”と重なっているのが分かる。

一方、感情移入は、

「自然や芸術作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象のものとして体験する作用。Empathy。」とある。なお、この語は心理学の用語と記されている。

これは感情移入の概念をコンパクトに説明しているとは思うけれど、心理学の用語と言うせいか、分かり易いと言えるだろうか。例えば、「その感情を対象のものとして体験する」という箇所はどのような意味だろう。

それに答えるため、感情移入に関する上の記述全体を眺めてみよう。ポイントは、感情移入は、「1)私にある体験をもたらす働き(作用)である。だが、2)その体験は、普通の私自身の体験とは異なり、対象のもとしての体験である」という事だろう。とすれば、”その感情”とは、自分の感情を対象に投射することによって、(自分の中に)生じた感情と考えられるから、それを対象のものとして体験するとは、自分に生じたその感情をあたかも対象が持っている感情と把握する体験、と理解される。

ここで、「私の感情を対象に投射する、つまり私から対象に移し入れる」というところが、感情移入における(私―>対象)という一方向性の特徴と言えるだろう。

なお、上に引用した国語辞典(A)では感情移入の対象を、自然や芸術作品などとし、なぜか人間を含めていない。経緯は不明だが、この項目の担当者が感情移入という言う言葉は、カントの流れをくむリップスの美学から始まっているという来歴に拘ったせいかも知れない。だが、その後の発展から見ればそれは絞りすぎで、Bの辞典にもあるように対象には人間を含めるべきで、本論もそのように考える。

ひとまずこれで、感情移入および共感について語の解釈はできた。けれど、その検証や、実際的観点から吟味がなければ絵に描いたモチだろう。そこで以下では、感情移入および共感と言う心的過程に対する心理学の解釈をまず「心理学事典(新版、平凡社)」に基づいて確かめる。その後、リップス自身の研究に関する専門書(*付記2)を参考に、リップスの感情移入の考え自体にある問題点も含め、共感の問題を全体的に検討することにしよう。

心理学事典によると、“感情移入”は;

・ドイツ人の美学・心理学者リップス(Lipps, T)が用いた用語ドイツ語Einfuehlungの日本語訳である。

・リップスは、感情移入の概念を「他者、自然界、創造物といった対象と対峙する自分を、その対象において客観化し、自分の定性を対象に帰属するものとして体験すること」と定義している。

・この例として同事典では、「秋の月が寂しげなのは、秋の末の寂しい自分自身の気持ちが自然界に投入されるから」を挙げて、感情移入とは「自然界や他人に自分の感情を知らず知らずに移し入れて、それら自身がその感情を持っているように感じること」と説明する。

・リップスの感情(定性)は、自我の思惟、判断、運動極めて広義なもの含み、また、自我と対象の間の心理的な交渉も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕むと考えられる。しかし、基本的には自分の側に生じている事柄が対象に移し替えられて認識されるという「自分―>対象」という方向が認められる。

・他方、共感は、一般に、あ)人と人の間で、い)主に感情に関して生ずる過程に限定され、う)その感情が他者から自分に移入・伝達されるもの(他者->自分)と考えられる。これらいずれの点でも、“共感は感情移とは相違している”。

図2.中秋の名月は、寂しげに見える?

なお、心理学事典には、共感と感情移入の関係は何故混乱したのか、経緯の一端が明らかにされている。つまり、”感情移入”は、既に述べたようにリップス(Lipps, T)が用いた用語Einfuehlungの日本語訳であるが、英語圏で使用されたEinfuehlungの英語訳empathyの日本語には“共感”という訳が与えられた、とある。この結果、日本語では感情移入=共感という理解(誤解)が生まれざるを得なかったのである(*付記1)。

 

以上が、感情移入(および共感)に対する心理学事典による解説である。これから、心理学事典自身や国語辞典Aにある感情移入の意味がリップスによる心理学(美学)に依拠していること、更に、本稿の前述した解釈もおおむね妥当と言えるようだ。また、感情移入という語が混乱した経緯もとりあえず分かった。さらに、感情移入と共感の関係について、少なくとも心理学事典の解釈に従う限り、互いに相違した概念であることも明らかだろう。

 

しかしながら、心理学事典の感情移入の説明には、あいまいで内容を明快に把握できないところが残る。その典型が、リップスの感情移入を解釈する例として挙げた、「秋の月が寂しいのはそれを眺める人が寂しいからだ」である。確かに、本来感情などない自然や芸術作品のような対象が、感情移入によって、それを眺める人のその時の感情が対象に投影され情感を帯びる。このような見方には、カントの美学の影響を受けた“自然自体は美ではあり得ない“、”美は人間が自らを貸し与える事で生じる”といった美学思想が背景にあると言われている。

その意味で、リップスが当初考えた感情移入は、自然や芸術品を鑑賞する理論にふさわしいと言えるものだろう。だが、専門書によれば、リップスはまもなく人を含めるように感情移入の対象を拡張した。それでも、感情移入はその時の人の思い(考え・感覚・感情)を単刀直入に対象に投影するだけでよいのだろうか。心理学事典も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕んでいると思われると留保をつけながらも、自分の中に生じている事柄を、自分―>対象へ移し替える、“投影”に極めて近いとしている。この“生じている事柄”はあいまいだが、少なくとも感情は含まれていよう。

もし、感情移入が自分のその時の感情などを対象に投影する(移し入れる)ことと理解するなら、他人と同じ感情を持つ共感の関係などといった問題はそもそも起きないのではないか。では、今日広く信じられるようになった「感情移入によって、共感が得られる」という常識はどのように生まれただろう。

(以下、次回(3-2)に続く)

 

長島知正  2018-02-13

*付記1:なお、現在では、共感=>Sympathy、感情移入=>Empathyを当てるのが普通と思われるが、上記の経緯が明らかにされても、心理学の領域では奇妙なことにEmpathy を感情移入と共感の両方に当てている。

*付記2:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p.225.

 

魅力、感性、そして共感(2)

一昔前の年末恒例行事の一つに、キリスト教などの教会関係者による社会鍋や地域の福祉関係による炊き出しがあった。来年は明治元年(1868)から150年になるが、最近、そうした炊き出しのニュースはあまり聞かれなくなった。炊き出しが必要なくなるほど、社会は住みやすくなったということなのだろうか。わが国の近代が明治維新を契機に始まったことを否定する人は少ない。だが、明治維新の中身やその評価はどうだろう。その仔細は別にして、ここでは、明治維新を象徴する文明開化や和魂洋才といったキーワードに注目したい。

文明開化や和魂洋才というコトバでは、前者はストンと落ちても、後者はどこか引っ掛かる人はかなりいるのではないか。和魂洋才は、雑に言えば「和魂(和のこころ)を失うことなく、西洋の進んだ知識・技術を吸収し・利用する」といった意味で使われる。ここに、“和の魂(こころ)”というコトが出てくるが、この和魂洋才をタテに、古き時代の大和魂が失われたと主張する人も少なからずいる。古き良き時代の大和魂に戻ることが、今後のわが国の進む道なのだろうか。

図1.炊き出し

筆者は西欧近代の思想に問題があることを認めるが、西洋思想を安易に否定することに賛同はできない。文明開化を急ぎすぎたわが国では、西欧の思想自体正しく理解されなかったところに問題がある、と考えるからである。“和のこころ”は感性に繋がるが、それをどのように繋げるかが今日的課題である。前置きが長すぎたが、以下では、共感とは何か、特にここでは“共感”と“感情移入”の関係を検討したい。最近日常の生活で共感が話題にされることが増えたようだ。だが、少し考えてみると共感には良く分からないことが沢山ある。

今想えば、子供のころ、よく親から“相手の身になってごらんなさい”と聞かされた気がする。子供の躾(しつけ)のために、“その人の身になって“と言う言葉が使われたのだろう。それがどういうことか深く考える事など、子供には覚つかないはずだが、そのコトバによって、相手におきた不運な出来事を想像できたそぶりはしていたらしい。

この“相手の身になる“ということは感情移入”のキーワードになる。共感や感情移入という言葉は現在盛んに使われる日常用語で、前回紹介した民放TVプロデュサーの新聞記事ではこんな具合に使われていた:

「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できないから」。つまり、この文は感情移入と共感が結び付けられる典型と思われるが、そこで感情移入は「共感できる」ための条件あるいは手段と考えられている。こうした言葉使いは、ごく当たり前になっているのでないか。

ところが、心理学や哲学などでは、それは異なる概念の混同とされているのである。以下で、そこにどんな問題があるかを考えてみたい。そのため、まず感情移入、共感それぞれの言葉の意味について確認し、その後、それらの関係を検討しよう。

とりあえず、前回同様、国語辞典を引くことにする。ここでは2種の辞書(A:集英社、第二版、B:三省堂、第2版)を引き、それらの意味を並記する。まず、「共感」の意味は、

A:他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感。

B: 他人と同じような感情(考え)になること。

「感情移入」については、

A:[心] 自然や芸術作作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象からのものとして体験する作用=>empathy.

B:人間の表情や身振り、自然の景色、絵画・彫刻、楽器の音色などに接した時、その対象自体が何らかの感情を表出していると感じ理解すること。(俗には、自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味に用いられる。)

である。なお、参考に、「同情」の意味(辞書A)を調べると、

「同情」:他人の悲しみや苦しみを、自分のことのようにともに感じること。かわいそうに思うこと。思いやり。

とある。

感情移入より始めよう。

先に、“相手の身になって”が感情移入のキーワードであると言った。Bでは感情移入の対象を人間まで広げているが、A, Bともに自然や芸術作品を主な対象に、自己を対象に投入することの心理学的な意味の説明をしている。つまり、心理学では、感情移入とはこうした対象のうちに自己の感情を投げ入れて、それによって、アリアリと対象の持つ感情、動作、作用などを把握する働きを言う。これらの辞書は明らかに美学を念頭に置いた心理学に依っているために、感情移入の焦点は(美的な)感情に当てられている。しかし、感情移入の概念自体は、むしろ近代社会を巡る議論に始まる。特に、A. スミスらによる道徳感情論は古くから知られている。スミスは「道徳感情論(*)」の冒頭、Sympathy(日本語訳:同感)について説明する中で、「我々は他の人々が感じることについて、直接の経験を持たないから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、我々自身が同様な境遇において何を感じるはずであるかを心に描くよりほかない」と述べ、例えば、ある受難者に同感する時、「観察者は彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇におき、受難者に対して起きる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身ハッキリ考えなければならない」とした。このようにスミスはSympathyを得るための基礎として“想像上の境遇の交換”があると言う。この“想像上の境遇の交換”は感情移入の概念と類似しているが、相手の感情に限らず、広く思考にも及ぶ。実際、社会学等では他者理解の方法として共感的理解(Empathic understanding)と呼ばれ広く利用されているようだ。

以上の議論を簡単にまとめれば、感情移入という概念は、もし自分がその人の立場であれば、きっとこうなるだろうという想像、あるいは、相手の中に自分の感情や考えを投入することによって、生まれる感情や思考である。

一方、共感についての国語辞典の説明は意外にシンプルである。双方比べても一見似たように見える。だが、共感の概念は微妙なところがある。基本的にA, B共に、他人の感情や考えと自分のそれを比べている。しかし、Aでは、他人の感情や考えに対し、“その通りだ”という、それを是とする評価をしているのは明らかだが、Bは、他人と自分が同じ感情や考えになると単に言っているようである。言い換えれば、Aでは、他人の考えや感情に対する良し・悪しの判断の方に重きが置かれている。ここで、国語辞典のマニアックな話になるけれど、「同情」という言葉と共感の関係に付言しておこう。Aの辞典で見られるように、共感の意味を、相手と同じ感情になるということから、その通りという判断に重点を移したことによって、古くから知られている(元来共感に含まれていた)相手が感じている悲しさ・苦しみなどの否定的感情と同じ感情になる意味を表す言葉が足りなくなった。「同情」という言葉はその不足を賄う役を担っているようだ。共感という言葉について、50種ほどの国語辞典を調べた研究によれば、共感には、元来「同情」があてられていたが、時代と共に、我が国では判断を重視する概念が強調されるようになったため、「共感」と言う言葉が使われるようになった。そうした概念の進化への対応が、辞書によって、同情と共感という別な言葉として使い分ける、あるいは共感という言葉に二つの意味を多義的に含ませる形式に分かれたようなのである。

図2.辞書はコトバの培地

上での議論を振り返えって、今回の本題、共感と感情移入の関係の問題を考えることにしよう。上での語の意味に関する議論から、「共感と感情移入は別の概念である」ことはほとんど明らかではないだろうか。端的な違いは、「共感は他人と自分、つまり人と人の間の関係を指すのに対し、感情移入は人に限らない他者と自分の関係を扱っている」と言って良いだろう。辞書のレベルで分かるこうした明かな違いを、何故同じように思うのか、むしろ不思議な気がしないだろうか。心理学事典によると、感情移入はEinfuehlungの日本語訳だが、一方Einfuehlungの英語訳はempathyであり、そこで与えられる日本語訳は共感になっているようだ。そこに、共感と感情移入が混同する原因の一つが認められる。しかし、そうした詳細に立ち入る余裕はないから、本題に戻り、ここで話をまとめることにしよう。

”共感”は人と人の間の関係に限られるということを文字通り受け入れれば、“感情移入”という手段によって”共感”できる相手は人間に限定されることになる。このように、問題の範囲を狭め、感情移入の対象を人間に制限した場合には、共感と感情移入の間には問題はないのだろうか。端的には、例えば、他人の悲しみなどの感情に触れた場合、感情移入によって、相手と同じ感情になることができるとのか、が問題になろう。こうし基本的な問題に対して、哲学はNOと言うのである。そのワケを一言で言えば、他人に自分の感情を投射しても、それは自分がこうだろうといった想像にすぎないからだ、と。言い換えれば、他人の自律的な思いを想像によって把握することは出来ないと言って良いかも知れない。

こうした議論から、共感と感情移入は別の概念として扱うべしと心理学や哲学は説くのである。共感は珍し現象なのだろうか、それとも誰でも経験しているありふれたことなのだろうか。共感の本質は何か、といった問題に繋がるを議論する予定であったが、錯綜する言葉のジャングルの中で、形式的な準備に誌幅を費やしてしまった。

共感については、近年ミラー・ニューロンの発見を契機に脳科学の議論が加わり、新たな局面が拓かれようとしているとも言われている。この続きは年を改めて行いたい。

長島 知正      2017-12-31

 

付記

(*)A. スミス著、水谷洋訳、道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)、岩波文庫(上、下)、2003年。

原書は1759年初版である。著者A. スミス(Adam Smith)は英国で始まった産業革命の時期に国富論を表して、個人の自由な競争による自由経済の思想をひろめ、経済学の父と呼ばれる。ある意味で現在の資本主義経済の礎を創った人物である。だが、彼はそうした経済学の専門家ではなく、道徳哲学の教授であり、国富論に先だって道徳哲学の講義をこの「道徳感情論」にまとめた。彼はその主題にSympathyのを置いた。近代西洋の経済面における自由と個人主義を説いた人物が、社会における道徳の原理的基礎を考えていた事になる。この辺りに何があるのか明らかなのだろうか。なお、Sympathy は水谷訳で同感と訳されているが、同書での同感は共感と同じとみなすことが多い。なお、共感には、哲学ではSympathy が使われるようだが、心理学では、SympathyもEmpathyも使われ、統一されていない。