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共感の視点(5)

共感の視点(5); “人間らしさ”とは

 

  • 長寿リスク

ここ数年、“人生100年”とあちこちで言われている。不治の病とされてきた“ガン”でさえ、“普通の病気”になったと言われるなど、確かに医療技術の進歩は目覚ましい。平均寿命は未だ延びるのかも知れない。筆者が小学生のころ、祖父が70歳の誕生日に、長寿者として市長からお祝いを贈られたことを覚えている。当時の平均寿命は60歳にもならないくらいで、まだ“人生50年”といった言葉も使われていた気がする。言い換えれば、直近の50~60年ほどの間に、人生の長さは倍に見積もられるようになった訳である。これには医療に掛かる科学技術の解決能力の寄与が大きいことは明らかである。とは言え、“長寿リスク”というコトバがあるように、必ずしも寿命の延びは歓迎されることばかりではないところに本当の問題はあるのではないか。

 

長寿リスクという時、一般に、老人の割合の増加による、社会保障制度の維持・存続の懸念を指しているだろう。そこでは、低福祉・低負担あるいは高福祉・高負担のいずれを選択するかという社会政策が問題になることが多いが、どのような公的負担の形が良いのかという問題も、裏返せば、個人の生き方や他者との“支え合い”のあり方が問われていることになる。

我が国では、“支え合い”より前に、高齢者個人の生き方がまず考えられなければならないという意見もある。その意見に当然一理あるとは言え、我が国では“支え合い”が“もたれ合い”になりがちなことは多くの人が感じていることだろう。それ故、共感を通して、“支え合い”の意味や“人間らしさ”との関連を考える事も大切と思うのである。

 

既に指摘したことだが、スミスによる共感(同感)では“境遇の交換“を考えるところに大きな特徴がある。境遇を交換することによって、当事者の思いなどを(第三者が)理解する方法は“共感的理解”と呼ばれる。このスミスの境遇の交換は、視点の移動と捉えることによって理解しやすくなる面がある。前回のコラムでは、映画寅さんの物語を辿ることによって、そうした実例を確認した。

実は、共感的理解という方法は、映画や文芸作品の理解のような分野を越え、更に広い領域で活用されているのである。以下では“ある意味で”特殊な”分野になるが、医療分野の看護(Nurse)と臨床心理のカウンセリングに注目し、そうした広がりの感触を確かめることにしたい。

 

  • 他者の苦悩を理解する:

災害など予期せぬ出来事によって、誰もが思わぬ苦境に立たされ得ることを知らない人はいないだろう。このような事態に直面する時、人は様々な悩みや苦しみを体験する。しかし、”他人の苦悩を理解する”ということに対する社会的な感受性は高くはないようだ。 だが、”人生100年”というコトバと共に、自分一人で生き抜くことの困難や、誰しも介護される側になる事態が身に迫ってきた。正に状況は大転回している訳だが、介護に対する理解は進んでいるだろうか。

 

私たちは病気やケガをすれば医者のところへ行って診てもらい、そのために医学があり医者はいると考えている。だが、医学に隣接した看護やカウンセリングの仕事を知る人は多くないだろう。以下では、心身を病んだ人間の介護につらなる看護やカウンセリング分野の基礎について、各々の分野の専門家による解説を元に考えてみよう。

図1.看護師

 

  • 看護

まず、看護の問題から始めよう。従来、看護師の仕事は、医者の助手のように思われるなど、十分理解されてこなかったのではないか。常識的には、看護は傷病者の手当や世話したりすることと考えられるが、ここでは、看護について、看護師の教育に当たる看護学の専門家による解説(*谷津裕子、共通感覚と共苦の概念、感性工学Vol.10、No.1、P.23)を訪ねてみよう:

看護師の教育では、「他者の痛みや苦しみを引き受けるとはどういうことか」という課題があるが、看護学教育において、肯定的な価値が付与され奨励されているのは、共感の概念である。看護学の教科書で、共感または共感的理解は次のように説明される;

(1)「相手の気持ちを自分の事のように感じること」

がまず挙げられる。その上で、付帯条件として、

(2)「(相手に)巻き込まれないこと」

が付けられる。

(1)は、共感の説明である。(2)の付帯条件、「巻きこまれないこと」の具体的説明は多くの場合ないが、共感の対象から離れていながらも、共にあるという感覚こそが、看護師にとってちょうどいい職業人としてのスタンスで、それ以上相手に巻き込まれ、感情に溺れるなら、適切な看護ケアが行われなくなってしまう、と懸念されるからではないか、と推測される。

上の看護教育の主旨は、共感論として考えると、次のように言えるのでないか。苦しむ相手と感情を分け合いながら、「(相手に)巻き込まれない」という(2)条件は、看護師(観察者)は苦しんでいる患者(当事者)から距離を置くことを意味するが、それは冷静に患者を観察し、適切なケアをするために離れことが必要で、職務を正しく遂行する上で合理性があるように思われる。

 

  • カウンセリング

続いて、臨床心理のカウンセリング理論に注目しよう。カウンセリングでは、カウンセラー(相談者(治療者)、観察者)は、心の悩み(病気)を持ったクライアント(来談者(患者)、当事者)の相談に応じ、悩みの解決を支える(*)。その際の基本的課題は、カウンセラーは、悩みを抱えるクライアントとどのように接するか、だろう。

1950年代に米国のロジャースはクライアント中心療法を提案した。以下は、ロジャース派による療法の要約である。注目されるのは、ロジャース、カウンセラーの条件として共感的理解(Empathic Understanding)を挙ていることだ。

ここで、ロジャースによる共感的理解とは、

「治療者が患者の内的世界の中に入り込んで、あたかも自分がその人(患者)になったかのように、感じ、考え、見ること、しかも、“あたかも、・・・のようにという性格を失わないこと」

と(定義)される。

この”共感的理解”に従って、ロジャース派では、共感は解釈や指示といった外側からの働きかけと対立する概念であることに加え、カウンセリングで重要視される事ととして、1)治療者自身の感情や先入見にとらわれない理解(投影の排除)や2)自他の区別が維持される理解(同一視の排除)、

等が挙げられる。

 

ロジャース派の実際のカウンセリング(面談)おいては、カウンセラーの「非指示性」という点に特徴がある。ここで非指示性とは、カウンセラーは、クライアントに対し、価値判断含む指示を一切与えず、問われても、どうせよとは答えないことである。

カウンセリング(面談)における「非指示性」とは何を意味するのだろう。

カウンセリングは様々なこころをの悩みを抱える患者の相談に応じる。そして、カンセラーは患者に自分の抱える問題をよく理解させるようにしなければならない。そのために先ず、カウンセラーは患者の問題を十分深く理解せねばなるまい。

カウンセラーが「非指示性」に従うことは、ライアントの悩み(苦しみ)を理解できたとしても、苦しい感情を積極的に肯定したり、反対に、それを否定するようなことはしない、という態度をとる事ことを意味する。言い換えれば、カウンセラーはクライアントに対して“巻き込まれない”ような態度をとることと言えるだろう。カウンセリングにおいて、”巻き込まれない”というカウンセラーの態度は、自分勝手な態度のような印象を与えかねず、微妙な問題もありそうだが、背景には、心を病むクライアントの問題の解決は自らの力によって見いだされなければならないという(アメリカ)社会の合意があるとされている事は見落とせない。

 

  • 結語

これまでの議論から、取り合えず、介護に重なる分野の看護や心理療法のカウンセリングでは、共感的理解(Empathic Understanding)という共通の概念が基本的役割を担っていることが確かめられた(**)。ここで大切なことは、取り上げた分野において、共感とは、単に相手にいたして同じ感情を持つことではなく、相手と一定の距離をたもつことによって、相手の事を正しく理解できるようにしなければならない、という点である。これは以前、スミスの共感は”条件付きの共感”であると云ったが、その条件付きの構造が其々の分野において具体的な形で表れているのである。

我が国では、共感あるいは共感的理解について、こういう理解は事実上ないのではないか。共感的理解の概念は産業革命が始まろうとしている時期に考えられモノだ。このような大きな時代的変化に繋がる出来事への対応を欠いていることが、わが国で共感という概念が、”上司を慮る〈おもんぱかる)日本的忖度”の頸木(くびき)から抜け出せない大きな要因ではないのだろうか。これは些細な問題とは言えまい。

図2.チンパンジーらしい?

最後に、共感との関連で、「人間らしさとは、何か?」という問題に簡単に触れることにしよう。

わが国のお家芸であるチンパンジー研究によると、チンパンジーは人間にもっとも近いと言われ、瞬時記憶などの認知能力は人間より優れているらしい。ならば、人間をチンパンジーと隔てる“人間らしさ”はどこにあるのだろう?

結論を端的にいうと、チンパンジー研究者による”人間らしさ”に対する答えの一つは、“分かち合うこころ“、言い換えれば、”互恵的な利他性”である。つまり、チンパンジーは、食料を、君にこれを、あなたにもこれを、、、と互いに分け合って食べる事をしない、と言う。この”分かち合う”という”人間らしさ”は、もっと強調されて良いのでなかろうか。

何故なら、”人間らしいさ”として”分かち合いうこころ”は、”共感”に通じる一方、”互恵的利他性”は、スミスが想定した共感は人間の”道徳的な規範”というより、”経済的な合理性”との繋がりを示唆しているからだ。

なお、チンパンジーとのもう一つの違いとして、人間には想像力がある。特に、未来に希望に持てる知性があるのが人間だという、指摘も付け加えておくこう。

人間の想像力については、次回以降取り上げていきたい。

 

長島 知正  2016-08-28

補注:

(*)一般に、心理療法の中に、カウンセリングの他にセラピーが含まれる。カウンセリングは患者の相談者の地位に留まろうとするに対し、セラピーは治療を目標に置いている点などに両者には違いが見られる。本稿では厳密な区別をしていない。

(**)看護学では、共感的理解とはいえ理解では不十分で、さらに「患者を援助してあげたい」という積極性が必要という議論があることを加えておきたい。

 

 

共感の視点(4)

共感の視点(4); 寅さんとスミスの同感

 

ご存知「わたくし、生まれも育ちも葛飾 柴又、人呼んでフーテンの寅と発します」という寅さんの口上で始まる映画「男はつらいよ」のシリーズは、平成のはじめまで続いたが、昭和の時代を代表する娯楽作品の一つと言って良いだろう。近年娯楽は大きく変わってきたが、いずれにしても客を楽しませることで成立している。映画も、それを見ている観客が楽しめるかどうかが肝心である。だが、映画にせよスポーツにせよ、観客とはおよそ身勝手なもので、感動したがって安楽椅子に収まり好きな飲み物など飲みながら見ているのだ。A. スミスは、「人はどんなに利己的なものであろうとも、」と言って、彼の同感論を語り始めたが、そうした観客が作品を楽しむ要件は何なのだろうか。ここでは、共感(スミスでは同感)を的に考えてみる。

 

前回のコラムでは、スミスが同感するために必要とした「想像上の境遇の交換」は、“なって見る”という視点の働きを導入することによって、文芸作品などの心情理解の問題に繋がることを示した。しかし、それは思考実験的な議論で、具体例を何も示していなかった。そこで、今回何らかの具体的な作品を取り上げ、前回の視点論の議論がどのように同感に影響を与えるか検討しよう。

ここでは、映画寅さんシリーズの作品を取り上げるが、寅さんの映画を選んだのは単なる思い付きで、スミスの同感論に入る代表的な作品という事ではない。と言っても、寅さんのシリーズは昭和という一昔前の時代だが、“国民的支持”があった作品である。以下では、国民的と呼ばれるほどの広い共感が、寅さんの映画作品のどのようなところから生まれたのか、視点の働きを介して考える。

 

以下で取り上げる作品は「男はつらいよ寅次郎紅の花」(監督・原作山田洋次)である。ご存知の人も多いハズだが、念のため、まずは寅さんの映画シリーズおよび第48回作品「男はつらいよ寅次郎紅の花」のあらましを述べておくことにしよう。

フーテンの寅が、あちこち旅しながら”テキや商売”をして歩く、“男はつらいよ”シリーズは、「わたくし、生まれも育ちも葛飾、柴又、人呼んでフーテンの寅と発します」という寅の口上と共に、昭和の後半から平成の初めにかけて国民的な人気を集めた、いわゆる大衆娯楽映画である。1996年製作の第48回「男はつらいよ寅次郎紅の花」でシリーズが終わったのは、寅さん役の渥美清ががんで亡くなったためである。シリーズには毎回寅さんが心を動かされるマドンナが登場する。次々登場するマドンナに寅はすぐポーッとなるが、片思いで終わる。マドンナはほとんど毎回変わるが、浅丘ルリ子演じる旅芸人の歌手リリーは例外である。最終第48作目のマドンナもリリーである。最終回では、リリーとついに結婚かと思わせる同棲生活をおくるが、フーテン暮らしの寅は結局生涯結婚はしなかった。以下は、最終回「寅次郎紅の花」のあらすじである。

 

最終回の舞台:1996年は阪神・淡路の大地震があった年だが、映画の冒頭、震災のボランティアとして活躍している寅の姿がTVニュースの画面に現れ、くるまやの人達を驚かせる。くるまやの一員に寅次郎の妹さくらの子・満男がいる。満男には密かに想いを寄せていた泉(いずみ)がいた。しかし、内気な満男が煮え切らないでいるうち、泉に地元の医者との結婚話が急に進む。結局、満男は泉の結婚式当日大あばれして、式を壊してしまう。関係者にコテンパンにやられ、やけ酒でベロベロに酔った満男はたまたま来た夜行列車に乗り鹿児島へ、更にそこから船で奄美群島の島へたどり着く。たどり着いた島には、なんとリリーの家があり、そこに、リリーと夫婦同然の顔をして暮らす寅がいた。

図1.映画の世界に共感!?

 

以下、作品の後半、寅とリリーや満男など、寅さんを取り巻く人達の間でなされるいくつかの重要な場面に注目する。そうした場面で、観客(視聴者)の視点の位置がどこに置かれ、また登場人物の間を移動していくのか、また、それが同感にどう影響しているか考えよう。

 

場面1

満男は泉の結婚を妨害したことを悔いて、反省しながら、地元の漁師を手伝って暮らしていた。 ある日、寅は満男に、リリーがきこえる前で、泉の結婚について説教を始め、

①「何故、泉の結婚を祝ってあげなかったのか」、

「男というものは引き際が肝心なの」

などと寅の美学を得意げに聞かせる。

一方、しばらくこれを黙って聞いていたリリーは、突然寅に向かって、

②「女は男からハッキリ言ってほしいの」、

「きれいごとなんかじゃないの」、

「男は卑怯!」

など罵詈雑言を浴びせ、満男を誘って、“島唄”をうたいながら飲みに行く。

③ 寅は、その後姿を黙ってみつめる。

 

視点の動きと働き:

以下、映画を視聴者・観客の標準的な視点の動きを記述してみる。(言うまでもないが、映画の見方は自由だから、ここで述べる以外にも当然ありえる。)

観客の視点は、①では満男に説教する場面で寅に置かれるが、その寅のセリフを聞いて、堪えられなくなって感情を爆発させるリリーに移す(②)。観客は、リリーの視点に立つことにより、リリーになって、寅のことばや様子を見て、二人の間のすれ違いや、そこから、寅を想いながら、通じないリリーの心情を実感として理解できる。こうして、観客はリリーの気持ちに同感するのではないか。

この場面で、特に②におけるリリーの心情を考える時、観客を観察者に、また、リリーを当事者に対応させれば、スミスの「仮想的な境遇の交換」の具体例になることは、上の説明から明らかだろう。また、続く場面(③)では、無言のままリリーの後ろ姿を眺める画面から、観客は寅に視点を移し、そこからリリーの気持ちを想像して、寅の心情がどんなものかを推し量ることになる。こうした主要当事者の間の視点のやり取りを通じて、観客の登場人物への心情の理解は深められる。

 

場面2:

医師との婚約を解消した泉は、くるまやで満男が奄美の島にいることを聞き、満男の真意を確かめるため島を訪ねる。

満男の気持ちを問いただす泉に対し、満男は「愛してる」と不器用に告白する。互いの気持ちが通じて有頂天の泉と満男を前に、寅は、

①「全ったく、無様だね!」

と啖呵(タンカ)をきるように言うが、一方リリーは、涙を浮かべて

②「若いんだもの、いいじゃない」、

「わたしたちとは違うわ」

とつぶやく。それを聞いて、寅は、

③「・・・・・」(無言)

 

視点の動きと働き:

この場面2では、互いの気持ちが通じて感激する満男と泉に置かれていた観客の視点は、「無様だね」と言う啖呵で寅(①)に移される。観客は、寅のコトバに何かちぐはぐな思いを抱いている時、リリーの「若いんだから、いいじゃない」という二人への祝福で、寅に置かれていた視点はリリーに引き寄せられる。ここで、続く「私たちとは違うわ」(②)というリリーのコトバによって、観客は若い二人とは同じにならない、寅との先行きを予感する。ここでも続いて、場面1と同様に、上のリリーの心情(②)を描写するためリリーに置かれていた観客の視点は、無言のままの寅に移される(③)。そのことにより、観客は、リリーへの愛情と共に、「若い二人とは違う」と言ったリリーのコトバを受け止める寅の心情を推し量ることになる。


図2.世界を作成する人

 

場面3:寅とリリーの最終盤での会話

やがて、寅は島での暮らしを切り上げ、リリーを連れて柴又へ帰る。周囲はついに結婚かとやきもきする中で、二人は思い出話に花を咲かせ仲睦ましく暮らしていたが、ふとしたことで喧嘩になり、リリーは島に帰ろうとする。旅支度をはじめる寅をみて、サクラはどうしてリリーを引き止めないのか、と訴える。すると、突如寅はタクシーに乗り込んだリリーの隣に滑り込む。

 寅:「か弱い女を一人寂しく旅立たせるわけにはいかないだろう」

リリー:「本当! 寅さん、どこまで送っていただけるんですか?」

寅:「男が女を送るって場合はな、その女の玄関まで送るってことよ」

とつぶやく。

 

視点の働き:

上の場面3での寅とリリーのやりとりは、「寅次郎紅の花」の実質的な終わりを告げる大詰めの会話である。

観客の視点は、まず、リリーの隣に滑り込んだ寅に置かれるが、「どちらまで送っていただけるの」という言葉でリリーに移る。「女の玄関までよ」というセリフで再び寅に戻る。

ここで、映画の観客は、寅に置かれた視点から、「男が送るってことは、女の玄関まで送るってことよ」というセリフを吐く寅の心情がどんなものか想像することを迫られる。観客は、今までのリリーとのやり取りを元に、フーテン暮らしの寅の行く先への想いがいろいろ想像される事になるだろう。

しかし、「女の玄関までよ」と言う寅のコトバは、長く続いた寅さんシリーズの最後のセリフでもある。原作者は上のリリーと寅の最後の会話に、より普遍的なメッセージを込めているのではないだろうか。南の島で幸せそうに同棲生活していた二人だが、この寅の「男が女を送るって場合はな、玄関まで送るってことよ」という言葉が示唆するように、寅は結局リリーと一緒にはならないまま映画の終末を迎える。寅に、リリーとは生まれる前から赤い糸で結ばれていた間柄と言わせてもいるが、境遇の似た二人の関係を堅気(カタギ)の暮らしのような固定させず、運任せ、風(かぜ)任せの暮らしを続けさせたのは、監督(原作者)である。寅とリリーの最後の会話は、二人を情で繋ぐ背後で「人の生涯は終わりのない旅」というさめた思想(人生観)が、シリーズを貫いて、スクリーンに登場しない作者(山田洋次)の視点として語られていると筆者は考える。

この視点は、スミスの境遇の交換(や心情理解)で使われる能動的、意図的な視点の働きとは別のものである。“男はつらいよシリーズ”が広く支持された理由も結局そうした視点に行きつくのではなかろうか。

 

文芸作品を理解するために、視点の設定や移動は物語の理解や登場人物の心情を理解する上で決定的に重要である。今回、寅さんシリーズの映画作品を取り上げ、観客(視聴者)の視点が、寅さんやリリーといった主要登場人物の間を移動することにより、互いの心情を実感的に理解する上で有用に機能しえることが取り合えず分かった。

言うまでもなく、映画では画像情報が扱われ、文字のみからなる本来の文芸(文学)作品とは異なっている。次の機会に、文芸作品を対象に、共感と視点の動きあるいは「想像上の境遇の交換」の関係について検討することにしたい。

 

長島 知正   (2018-07-03; (加筆)07-06)

共感の視点 (3) 

共感の視点(3): 「見る」、「なる」、そして、「なって見る」

前回のコラム「共感の視点(2)」では、スミスのSympathy の概念とその仕組みの骨子を紹介した。スミスのSympathyに対して日本語では共感あるいは同感が使われ、訳語が未だに定まっていない。このような基本的訳語の不統一は大きな問題だが、以下ではとりあえず、感情や情動を対象にする時は共感、更に知性や理性の働きが含まれる場合には同感を用いることにする。ここではスミスのSympathyに同感をあてるが、彼の共感論には単純な感情・情動の働きを越え、理性的と言える働きが明らかに含まれているからである。

 

  • スミスの「(想像上の)境遇の交換」

スミスは、人の行為に対する善悪の判断、つまり道徳的判断がどのように行われるかを考える時、同感”を基盤に据えた。 彼によれば、ある行為の善悪を考える場合、行為の動機を与える感情だけではなく、その感情を引き起こした原因・出来事を考慮する必要がある。そして、善悪の判断は、行為を動機づける感情が(その感情を産んだ出来事などの)原因に釣り合っているかという基準によって行われる、としたのである。その際、動機づける感情と原因が釣り合っているかを決めるのは、もちろん当事者ではなく、一般には、出来事を見ていた第三者(他人)の感情である。

例を一つ挙げておこう。今、子供が路上で大声をだして泣き叫んでいるとしよう。それに対し、傍らにいた他人(第三者)はどういった反応をするだろう。普通なら、何故泣いているの?と、子供にその理由を尋ねるのではないか。 そして、もし泣いている原因が、ゲームに夢中で、そのため石につまずいて転んだと知ったら、傍らの人は、子供は転んだ苦痛によって泣いているにしても、その原因(“転ぶ”=“痛いという感情”を生んだ原因)は当人の不注意だから、子供(の感情)に共感しないだろう。従って、泣き叫ぶ子供の行為も是認できない。だが、もし、原因が子供の肉親の死だと知った場合はどうだろう。その場合は、子供の悲しみに共感し、その行為を是認するのではないか。

このように、人の行為に対する判断はその当事者が置かれた立場や状況などの条件に依っている。言い換えれば、スミスが考えている同感は、“条件付き”、つまり条件付き同感と言えるのである。

      図1.人は”条件付き同感”で判断しながらメディアを読む

当事者の行為の是・否判断は、結局、行為を動機付ける感情を生む原因として状況を正しく認識することがカギになる。その原因を詳しく知り、正しく理解するために、スミスが考えたのが、前回のコラムでも紹介した、「(想像上の)境遇の交換」と呼ばれる方法である。

上の説明からも伺えるが、スミスの同感論は、様々な感情が知性と組み合わされて成り立っているように感じさせる。従来一般に、感情と知性や理性は対立すると捉えられてきているから、彼の同感論の方法は立ち入って吟味する価値がありそうだ。ここでは、18世紀中ごろに提案された「(想像上の)境遇の交換」の方法が、その後の近代化の進展の中で、どのように受け入れられてきたかを通して考えてみたい。

 

  • “(想像上の)境遇の交換” と 視点の働き

結果から遡ってみると、スミスの同感論の影響圏に入る分野の例は簡単に挙げられる。例えば、(精神分析領域の)心理カウンセリング、また(認知科学領域の)心情理解や“物語(文章)理解”である。他にもあるだろうが、ここではまず、心情理解や物語理解の問題を取り上げる。

 

前回説明したように、スミスは、“受難者と観察者の境遇の交換”から同感は生じると考えていたが、以下では、その”境遇の交換”という方法が何故心情理解や物語理解の問題に影響を持っているか、まず背景から始めよう。

「想像上の境遇の交換」は、Imaginary Change of Situationsの訳であるが、わかり難いところがある。特に、Situation は、境遇の他に、立場、状況、などの意味があるが、指示している焦点がどうも合わない。これらの言葉はどれも、人間を取り巻く外的ありさま(状況)を指しているが、境遇と立場や状況には、指示する対象(ありさま)に当人の意思と無関係に定められているか、そうでないかの違いがあるせいだろうか。いや、それは本質ではないだろう。

「境遇の交換」の問題性は、境遇の語義から、境遇とは当人の周りの状況であって、当人そのものは含まないと考えていることからくるのではないだろうか。以下では、必要に応じて、境遇を立場や状況と読み替えながら問題点を掘り下げよう。

スミスの“境遇の交換”が方法として注目されるのは、それが漠然と相手の立場に立つという以上の事を含意しているからだろう。

「想像上の境遇の交換」は、互いの立場を入れ替え、相手の立場に立つことであるが、相手の立場に立つということの“意味”を、以下では単刀直入に“他者”になってみることと解釈してみよう。つまり、通常、私から見える相手(他者)は自分の外部にいる対象であるが、“境遇を交換する(立場を入れ替える)”ことにより、対象(他者)そのものになってみるのである。言葉を変えて言うと、通常、私に置かれている“視点”を、境遇の交換により、私から相手(他者)に移し替える、ことに対応する。

つまり、受難者(相手=他者)と観察者(私)それぞれの視点を入れ替えれば、(対応した)各々の視点からの“眺め”を得る事になる。もし、観察者(私)に着目すれば、観察者(私)は、その視点を受難者(他者)の視点に置き、そこから周りの情景や状況(出来事)などの“眺め”を“見る”ことになる。

 

  • “見る”、“なる”、そして、“なって見る”

 視点というコトバは、一般的な立場や枠組みとして、思想や世界観を指す事もあるが、“想像上の境遇の交換“の場合,何かをどこかから見ているという時の“どこ“という起点の位置を指している。とは言え、その視点は想像上のもので、何かを実際に見ている訳ではないから、視覚や知覚の場合のような実際に目で”見る“こととは異なると考えねばならない。だが、目を介さないで”見る“に相当した働きは経験的にはよく知られている。目を閉じても、実際、ある程度は眼前にあった景色を”見る“ことは出来るし、色付きの夢を見ることもある。

しかしながら、そのような眼前にない”もの“を見るという問題やその際の視点の働きを何よりも良く説明するのは、文学(芸)作品の理解、とりわけ心情理解という分野だろう。私たちは、そこでの視点の働きを理解出来なければ、易しい文章の国語も理解できない。AIで話題をよんだ新井紀子さんも最近警鐘を鳴らしているが、国語の読解力は理系・文系に関わらずすべての基礎である。視点の働きは、知覚や情景理解などの認知科学や物理学などに繋がっていて、その役割は想像以上のようである。           図2.国語の読解力は全ての基礎

ところで、文学作品を理解するためには、読者は作者が作り出した世界の中に入っていかなければならない。特に、作品中の登場人物の気持ち、感情の理解が大きな役割を果たすことは言うまでもないだろう。その際、作品を深く理解するには、読者は視点を適切に設定し、更に移動させるという事を意識的に行うことが必要になる。

ここで、文学作品の理解において視点を設定するということは、どんな意味をもっているのだろう。それは、知覚の問題のように単に視点の位置を空間・時間的に移すという事ではなく、読者は作品中の誰かの気持ちを推定し、それを自分が持ってみること、言い換えれば、他者に“なってみる”ことである。この場合、他者とは実在する人間に限らず、作中の登場人物、あるいは人以外の動物なども含まれる。文学作品の理解におけるこのような視点の働きを認めれば、スミスの“想像上の境遇の交換“と文学作品の理解の問題の繋がりが見えてくる。

 

 スミスは同感は“想像上の境遇の交換”から生じる、と言ったが、ここで、「想像上の境遇の交換」に関するスミス自身の言葉を引き、上で述べた議論との繋がりを確かめてみよう:

空想の中で我々(観察者)が受難者(当事者)と立場を取りかえることによって、彼の感じていることを心に描いたり、それによって作用されたりするようになるのだ。

(中略)

受難者に同感する場合、観察者は何よりも彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇に置き(①)、受難者におきる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身でハッキリ考えるように努めなければならない。彼は当事者のあらゆる事情を、その最も細かいすべての付属物とともに取り入れなければならない。

 

上の文言は、具体的に境遇の交換という方法の特徴を説明していると考えられるが、①の表現に少し曖昧さがあり、解釈が分かれる可能性がある((*):付録参照))。問題は、彼自身を相手の境遇に置きという箇所の解釈として、彼(観察者)の視点を相手(受難者)自身に移して、そこから受難者の周りの眺めを想像する、として良いかどうかがである。

もし、良いとすれば、この方法は、視点を相手に移しその人物に“なって”みて、その人物の周りの世界の眺め(その人物を取り巻く環境=情景、出来事)を具体的にイメージすることで、その眺めから相手の心情を把握できる(という推測になる(まとめ(**)参照)。

そうでない場合は、観察者の視点の位置は相手(受難者)の境遇に置かれるため、その視点からは受難者を取り巻く外的状況(眺め)をイメージしても、受難者の内部に及ばないと考えられる。従って、受難者の眺めに彼の内面・心情の情報が反映されないから、その眺めからは、受難者の心情を把握(見る)ことは出来ない事になる。

 

上述した「想像上の境遇の交換」の議論は、ある意味で思考実験あるいは理論的に単純化した考察である。これらの考察が実際に適用できるかは別に考えなければならない。実際の作品の理解などを通じて本コラムの議論を吟味することは、次回以降に回すことにして、以下では、とりあえず、今回分かったことや課題をまとめておこう。

 

  • まとめ

・通常、“相手の立場になってみる”と解釈されているスミスの「想像上の境遇の交換」は、必ずしも指示する事態が明快ではない。本稿で、「想像上の交換」を“相手自身になってみる”という解釈する場合、文芸作品の理解や心情理解の世界に繋がることが分かった。

・(**)同感するためにスミスが考えた「想像上の境遇の交換」の方法では、相手(他者)からの眺めをイメージすることで、当人の感情を分かる(推定できる)と想定をしている。ここで想定されていることは、例えば、AさんからBが去っていく時、AさんからのBの見えが、下を向いて所在なさそうな後ろ姿なら、去っていくBにはきっとさみしい思いがあっただろうという推定や、この推定を第三者に想像させること、さらには、同じ対象でも、異なった視点からは違った眺め(見え)を生む、「あばたもエクボ」のような事象が該当していると思われる。しかし、そうした推測の形式の妥当性は、物語の理解のような場合に認められるとしても、一般的には仮説に留まる今後の課題だろう。

・社会学などで、スミスの「想像上の境遇の交換」による方法は、他者の共感的理解(Empathic Understanding)と呼ばれている。共感的理解も含め、スミスの共感論は感情と知性の重なりという点に大きな特徴を持つ。その結果、スミスの同感は条件付き同感になっていると考えることも出来よう。メディア全般に同感の対象が拡大している今日、私たちはどんな情報にも、ごく当たり前のように知性を働かせると同時に感情をのせ、選択的に聞いたり読んだり反応している。言い換えれば、これは条件付きで同感していることであるが、そうした反応の起源がスミスの「想像上の境遇の交換」にある可能性は高い。

・スミスの「(想像上の)境遇の交換」は明かに同感のための手段あるいは一つの段階であって、同感(共感)そのものではないことは明らかだろう。感情移入することが共感することではないのは、同様な事情による。

 

長島 知正  2018-06-18 (06-20;まとめ(**)加筆修正)

 

付録(*)

・語義から考えると、「彼自身を相手の境遇に置く」は「境遇を交換する」ということではない。「境遇を交換する」とは、彼と相手各々の境遇を入れ替えることを意味しているからである。また、「彼自身を相手(他者)そのもの」と入れ替えること、つまり“他者になる”場合とも違うと考えられる。

 

 

共感の視点(2)

  • スミスのSympathy とその仕組み

”どんなに人間が利己的なものと想定されうるにしても、・・・、明らかに彼の本性にはいくつかの原理があり、他の人びとの幸福を見るという快楽のほかには何も引き出さないにもかかわらず、それを必要とする。この種に属するものに哀れみまたは同情がある“。スミスは著書「道徳感情論」(1759年刊)をこう始める。一見、これが自由競争によって富の蓄積を奨励する”国富論“と同じ著者のものかと思わせるが、そこでスミスは社会に秩序をもたらす”人間の本性(Human Nature)“について雄弁に語っている。従来の価値観が大きく揺らぐ今、西欧的近代社会の見方には違和感を持つ人でも、少なくともスミスがそこで描く“人間像”から学ぶものはあるのではないか。

 

●スミスと道徳感情論

“同情“から”共感“が新たに生まれてきたように、時代と共に共感の内容は変容してきた。とは言え、現代社会で”同情”が重要と考える人はほとんどいない。むしろ、同情は現在嫌われる言葉の代表と言って良いかも知れない。今日多くの人が思いつく広い意味の共感現象は、例えば、サッカーなどのスポーツにおいて、選手とサポータの間の一体的な結びつきのようなものではないだろうか。現在では、このように同情や哀れみのような否定的な感情のみならず、悦びを表す肯定的感情も共感の対象と考えられている。

多様な共感の議論に通底するモノはあるのだろうか。また、今後の私たちに共感はどのように関わるのだろうか。最近のメディアにあふれる前のめりなAIの議論とは対照的に、こうした話は便利さに繋がらない。けれど、便利さばかり追求する価値観に不安を感じる人も当然いるだろう。

ここでは、共感論としての重要度はともかく、私たちが日常使う”共感概念“の形成に大きな影響を与えたと思われる、道徳感情論を再び取り上げ、スミスが言う”Sympathy(同感)“の内容を掘り下げてみたい。道徳感情論で最も重要なキーワードは“Sympathy”であるが、その訳語は、共感とするか同感とするか現在も統一されていない。本稿では取りあえず”同感“を使うことにする。以下では、スミスが考えた共感論はどのようなモノか、特に基本的な仕組みに着目し、その概要と特徴を考える。

 

表題から伺えるように「道徳感情論」には、同情のような旧来の共感概念から大きく逸脱した性質がある。私たちは普通、人の行為を善いものとして認めたり、悪いものとして非難したりする。そうした善悪の判断、つまり道徳判断とは一体何なのだろうか。考えてみれば、これは大変な問題である。

その問題に対し道徳感情論は、西欧社会が近代化と向き合う中で、人間の本性の働きとして、さまざまな感情に訴えることで答えようとした。同情や哀れみという人間の感情自体は古代ギリシャから既に議論されていたが、そこから行為の善悪を決める道徳判断という形を得るまでに、1700年を超える年月を要している。

日頃の行いを割り引いても、筆者などは話題が道徳や倫理に関わった途端何故か逃げ出したくなる心理的傾向があるようだ。だが、こうした傾向はどうも、私一人ではないらしい。昨今の我が国政治・行政の惨状は、「我が国では一般に道徳判断が関わる社会的出来事や、社会的公正とか社会的正義という事への感度が低いのではないか」と伺わせるに十分である。だが筆者が気になるのはむしろ、理系ではとりわけ低いのではないか、と言う点である。そこでは、社会の課題について考えるのは理系ではなく、文系だというエクスキューズが見え隠れしているが、これからの時代にそれが通用しないことはもう明らかだからだ。

図1.キャラクター:想像の中の料理人

 

●スミスの同感の仕組み

“人の行為の善・悪が感情によって判断される”ことは既に述べたが、スミスはそうした考え方を確立させるため、ある行為の当事者はどういう原因によって、その行為に至ったかを詳しく知ることが重要と考えた。例えば、ある人が涙を見せて泣いていれば、きっと何か悲しいことあるいは苦しいことがあったからだと思うだろう。しかし、悲しみを生んだ原因がその人の不注意にあると分かれば、その人に共感する気持ちは起きなくなる。

つまり、スミスの考えでは、他人の行為が適切であるとは、その行為の動機となった当事者の感情が、その感情を引き起こした原因や対象(出来事)と釣り合っていることである。私たちは、行為の動機となった感情が、その原因から見て適切と判断される時、その行為自体を適切と判断する。また、他人の感情が適切か否かを判断するには、自分自身の対応する感情を用いるほかない。

だが、具体的にはどうすればよいのだろう? 以下の説明にスミスの答えを見ることが出来る;

「私たちの想像力を用いて、他人(当事者)と同じ境遇に自分がいると思い描き、その事から、他人(当事者)の感情と類似の感情が私たちの中に生じる」。

直にスミスの考えに触れるため、少し彼の言葉を引用しよう;

彼(当事者)の感じていること(sensation)がどうであるかについて、私たちが何か概念を形成しうるのは想像力だけによる。その能力も、私たちを助けうるのは、もし私たちが彼の立場に置かれたならば、自分はどう感じるかという事を、私たちに提示するという方法しかない。私たちの想像力が写し取るのは、彼のではなく、私たちの諸感覚の印象だけである。想像力によって、私たちは、自身を彼の境遇に置くのであり、その時、私たちは自分たちが彼と全く同じ責め苦をしのんでいるのを心に描く。いわば、私たちは彼の身体に入り込み、ある程度彼になって、そこから、彼の感じていることについての観念を形成する。そして、程度は弱いが、彼の感じていることに類似したものを感じさえする。

スミスは上で、「彼(当事者)の感じていることに類似したものを(観察者も)感じる」と言っている。これがスミスによる同感である。スミスによれば、当事者の本来の情念が、観察者に生じた情動と協和している場合、当事者の情念は観察者から適当なものとして是認される。つまり、他人の感情を原因や対象から見て適切と是認することは、我々がそれらに“同感”することであり、反対に、それらを是認しないとは、それらに“同感”しないことである。

 図2に以上の同感の仕組みの概要を示した。

図2.スミスの同感の仕組み

図2では、同感に関わる要素として、当事者と観察者それぞれの行為およびその動機となる感情、また原因を与える境遇を一列に並べて示した。スミスの同感では、境遇の交換、即ち、当事者の境遇(S)に観察者の境遇(S’)を置くことによって、当事者の感情(E)に関する想像として観察者の感情(E’)を描く。なお、図中の(1)、(2)に関する議論は詳細にわたるので、付録に回した(付録1)。

 

同感の定義を元に、スミスは実に様々な善悪の判断、つまり道徳判断についての議論を推し進める。 でも、確か、当事者の行為の善悪を、観察者の感情を元に同感によって下すという判断は、観察者の感情に基づく判断だったハズでしたね。ならば、個人的な感情による判断が直接社会的規範や道徳判断になるという訳ではないですよね? もちろん、スミスは個人的な感情とは別に、“胸中の公平な観察者”の働きに着目し、それから公正な判断の基準が導かれるとしている。しかし、ここではそうした道徳判断の具体的な内容に立ち入らない。それらについては全て他に譲り、以下では、特に共感論の視点からスミスの同感が注目される特徴に的を絞ろう。

 

●スミスの同感の特徴

一言でスミスの共感論の特徴を云えば、上述した下線部の説明に見られるように「同感のための手段が”境遇の交換”だった」という事だろう。彼は境遇の交換というアイディアに自信があったらしく、境遇の交換について細かな注意を与え、また、それによって得られる効用を説明している。例えば、前者については、

観察者は何よりもまず、彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇におき、受難者(当事者)に対しておこる可能性のある困苦のあらゆる細かい事情を、彼自身ではっきり考えるように努めなくてはならない。 彼(観察者)は、当事者のあらゆる事情を、その最も細かな不随物の全てとともに、取り入れなければならないし、彼の同感の基礎である、想像上の境遇の交換を出来るだけ完全なものとするように努力しなければならない。

また、後者については、

(境遇の交換によって、)いわば、我々は彼の身体に入り込み、ある程度彼になって、そこから、彼の感じていることについての観念を形成する。そして、程度は弱いが、彼の感じていることに類似したものを感じさえする。

スミスは、“境遇の交換”によって、観察者にこのような(共感的)作用が及ぼされるという方法の独自性を強調しているが、今日の共感概念への影響から見ると、スミスの共感論で重要なのは、「同感は、人間の間に限られるものではない」ということを明確にしたことの方にあるのではないか。彼の考えは次の文にハッキリ認められる:

何かの対象から当事者の中に生じる情念がどんなものであろうとも、彼の境遇を考える時、すべての注意深い観察者のなかには類似の情動がわきおこる。私たちの関心をひく悲劇や騎士物語の中心人物たちが救い出されることに対する歓喜は、彼らの困苦に対する悲嘆と同じく真剣である。

このようにスミスは、劇中の人物とそれを見る人間の間に“同感”は考えられると明言しているが、これは“今日の共感”とのつながると言う点で大きな影響がある。何故なら、ここでスミスが考えている劇中人物はおそらくギリシャ悲劇のような伝統的な演劇に現れるヒーローなどだろう。演劇は生の人間が演じてはいても、それは劇、つまり虚構の世界の創作である。その意味では、小説や漫画などのメディアに登場するキャラクターと共通している(図1)。言い換えれば、同感は多様な創作作品のキャラクターを対象として、人間との間で生じ得ることになる。情報時代の現代、一種の記号としてのキャラクターは大きな役割を担っている。しかし、それについての説明はここでは不要だろう。

 

●まとめ

ここで、これまでのスミスの同感の議論を簡単にまとめておく。

スミスの同感は、行為の原因となる出来事、状況に能動的に意識を向け、単なる同情(共感)のように受け身ではない。また、感情を元にしているとは言え、是非の判断に、反省的な意識が働いている。この点で、スミスの同感には感情と理性がある意味で混在していると言って良いだろう。

だが、スミスの同感の大きな特徴は、同感が想像力の働きによって生まれるというより、想像力が作ると言った方が良いスミスの見方にあると言えよう。想像力によるからこそ、広い意味の共感としての同感の対象が人間以外に広がり、無生物にも、また人工的に造られた創作品も共感の対象になる。
「共感は感情移入によって得られる」という現代の“常識”に、こうした共感の対象の拡大という事実が影響していると思われる。そいて、その常識が根強く信じられている理由は、スミスの同感(Sympathy)で、“境遇の交換“を“感情移入“に置き換えた見方をしているからなのではないだろうか。これはもちろん筆者の独断であるが、これまでの同感の仕組みを読み直していただけば、理由はお判り頂けよう。

 

次回は、今回紹介したスミスの同感が現代に及ぼしている影響を分析する。具体的には、物語理解ないし文書理解、あるいは精神分析としてのセラピーを取り上げる予定である。

 

長島知正  2018-05-11

 

付録1:スミスの同感の仕組みの補足

スミスの同感の原理的仕組みは、当事者と観察者相互の境遇の交換によって、当事者の行為の動機となる感情(これを他者の元々の感情(E)とする)と観察者に生じた感情(E’)を“比較する”ことにより、同感の場合には是認する、というものである。

だが、この仕組みには少しおかしなところがある。まず、第一に比較の対象として、他者の“元々の感情”(E)が与えられなければならないが、それは実は知りえないものではなかったのか? そのことに対するスミス自身の説明はないが、承知していたハズだから、誤りと言わず説明の省略と好意的に解釈して、議論を先に進めよう。

とすると、まず考えられるのは、他者の元々の感情(E)は何らかの類推あるいは推測によって得ることだろう。具体的には、他者の涙や表情など外に現れた表現や行為を見ることにより、観察者の経験を元に他者の感情(E)を推定することでE’を得ることになろう(図2では(2)とした)。

これを認めても、同感によって是非を判断するために、それとは別に観察者の感情E’が得られなければ比較”ができない。また、この二つの感情E(実は図2の(2)によって推定されるE’)と別に得られるE’が比較可能であるためには、それらは独立に知られなければならない。スミスの境遇の交換による方法(図2で(1)とした)で得られるE‘は、前述した方法(図2の(2))で得られるE’の結果とは独立に知ることが出来る。

 

 

 

共感の視点(序説)

共感に関する基本的な事柄として、前回までに1)国語辞典で扱われている意味、および、2)日常的に使用されている「感情移入と共感の関係」について、検討した。しかしながら、例えば、前回取り上げた「共感は感情移入よって得られるか」という問題は論理的に成立しないという結論を導いたけれど、実際には新聞などでも相変わらず、「感情移入によって、共感が得られる」という論理はいたるところで使われている。何故なのだろう。議論が不完全なせいなのか、あるいは別の理由があるからなのか。いずれにしても、共感についての前回までの議論には消化不良な印象が残ったようだ。

そこで以下では、共感について不足している課題の議論を補う一方、新たな視点から、共感の現象を掘り下げてみることにしたい。

 

先の冬季オリンピック・パラリンピックでは、わが国は多くのメダルを獲得し盛り上がりを見せた。昔ほどではないにしても、金メダルを期待される競技の放送は多くの人が実況放送を視聴しているようだ。そこでは、メダルをかけて争う日本選手を自然に応援するという感情、一種の共感の働きが見られる。私たちは普通、知らない国の選手の競技には興味を持たないが、同胞選手の競技に関心を寄せる。

とは言え、金メダルを争った小平奈緒と韓国の選手(李 相花)の友情も話題となった。これは、先の同胞意識(としての広義の共感)とは別な、国の違いを超えた、スポーツマン個人の思い遣りとして共感を呼んでいる。これらの例にも見られるように、一口に共感と言っても、そこには相当違うものが含まれ、全貌を把握することは簡単でない。 共感を定義することは現在も未だ閉じていない課題と思われる。

図1.冬季オリンピック

本稿の目的は、永い歴史と広がりを持った共感への序説を兼ね、今後取り上げる予定の概要をスケッチすることである。今日、共感という言葉は普通、苦しみや悦びに関する同じ感情を他者と共に持つという意味で使われているが、その起源は古代に遡ることが知られている。例えば、西欧では、アリストテレスが哀れみに注目している。アリストテレスが考えた“哀れみ”の意味は“同情”とほぼ重なっているようだ。また同時代に、仏教や儒教の思想で、それぞれ“慈悲”や“哀れみ”が重要なものとされてきたことも興味深いけれど、ここでは、共感に関する古くからの議論に大きな影響を与えたと思われる、アダム・スミスによる“共感論“を一つの手掛かりとして、次回からの議論の準備を進めていきたい。以下では、今後取り上げるおおよその流れを説明しよう。

 

スミスは、18世紀産業革命の影響が現れ始めた英国グラスゴーで“国富論”を著し、経済学の父と呼ばれている。彼の経済理論をどれほどの人が理解しているかは別にしても、国富論の名は誰でも聞いたことがあるに違いない。しかしわが国では、彼が国富論の前に、人の道徳は感情のSympathyを基礎に成り立つとして、“Theory of Moral Sentiments”(日本語訳、道徳感情論、上・下、水田 洋訳、岩波文庫)を著したことを知る人は多くなさそうだ。この辺りの話は、劇的な文明化を150年という短期間で遂げたわが国では、特に馴染みにくいものなのだからかも知れない。

そのせいかは分からないが、わが国で“人間とはどういうものか”といったような基本的な議論に接する機会は少ない。そうした議論はいくらしても、“それが愛と言うものよ!”という寅さんのセリフの方が好まれる現実は変わらないでしょ、という嘆き声も聞こえるが、それは、我が国では魅力ある議論が少ないからという見方は偏見だろうか。

 

”人間がどんなに利己的なものと想定されうるとしても、彼の本性には、彼に他の人びとの運不運に関心を持たせ、彼らの幸福を、それを見る喜び以外何も得るものがないにも拘わらず、自分に必要と感じさせてしまうというもう一つの原理がある。それに属するものに、哀れみ、あるいは同情がある。”

道徳感情論の冒頭に述べられたスミスの言葉である。

スミスはこのように同情に注目するけれど、同情自身を問題にするためではない。彼の目標は、人間の行為が適切か不適切か判定するために同情と言う感情を使うことである。スミスの考えでは、他人のある行為が適切なものであるか否かは、その行為の動機となった感情が、その感情を引き起こした原因と釣り合っていることで判断される。つまり、他人の行為の動機となった感情を、その原因からみて適切であると判断することにより、その行為自体が適切であると判断する、というのである。こうしたスミスの道徳判断の考え方には、他人の感情が適切であるかどうかを判断するために、自身の持つ対応する感情を用いるよりほかないという前提があると言えるだろう。

Theory of Moral SentimentsのキーワードがSympathyであることは誰にも明らかなのだが、道徳感情論の訳ではSympathyに対して”共感”ではなく“同感”が当てられている。そこには留意すべき点があるようだ。スミスのSympathy を単に“共感”と言う場合もあるけれど、同感を共感と区別した方が適切な時もある。道徳感情論でのSympathyの訳語としては同感がふさわしい。何故なら、上で触れたように、彼はSympathyを行為の適切性を判断(是認、否認)するという文脈で用い、内容を単純な同情や共感から大きく逸脱させているからだ。

そうした内容のズレに呼応するように、スミスは、感情移入に“類似した“概念として、“境遇の交換”という概念を導入した。これは、T. リップスの感情移入と同様、共感を受動的ではなく能動的なものとして捉え、同時に、対象を人間以外のものにも拡げたと受け止められている。その効用は情報メディア隆盛の今日決して小さいものではない。しかし、スミスの”境遇の交換“が許容される範囲やリップスの感情移入と異同については、必ずしも十分検討されてはいないようだ。

図2.綱渡りは見ているだけで疲れる

スミスの道徳感情論には多くの独創的な考えが示されている。以下そのいくつかを簡単に触れてみよう。共感の典型例として、スミスはサーカスの綱渡りとそれみる観客の身振りを挙げていることもその一つだろう。彼は、綱渡りする当事者と観客の間に現れる身体的な同調動作、言い換えれば身体的共鳴に着目し、これが共感現象の、十分明証的に説明は出来ないが、明らかな観察によって証明される例であると言う。何故なら、観客は“境遇の交換”によって、綱渡りしている当事者の立場に立ち、その気持ちになって、身体をよじりバランスをとるのだ、と言いたいのである。

このスミスの議論の筋道にこそ、「感情移入によって、共感が得られる」という今日常識となっている原型があるように思われる。ならば、その前提は成り立つのだろうか、また、感情移入と境遇の交換は同じものか、等々を検討しなければならないだろう。

少し考えると、綱渡りの問題は、共感の成り立ちに関する問題も投げかけていることが分かる。その一つに共感と模倣の関係の問題がある。旧聞になるが、脳科学から、ミラーニューロンという神経細胞が模倣の生理的基盤に深くかかわっていることが指摘された話題を知っている人も少なくないだろう。

哲学分野で、人間の自他識別の問題に関わって模倣が議論されることがあるが、スミスは道徳感情論の中で、自分の行為の道徳判断の原理として、「他人は自分自身の行為をみるための鏡」と述べている。これは、20世紀のラカン精神分析学における、自己の鏡像に関する「鏡像段階」論の先駆けとなる見方とも言え、スミスの人間を見る目の確かさを現わしているようだ。

 

今日、共感を議論する狙いの一つは、スミスの言葉を借りれば、人間の本性とは何かについて、人間は本来自らのことを追求する以外に、他者を思い遣る性質、つまり利他性を考えるところにある。とは言え、”哀れみ”や”同情”という話から始まる共感の議論は、それらの言葉が今日どう受け止められているかを考慮しなければならないのかも知れない。つまり、「同情なんかされたくない」という言葉が時代の気分を特徴づけている、と言われる今日、哀れみや同情は最も嫌われるコトバだということをどう考えるのか、である。

好き嫌いは個人の主観だから、確かに時代の気分を変えることは困難だが、哀れや同情という言葉について、適切な知識を補うことは出来る。言い換えれば、言葉の意味は変化しているという事実に注意したいのである。そのような言葉の典型が、哀れや同情である。とりわけ、哀れという言葉ほど、見事に意味を変化させた言葉も珍しいだろう。詳しくは辞典などをご覧いただきたいが、哀れは、現在、気の毒で見ていられないような、みすぼらしく悲惨な様を指すものと受け取られているけれど、元来全く違っていたのだ。

端的に言えば、”哀れ”の原義は、深い感動を感じたときに発する感動詞で、そもそもは,称賛や悦びを表していた。それが後世、“アッパレ”という褒めたたえる言葉が現れて、現代語として引き継がれた。その一方、哀れという言葉の意味は時代と共に悲哀や哀れみという対照的な意味で用いられることが増え、今日の使い方に繋がったのである。この他、しみじみとした風情といった意味でも哀れは使われる。同情についても、少なくとも戦前は“情を同じくすること”という、現在の共感と同様な意味で用いられ、否定的な感情を指すものではなかった(文献1)。

 

哀れは特別な日本語である”。150年ほど前まで、わが国で最も基本的な心情を現わす言葉が「もののあはれ」であり、そこに、(万物一体といわれる)わが国の感性の特質が現わされている、といった先達の指摘(文献2)を付け加えておきたい。

筆者のような理系人間にとって、「もののあはれ」の感性を取り戻すことは、恐らく出来ないだろが、少なくとも、そこに着目して、現在、西欧近代の美学に始まる感性と伝統的なわが国の感性を見比べることは無意味でないと思うからである。

次回から、こうした共感の広がりと成り立ちをめぐる問題を様々な視点から検討してみたい。

 

長島 知正    (2018-04-14、加筆;2018-04-17)

 

文献

1.共感の思想史、仲島 陽一、2006、創風社

2.知の構築とその呪縛、大森壮蔵、1994、ちくま学芸文庫

 

 

 

魅力、感性、そして共感 (3-2)

前回説明したように、リップスによる“感情移入”は元来自然や芸術作品を対象とした美的観念のための態度で、“共感”とは異なる概念である。つまり、当初考えられた感情移入は、自然や芸術作品を対象として鑑賞する際、鑑賞者のその時持っている感情を対象に投射して生じる感情を自然や作品のものとしようとする。こうした感情移入は、他者と同じ感情を持つという共感とは明かにかみ合わない。にも拘わらず、感情移入が共感と何らかの関係を持つようになるには、そうなる契機があったハズだ。すぐ想像されることは、実際リップスもそうしたように、当初の感情移入の対象を人間にまで広げることだろう。しかし、感情移入の対象を人間を含むように拡張した場合、「“感情移入”の意味自体が変わらざるを得ない」ところに、その後の感情移入を巡る議論を混迷させた一因があるようだ。本稿ではそうした次第に立ち入ることにする。

 

まず、課題を具体的にすることから議論をはじめよう。

感情移入の対象を無生物とする場合、対象は元来感情など持っていないから、鑑賞する人(私)は対象にどんな感情でも勝手に投射することは可能だ。だから、そこで共感などという事を考えるのはむしろ奇妙にさえ感じる。一方、人間が対象になる場合には、その人(他者)には感情があり、同時に、その人を見ている別の人(私)の感情もある。この場合、私の感情を移入しても、一般に対象である他者の感情と一致することはない。だからこそ、“他の人(他者)と同じ感情をもつ”という共感の現象が注意を引くことになった訳だ。実際、現在の共感と意味がズレテいるが、共感の語源とされる、「共に苦しむ、共に感じる」を意味する“Sympathy“はギリシャ時代には既に使われていた(付記1)。こう言うと、”共感は如何にして起きるのか”という疑問は関心をもたれて当然のようだが、実際の西欧の歴史は違う道を歩んだ。“個”に絶対的とも言える価値を見出した西欧的近代化の影に隠され、その疑問は議論されても、大きなまとまりになることは無かった。

そうした流れの中で20世紀初頭、「共感は感情移入によって得られる」という“画期的見方”が美学・心理学分野に現れると、そのアイディアは隣接分野から一挙に広まったらしい。共感(や感情移入)の話題は現在も、人間の本性を巡る問題として議論されているが、以下では、今日一つの常識となった「感情移入によって共感が得られる」という課題に絞って考える。

そのためここで、語の意味の問題を一度離れ、共感の問題の構造に注目しよう。例えば、事故でケガをした人が痛そうにしている時、それを見た人はケガをした人に“ダイジョブ?”と声をかけたりするだろう。古くから知られた、共感の原型と見なされる同情は、こうした不運な事態を経験している他者(A)を見て、相手を気遣う人(B)の反応である。

図1.痛そうにしている人を見るとどうして同情するのか?

共感の現象は、この例のように見かけは単純でも、複数の過程が関与している。問題はどのような心的過程が関わっているかだろう。心理学事典よれば、上の例の場合、共感は以下の過程として“定義”される:

  • (1)ある人(A)がけがをして痛そうにしている時、
  • (2)(A)の様子を認知した他の人(B)が、(A)と同様な感情を体験し、
  • (3)(B)は自分に生じた感情と類似した感情を(A)の中で起こっている(だろう)と認知する。

共感の問題を理解するためには、「上の(2)、(3)がどのようにして起こるか」、言い換えれば、ケガもしていない人が、どのようにして負傷した人の痛みを知り、相手を気遣うという反応をするのか、が問われるが、心理学事典にハッキリした説明は与えられていない。そのため以下で、一つの説明を試みることにする。

まず、上記の(2)、(3)を成り立たせる基礎について考えよう。すると、「他者が体験している事柄を、自分のものとして体験する」という事柄が該当するように思われる。ここで便宜上、他人の体験を、自分のものとして体験することを広義の”追体験”(付記2)と呼ぶ事にしよう。もし、このような追体験(広義)の働きがなければ、傍観者として他者の苦しみは理解できても、自分の苦しみとして感じられようにはならないように思われる。その意味で追体験(広義)は“共感”に深くかかわっていると見られる。

ところで、共感の要素である(2)、(3)を具体的な“追体験(広義)”の形で表す場合、次の常識的な形式が考えられよう:

  • (a)他者の示す様子を知覚する(他者―>自分)。その様子(の認識)から、
  • (b)自分に昔起きた同様な体験が想起され、自分の中に苦しかった感情が生じる。
  • (c) (b)で想起された体験から、きっと他者も苦しいに違いないと類推する。
  • (d) (c)の類推結果を他者に移し入れ(感情移入)(自分―>他者)、他者が自分と同様な感情を持っていると思う。

 

上の(a)~(d)を見ると、(d)に、自分の感情を他者に移し入れる過程があり、これを“感情移入”と見ることも出来そうである。すると、議論の出発点である共感の問題にさかのぼってみると、その中にリップスによる始原的な“感情移入”に形式的に対応する過程 (d)が現れていることになる。しかし、同じ“感情移入”という言葉を使うとしても、自分=>他者へという向きが保たれているものの、そこで移し入れられる内容は違う。リップスの始原的な感情移入では、対象に自分(鑑賞者)のその時の感情が投射されるのに対し、ここで他者に移し入れられるのは、自分が追体験(広義)によって生じた考え・感情である。ここでは勝手な感情を投射してはいない。

図2.映画に感情移入

以上、大変大急ぎであったけれど、心理学事典であいまいに説明されていた内容を補い、その上で、“感情移入”と共感の関係も一応定められたようだ。

 

今までの共感についての議論を振り返ってみると、自分が他人と同じ考えや感情を持つことを共感と考えれば、共感では、「どのようにして他人の考え・感情が、自分と同じであると知ることが出来るのか」という問いが問題の中心にあることが分かる。言い換えれば、それは、外部から直接知ることが出来ない他人の感情などを如何にして知るのか、という”他我認識”問題に入ることになる。従って、共感の要素である(2)、(3)、あるいは、それらを他者の体験を自分のものとして体験する追体験(広義)として表した(a)~(d)は、他我認識と本質的に重なっていると言える。

では、前回からの課題「感情移入によって、共感が得られるのか」についてはどうなるのか。答えは「否」である。何故なら、上の共感の仕組みが依拠している、「他者の感情が自分の感情から類推して得られる」という推理が論理的に破綻しているからである。つまり、そこで使われた論理(類推)は、検定する方法が原理的にないから、どんなことを言ってもOKになってしまうのである。本稿の例について言えば、“感情移入”で移し入れた感情(d)が他者の感情(1)と一致するとは言えないのである。

 

結論をまとめよう。「感情移入によって、共感が得られる」という“常識”を論理的に示すことは、他人の感情を自分の体験に基づいて推測する限り、不可能である。これが今回の結論であるが、もちろん共感が起きないと言っているのではない。人のこころの内実を担う痛みや感情は、現在の科学によってもそれを外から直接捉えることは出来ない。そのため、我々は日常生活の中で、外に現れた振る舞いや言葉から、他者のこころに起きた事柄を、”何よりも良く分かる”自分の体験に基づいて説明しようとする。「共感は感情移入によって得られる」という常識もそうした一つで、本論で議論したようにそれは論理的に成り立たないと言っている訳である。

しかし、大急ぎで次のことを付け加えておかねばならない。上の結論を導いた方法は近代科学のものであり、「論理的に正しくても、納得できるかは別のこと」として残っている、と。

そうした意味で、共感は“常識の衣”をかぶった、ヤッカイナ見方に囲まれている。そこには、“(他者の)感情の意味”の問題をはじめ、AIの発展に深くかかわる課題もある。今回、ようやく共感の問題の入口に到達したが、多くの地続きの課題は別の機会に取り上げていきたい。

 

長島 知正   (2018-03-02;(文言修正)2018-03-04)

*付記1:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p225.

付記2:追体験は、一般に、他者の体験を(後から)辿ることによって、自分の体験として把握するという場合に使われるが、本稿の広義の追体験では、他者の体験を辿るのではなく、むしろ自分の過去の経験を辿って、他者が経験している事柄に近い体験を探索している。

魅力、感性、そして共感 (3-1)

最近、“o o 力”といった言葉をマスコミで良く見かける。そうした一つに”共感力”という新しい言葉がある。マスコミに現れたからと言って、それが多くの人の支持を反映しているかは別と考えるべき事だが、どうもその背景に、感性より共感に関心を持つ人が増えているような気もする。共感の方が抽象的な感性よりイメージし易いせいかも知れない。知性から切り離された広い意味の感性にもようやく日が当るようになって来たのだろうか。歴史の脇道を歩んで来た感性にまつわる様々な概念は整備されないままモツレ、俄かに議論が進むことは無いだろうが、共感を巡る最近の話題はそうした関係をほぐす契機になるかも知れない。

共感と言えば、少し古いが、ビートルズやAKB48の公演に熱狂するファンを想像する人や、あるいは、白熱したF1レースの勝敗を分ける場面をTV観戦している時、車がコーナーにさしかかる画面に、TVの前で手に汗をかきながら、ドライバーさながら遠心力に逆らうように身体を傾けた経験を思う人もいるだろう。また、そうした汗にまみれる熱狂とは対照的に、日の当たらない暮らしの中で、つつましいけれど爽やかに生きる時代小説の主人公の振る舞いに思わず涙した体験を思う人もいるのではないか。

図1.綱渡り:見る人も緊張してしまう

このような譬え(たとえ)からも伺われるが、いわゆる共感と呼ばれる現象の幅は想像以上に広いようだ。共感という言葉が流布する一方、共感とは何か、その本質を把握することは容易でなさそうだが、ここでは、共感についてどんなことが理解できているのか、哲学との繋がりも頭に置きながら辿ってみたい。

とりあえず前回、日常的に使われる会話から、共感はどのような形で起きると考えられているのか、探ってみることにした。そこで、TV番組の視聴率を確保するために必要な事は何かという、新聞記事にあったTVプロデューサーの発言;「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できない」を取り上げた。 この記事に注目した理由は、この発言の中に、共感と感情移入という二つの概念の間には、「共感は感情移入によって得られる」という共感の起き方についての考えが端的に見られるからである。この考えは今日ごく普通の常識となっているように見える。だが、この共感についての”常識”は果たして妥当な考え方なのか、これが今回の検討したい課題である。

言葉のレベルで、共感と感情移入とはどのように繋がっているのか、前回、国語辞典で探った。だが、共感と感情移入に関する言葉の関係は捩(よじ)れ、矛盾が生じて先に進めない予期せぬ事態になってしまった。このような状況を体験すれば、理系の人ならまず十中八九、“だから文系の議論はついて行けない!”と言うに違いない。だが、一番の問題は、そうした言葉の混乱があっても、何事もないかのように見過ごされていることなのではないだろうか。国語辞典に見られるそうした混乱は、磨き上げられて展示された文化の裏側を見てしまったような気持ちにさせる。それはともかく、国語辞典に見られる語義上の詮索は止め、以下では視点を変えて本稿の問題に向かおう。

そのため、共感や感情移入それぞれの意味を掘り下げて検討し、その上で、両者の間の関係、特に「感情移入によって、共感が得られるか」という問題を考えることにしたい。便宜のため、前回引用した国語辞典(A)で与えられた共感と感情移入の語彙を再掲し、議論を進める。

先ず、共感は、

他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感

である。つまり、共感とは、他人の考えや感情をその通りだと受け止め、あるいは感じる事である。言い換えれば、「他人の思い(考えや感情)と同じ思いを持つこと」となろう。この言い換えによって、Bの辞典にある意味、“他人と同じような感情(考え)を持つこと”と重なっているのが分かる。

一方、感情移入は、

「自然や芸術作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象のものとして体験する作用。Empathy。」とある。なお、この語は心理学の用語と記されている。

これは感情移入の概念をコンパクトに説明しているとは思うけれど、心理学の用語と言うせいか、分かり易いと言えるだろうか。例えば、「その感情を対象のものとして体験する」という箇所はどのような意味だろう。

それに答えるため、感情移入に関する上の記述全体を眺めてみよう。ポイントは、感情移入は、「1)私にある体験をもたらす働き(作用)である。だが、2)その体験は、普通の私自身の体験とは異なり、対象のもとしての体験である」という事だろう。とすれば、”その感情”とは、自分の感情を対象に投射することによって、(自分の中に)生じた感情と考えられるから、それを対象のものとして体験するとは、自分に生じたその感情をあたかも対象が持っている感情と把握する体験、と理解される。

ここで、「私の感情を対象に投射する、つまり私から対象に移し入れる」というところが、感情移入における(私―>対象)という一方向性の特徴と言えるだろう。

なお、上に引用した国語辞典(A)では感情移入の対象を、自然や芸術作品などとし、なぜか人間を含めていない。経緯は不明だが、この項目の担当者が感情移入という言う言葉は、カントの流れをくむリップスの美学から始まっているという来歴に拘ったせいかも知れない。だが、その後の発展から見ればそれは絞りすぎで、Bの辞典にもあるように対象には人間を含めるべきで、本論もそのように考える。

ひとまずこれで、感情移入および共感について語の解釈はできた。けれど、その検証や、実際的観点から吟味がなければ絵に描いたモチだろう。そこで以下では、感情移入および共感と言う心的過程に対する心理学の解釈をまず「心理学事典(新版、平凡社)」に基づいて確かめる。その後、リップス自身の研究に関する専門書(*付記2)を参考に、リップスの感情移入の考え自体にある問題点も含め、共感の問題を全体的に検討することにしよう。

心理学事典によると、“感情移入”は;

・ドイツ人の美学・心理学者リップス(Lipps, T)が用いた用語ドイツ語Einfuehlungの日本語訳である。

・リップスは、感情移入の概念を「他者、自然界、創造物といった対象と対峙する自分を、その対象において客観化し、自分の定性を対象に帰属するものとして体験すること」と定義している。

・この例として同事典では、「秋の月が寂しげなのは、秋の末の寂しい自分自身の気持ちが自然界に投入されるから」を挙げて、感情移入とは「自然界や他人に自分の感情を知らず知らずに移し入れて、それら自身がその感情を持っているように感じること」と説明する。

・リップスの感情(定性)は、自我の思惟、判断、運動極めて広義なもの含み、また、自我と対象の間の心理的な交渉も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕むと考えられる。しかし、基本的には自分の側に生じている事柄が対象に移し替えられて認識されるという「自分―>対象」という方向が認められる。

・他方、共感は、一般に、あ)人と人の間で、い)主に感情に関して生ずる過程に限定され、う)その感情が他者から自分に移入・伝達されるもの(他者->自分)と考えられる。これらいずれの点でも、“共感は感情移とは相違している”。

図2.中秋の名月は、寂しげに見える?

なお、心理学事典には、共感と感情移入の関係は何故混乱したのか、経緯の一端が明らかにされている。つまり、”感情移入”は、既に述べたようにリップス(Lipps, T)が用いた用語Einfuehlungの日本語訳であるが、英語圏で使用されたEinfuehlungの英語訳empathyの日本語には“共感”という訳が与えられた、とある。この結果、日本語では感情移入=共感という理解(誤解)が生まれざるを得なかったのである(*付記1)。

 

以上が、感情移入(および共感)に対する心理学事典による解説である。これから、心理学事典自身や国語辞典Aにある感情移入の意味がリップスによる心理学(美学)に依拠していること、更に、本稿の前述した解釈もおおむね妥当と言えるようだ。また、感情移入という語が混乱した経緯もとりあえず分かった。さらに、感情移入と共感の関係について、少なくとも心理学事典の解釈に従う限り、互いに相違した概念であることも明らかだろう。

 

しかしながら、心理学事典の感情移入の説明には、あいまいで内容を明快に把握できないところが残る。その典型が、リップスの感情移入を解釈する例として挙げた、「秋の月が寂しいのはそれを眺める人が寂しいからだ」である。確かに、本来感情などない自然や芸術作品のような対象が、感情移入によって、それを眺める人のその時の感情が対象に投影され情感を帯びる。このような見方には、カントの美学の影響を受けた“自然自体は美ではあり得ない“、”美は人間が自らを貸し与える事で生じる”といった美学思想が背景にあると言われている。

その意味で、リップスが当初考えた感情移入は、自然や芸術品を鑑賞する理論にふさわしいと言えるものだろう。だが、専門書によれば、リップスはまもなく人を含めるように感情移入の対象を拡張した。それでも、感情移入はその時の人の思い(考え・感覚・感情)を単刀直入に対象に投影するだけでよいのだろうか。心理学事典も、単なる移入という言葉で包含できない微妙な過程を孕んでいると思われると留保をつけながらも、自分の中に生じている事柄を、自分―>対象へ移し替える、“投影”に極めて近いとしている。この“生じている事柄”はあいまいだが、少なくとも感情は含まれていよう。

もし、感情移入が自分のその時の感情などを対象に投影する(移し入れる)ことと理解するなら、他人と同じ感情を持つ共感の関係などといった問題はそもそも起きないのではないか。では、今日広く信じられるようになった「感情移入によって、共感が得られる」という常識はどのように生まれただろう。

(以下、次回(3-2)に続く)

 

長島知正  2018-02-13

*付記1:なお、現在では、共感=>Sympathy、感情移入=>Empathyを当てるのが普通と思われるが、上記の経緯が明らかにされても、心理学の領域では奇妙なことにEmpathy を感情移入と共感の両方に当てている。

*付記2:仲島陽一、“リップスとフロイト”、共感の思想史、創風社、2006、p.225.

 

魅力、感性、そして共感(2)

一昔前の年末恒例行事の一つに、キリスト教などの教会関係者による社会鍋や地域の福祉関係による炊き出しがあった。来年は明治元年(1868)から150年になるが、最近、そうした炊き出しのニュースはあまり聞かれなくなった。炊き出しが必要なくなるほど、社会は住みやすくなったということなのだろうか。わが国の近代が明治維新を契機に始まったことを否定する人は少ない。だが、明治維新の中身やその評価はどうだろう。その仔細は別にして、ここでは、明治維新を象徴する文明開化や和魂洋才といったキーワードに注目したい。

文明開化や和魂洋才というコトバでは、前者はストンと落ちても、後者はどこか引っ掛かる人はかなりいるのではないか。和魂洋才は、雑に言えば「和魂(和のこころ)を失うことなく、西洋の進んだ知識・技術を吸収し・利用する」といった意味で使われる。ここに、“和の魂(こころ)”というコトが出てくるが、この和魂洋才をタテに、古き時代の大和魂が失われたと主張する人も少なからずいる。古き良き時代の大和魂に戻ることが、今後のわが国の進む道なのだろうか。

図1.炊き出し

筆者は西欧近代の思想に問題があることを認めるが、西洋思想を安易に否定することに賛同はできない。文明開化を急ぎすぎたわが国では、西欧の思想自体正しく理解されなかったところに問題がある、と考えるからである。“和のこころ”は感性に繋がるが、それをどのように繋げるかが今日的課題である。前置きが長すぎたが、以下では、共感とは何か、特にここでは“共感”と“感情移入”の関係を検討したい。最近日常の生活で共感が話題にされることが増えたようだ。だが、少し考えてみると共感には良く分からないことが沢山ある。

今想えば、子供のころ、よく親から“相手の身になってごらんなさい”と聞かされた気がする。子供の躾(しつけ)のために、“その人の身になって“と言う言葉が使われたのだろう。それがどういうことか深く考える事など、子供には覚つかないはずだが、そのコトバによって、相手におきた不運な出来事を想像できたそぶりはしていたらしい。

この“相手の身になる“ということは感情移入”のキーワードになる。共感や感情移入という言葉は現在盛んに使われる日常用語で、前回紹介した民放TVプロデュサーの新聞記事ではこんな具合に使われていた:

「目指すのは、自分自身が共感できる主人公を描くこと。私が視聴者として毎週会いたいのは、(中略)、本音で生きているヒロイン。聖人君主みたいな役では感情移入できないから」。つまり、この文は感情移入と共感が結び付けられる典型と思われるが、そこで感情移入は「共感できる」ための条件あるいは手段と考えられている。こうした言葉使いは、ごく当たり前になっているのでないか。

ところが、心理学や哲学などでは、それは異なる概念の混同とされているのである。以下で、そこにどんな問題があるかを考えてみたい。そのため、まず感情移入、共感それぞれの言葉の意味について確認し、その後、それらの関係を検討しよう。

とりあえず、前回同様、国語辞典を引くことにする。ここでは2種の辞書(A:集英社、第二版、B:三省堂、第2版)を引き、それらの意味を並記する。まず、「共感」の意味は、

A:他人の考え・感情を、そのとおりだと受け止めること。また、その感情。同感。

B: 他人と同じような感情(考え)になること。

「感情移入」については、

A:[心] 自然や芸術作作品などの対象に自分の感情を投射し、その感情を対象からのものとして体験する作用=>empathy.

B:人間の表情や身振り、自然の景色、絵画・彫刻、楽器の音色などに接した時、その対象自体が何らかの感情を表出していると感じ理解すること。(俗には、自己の感情や思い入れを対象に投影させる意味に用いられる。)

である。なお、参考に、「同情」の意味(辞書A)を調べると、

「同情」:他人の悲しみや苦しみを、自分のことのようにともに感じること。かわいそうに思うこと。思いやり。

とある。

感情移入より始めよう。

先に、“相手の身になって”が感情移入のキーワードであると言った。Bでは感情移入の対象を人間まで広げているが、A, Bともに自然や芸術作品を主な対象に、自己を対象に投入することの心理学的な意味の説明をしている。つまり、心理学では、感情移入とはこうした対象のうちに自己の感情を投げ入れて、それによって、アリアリと対象の持つ感情、動作、作用などを把握する働きを言う。これらの辞書は明らかに美学を念頭に置いた心理学に依っているために、感情移入の焦点は(美的な)感情に当てられている。しかし、感情移入の概念自体は、むしろ近代社会を巡る議論に始まる。特に、A. スミスらによる道徳感情論は古くから知られている。スミスは「道徳感情論(*)」の冒頭、Sympathy(日本語訳:同感)について説明する中で、「我々は他の人々が感じることについて、直接の経験を持たないから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、我々自身が同様な境遇において何を感じるはずであるかを心に描くよりほかない」と述べ、例えば、ある受難者に同感する時、「観察者は彼として出来る限り、彼自身を相手の境遇におき、受難者に対して起きる可能性のある困難のあらゆる細かい事情を彼自身ハッキリ考えなければならない」とした。このようにスミスはSympathyを得るための基礎として“想像上の境遇の交換”があると言う。この“想像上の境遇の交換”は感情移入の概念と類似しているが、相手の感情に限らず、広く思考にも及ぶ。実際、社会学等では他者理解の方法として共感的理解(Empathic understanding)と呼ばれ広く利用されているようだ。

以上の議論を簡単にまとめれば、感情移入という概念は、もし自分がその人の立場であれば、きっとこうなるだろうという想像、あるいは、相手の中に自分の感情や考えを投入することによって、生まれる感情や思考である。

一方、共感についての国語辞典の説明は意外にシンプルである。双方比べても一見似たように見える。だが、共感の概念は微妙なところがある。基本的にA, B共に、他人の感情や考えと自分のそれを比べている。しかし、Aでは、他人の感情や考えに対し、“その通りだ”という、それを是とする評価をしているのは明らかだが、Bは、他人と自分が同じ感情や考えになると単に言っているようである。言い換えれば、Aでは、他人の考えや感情に対する良し・悪しの判断の方に重きが置かれている。ここで、国語辞典のマニアックな話になるけれど、「同情」という言葉と共感の関係に付言しておこう。Aの辞典で見られるように、共感の意味を、相手と同じ感情になるということから、その通りという判断に重点を移したことによって、古くから知られている(元来共感に含まれていた)相手が感じている悲しさ・苦しみなどの否定的感情と同じ感情になる意味を表す言葉が足りなくなった。「同情」という言葉はその不足を賄う役を担っているようだ。共感という言葉について、50種ほどの国語辞典を調べた研究によれば、共感には、元来「同情」があてられていたが、時代と共に、我が国では判断を重視する概念が強調されるようになったため、「共感」と言う言葉が使われるようになった。そうした概念の進化への対応が、辞書によって、同情と共感という別な言葉として使い分ける、あるいは共感という言葉に二つの意味を多義的に含ませる形式に分かれたようなのである。

図2.辞書はコトバの培地

上での議論を振り返えって、今回の本題、共感と感情移入の関係の問題を考えることにしよう。上での語の意味に関する議論から、「共感と感情移入は別の概念である」ことはほとんど明らかではないだろうか。端的な違いは、「共感は他人と自分、つまり人と人の間の関係を指すのに対し、感情移入は人に限らない他者と自分の関係を扱っている」と言って良いだろう。辞書のレベルで分かるこうした明かな違いを、何故同じように思うのか、むしろ不思議な気がしないだろうか。心理学事典によると、感情移入はEinfuehlungの日本語訳だが、一方Einfuehlungの英語訳はempathyであり、そこで与えられる日本語訳は共感になっているようだ。そこに、共感と感情移入が混同する原因の一つが認められる。しかし、そうした詳細に立ち入る余裕はないから、本題に戻り、ここで話をまとめることにしよう。

”共感”は人と人の間の関係に限られるということを文字通り受け入れれば、“感情移入”という手段によって”共感”できる相手は人間に限定されることになる。このように、問題の範囲を狭め、感情移入の対象を人間に制限した場合には、共感と感情移入の間には問題はないのだろうか。端的には、例えば、他人の悲しみなどの感情に触れた場合、感情移入によって、相手と同じ感情になることができるとのか、が問題になろう。こうし基本的な問題に対して、哲学はNOと言うのである。そのワケを一言で言えば、他人に自分の感情を投射しても、それは自分がこうだろうといった想像にすぎないからだ、と。言い換えれば、他人の自律的な思いを想像によって把握することは出来ないと言って良いかも知れない。

こうした議論から、共感と感情移入は別の概念として扱うべしと心理学や哲学は説くのである。共感は珍し現象なのだろうか、それとも誰でも経験しているありふれたことなのだろうか。共感の本質は何か、といった問題に繋がるを議論する予定であったが、錯綜する言葉のジャングルの中で、形式的な準備に誌幅を費やしてしまった。

共感については、近年ミラー・ニューロンの発見を契機に脳科学の議論が加わり、新たな局面が拓かれようとしているとも言われている。この続きは年を改めて行いたい。

長島 知正      2017-12-31

 

付記

(*)A. スミス著、水谷洋訳、道徳感情論(The Theory of Moral Sentiments)、岩波文庫(上、下)、2003年。

原書は1759年初版である。著者A. スミス(Adam Smith)は英国で始まった産業革命の時期に国富論を表して、個人の自由な競争による自由経済の思想をひろめ、経済学の父と呼ばれる。ある意味で現在の資本主義経済の礎を創った人物である。だが、彼はそうした経済学の専門家ではなく、道徳哲学の教授であり、国富論に先だって道徳哲学の講義をこの「道徳感情論」にまとめた。彼はその主題にSympathyのを置いた。近代西洋の経済面における自由と個人主義を説いた人物が、社会における道徳の原理的基礎を考えていた事になる。この辺りに何があるのか明らかなのだろうか。なお、Sympathy は水谷訳で同感と訳されているが、同書での同感は共感と同じとみなすことが多い。なお、共感には、哲学ではSympathy が使われるようだが、心理学では、SympathyもEmpathyも使われ、統一されていない。