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共感の視点(10)番外編

意識レベルと「感じる」ことの多義性

 

  • 緒言

自らのあるべき姿と信じた西欧の近代化の理念は、今日その限界を環境破壊という形で露わにし、皮肉にも地球自体の持続可能性が問われる事態に直面している。グローバル化が加速する現在、既成の社会モデルに解決の秘策を見出すのは難しいように思われる。とは言え、習慣化した日常生活を変えることは、重大な異変が身近に差し迫ったりしなければ一朝一夕できるものではないだろう。日常を変えることは容易ではないけれど、何もしなくてよいと考える人は少ないようだ。その上、出来る事から始めるという考えが、広まる気配が見えることも救いである。

 

西欧の近代化の歴史の中で感性の概念は生み出されただが、それは理性や知性に比べ、圧倒的に無視されてきた。その意味で、感性とは基本的な基盤が未だない、いわば手垢のついていない、新しい概念分野と言うことも出来る。

 

  • 感性というコトバの問題性

上で感性という言葉を使ったが、実際にはその意味は相当あいまいである。あいまいさが生まれる原因は細かく見れば多岐にわたるだろうが、大きく見て、深刻で基本的なのは次の事実ではなかろうか。

つまり、感性という言葉は、明治期に西欧の哲学用語として我が国に入ってきた。それは、 Sinnlichkeit、Aesthetik、あるいはSensibilite等の原語の翻訳語として導入さている。対応する原語が複数あり、初めから概念のズレがある点は注意を要することだが、ここではそこはスキップしよう。それとは別に問題を生むもう一つの要因がある。それは翻訳語として採用された“感性“は漢字表記の日本語であるという事情である。

 

感性と言うことばを聞いて、ある人は元来の西欧語の原語の概念に忠実に辿ろうとする。哲学に限らず専門的知識を持つ人はそういう考えを持つのではないか。しかし、新しい専門的概念相互の関係を把握するのは誰にとっても多くの時間や忍耐を要する作業だ。一方、漢字の意味から感性の内容を把握することは、多くの人にとって、漢文の素養が失われた現在でも容易にアクセスできる。その時、国語辞典を引くより先に、感性と言う言葉は「感じる」と「性質」という漢字の合成からなると人は理解するだろう。こうして、感性という言葉には二通りの基準による解釈が現在混在している。

 

これは感性と言う言葉に限られることではない。既に本コラムで指摘したが翻訳語による類似の問題は「共感」にも見られる。筆者は翻訳語が孕む、「意味の不可避的な不一致」を“翻訳不確定性“と呼んだ。こうした多くの輸入語を原理的に抱える分野では、専門家と一般の人の理解を一致させることは容易でない。その結果、意味の根を張れないままの語(概念)を抱えた学説が今日も彷徨っているように思われる。 我が国で思想的な基盤の形成や日常生活へ浸透が進まない事態は、こうして生まれているのではないか。こうした事情は、理系ではほとんど見過ごされている。

 

以下では、西欧で展開された感性の概念をいったん離れ、日本語の分析から「感じる」という性質がどのように捉えられるかを検討する。こうした方法は迂遠であるけれど、西欧の見方を見直す手がかりを与えるかも知れない。

 
  • 「感じる」ことの対象の多様性

「感じる」ということを議論する場合、まず挙げられるのは「見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう」という、古くから五感と呼ばれてきた“働き”であることが多い。これらの“働き“には、刺激を受容する特殊な感覚器に応じて、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という感覚の名前が与えられている。

図1.痛みを感じる

感じることは五感に留まるモノではない。そこには、生理学が追加した、身体に関わる、痛み、寒暖、飢えや渇きの感覚や平衡感覚など身体運動の感覚がある。

 

しかし、感性を考える上で、「感じる」カテゴリーが別にあることは本質的である。例えば、私たちは、身体と無関係に、幸せとか寂しさという“心で感じる“体験をするけれど、それは五感のような特殊感覚器で捉はえられないからだ。感性の対象とされる、美しさとか落ち着きという「感じ」もそのカテゴリーに入いる。

こうして、「感じる」ことの対象(内容)は大幅に広がるが、以下、具体例をすこし挙げてみよう。

 

“海辺の風が心地よく感じられる”

“(友人の死別に)底知れぬ寂しさを感じる”

“中秋の名月にさびしさを感じる”

“平穏な暮らしに幸せを感じる“

“イヤな雰囲気を感じる“

 

また、実在感、倫理感、高級感、責任感、倦怠感、焦燥感などのように、「感じる」という動詞が名詞化された「○○感」という表現も、何かを「感じる」対象に含めれば、「感じる」の語義は、私たちが関わる世界のあらゆる分野に及ぶように思われる。

このように、「感じる」ということばの意味は余りに多義的で、整理ができるか不安になる。だから、この上複雑化は避けたいけれど、広い視点に立つことは無駄ではないはずだ。その意味で、上述した対象の多様性とは別に、“意識レベル”がもう一つの基準になることに注目しよう。つまり、同じ対象からの刺激であっても、意識レベルが違う時、感じ方は異なってくる、という事である。

 

私たちは何か必要な仕事に取り組んでいる場合、自分の意識を対象に向け、注意を集中する。しかし、疲れて、ぼんやりしていれば、どんなに美しいモノや価値あるモノが近くにあっても、それがなんであるかも気づかない。そうした低い意識レベルでは、眼前の鮮やかな赤いバラも、せいぜい、そこに何か赤い色のぼんやりしたかたまりが見えるだけだろう。

 

図2.赤いバラ

このように、一般に意識レベルが低くなれば、知覚はあいまいになり、その結果正しい判断は困難になる。

 

  • 「感じる」というコトバが指し示す多重性

「感じる」という働きの典型が五感にあると考えるのは理系の人に多いようだ。そう考える人には、意識は科学で扱うことが出来ないという理由から、意識に関わる議論を避ける傾向があるのではないだろうか。しかし、既に述べたように、「感じる」ことは五感の感覚に留まる働きではなく、典型とも言えない。つまり、個別的な感覚器を介して「刺激」を感じる感覚とは別に、こころ(精神)で感じる、という質的に異なる「感じ」があるからだ。と言っても、「感じる」ことを、あくまで感覚器の働き(Sense)と結びつける人は、「心で感じる」とは何か、にひっかかるのではないか。

 

それをクリアする伝統的な方法に、「心で感じる」をメタファーとする考え方がある。例えば、(恋人の)「甘いささやき」は、恋人の声(ささやき)があたかも蜂蜜のように甘い感じがする、と解釈するのである。

言い換えれば、「こころで感じる」とは、「こころ(精神)が、比喩として「感じる」という感覚器の働きをする」という訳である。メタファーは近年認知科学分野で見直されているとはいえ、詩的世界で発展させられた典型的方法だから、理系では拒否反応は未だ強く残っているに違いない。しかし、「こころで感じる」、あるいは「感じる精神」ということばが特別な響きをもって聞こえるとすれば、それは、理性にのみ関心を払ってきた経験がもたらしたものだ。

 

冒頭述べたように、感性は「感じる」という性質を意味している。従って、感性の性質を感覚あるいは知覚と関連付けることが今後の課題と言えるが、見方を換えれば、その作業はメタファー表現の代わりを探ることに対応している。感覚と知覚の関係がそこでカギになるかも知れない。

 

確かに、感覚と知覚は区別がつきにくく、関係はあいまいにされている。例えば、「感覚は知覚より要素的で、それだけでは意味が定まらない」という説など代表的なモノだろう。渡辺慧先生は感覚と知覚の関係の例として、郭公(かっこう)の鳴き声を挙げ、「カッ」や「コー」では分からないが、異なる高さの音が一つになった「カッコー」なら、それが郭公と分かるではないかと言われた。これは、知覚では要素と全体の関係が重要なことを示す良い例であるが、他方、感覚が知覚と切り離せるという印象も与える。

 

感覚・知覚と意識レベルの議論に進もう。

例として、指先を針で刺す場面を考えよう。鋭利な針先が指の表面に触れるや否や、その人は痛みを「感じる」。針は、更に指の皮膚組織を侵襲するのだから、身体に痛みを感じるのは当然だろう。しかし、人が指先に感じるこうした痛みは感覚と言うより知覚と呼ぶべきである。

その痛みは、「鋭利な針がどんどん指先に近づき、身体表面の皮膚を破って、中に突き刺さる」と言う状況にある当事者が「感じた」ものであり、決して痛点の刺激に対する純粋な感覚(印象)ではないからである。痛みとして当事者に実際に感じられる「感じ」は、その状況に関わる視覚や触覚等の感覚の影響が総合された知覚と考えられる。言い換えれば、日常の経験では、「感覚は知覚と切り離せない」、あるいは、「知覚と切り離された感覚はない」のである。

 

覚醒した意識は、このように痛みの感覚を実際に感じる(知覚する)ために必要であるが、その上、感覚作用自体を感覚すること、つまり感覚の自己意識も必要である。

感覚の自己意識と感覚・知覚の関係の議論には少し飛躍があるようだ。以下、アリストテレスによる「共通感覚」を掘り起こし、自らの共通感覚論を発展させた中村雄二郎の議論を借りて、その間を埋めてみよう。

 

アリストテレスによれば、人間の感覚には、五感や痛みのような個別の特殊感覚とは別に、それらに共通する感覚(共通感覚)が存在するが、共通感覚の働きの一つに、個別感覚それ自体を感じる能力がある。

 

上の考えを痛みの議論に当てはめれば、痛そうな振る舞いや痛みに伴う神経活動が認められたとしても、痛みそのものを人が感じているとは言えない。痛みの感覚が、実際痛みとして感じられるには、更に痛みの感覚自体を感じる感覚(知覚の働き)が必要である。アリストテレスは、こうした個別の感覚自体を感じる働きが共通感覚にあることを指摘したのである。

 

アリストテレスの共通感覚には、感覚と知覚を結びつける重要な性質が含まれている。つまり、共通感覚は、五感のような個別の感覚相互を関係づけ、統一してまとめあげるという働きや感覚自身を感じる働きに見られるように、感覚でありながら、(知覚に必要な)知的な働きを既に含んでいるのである。

言い換えると、感覚と知覚は互いに切り離されているのではなく、共通感覚の働きに、感覚と知覚(を含む知性)の繋がりの起源が認められると言う事になる。

 

  • 結語

これまで議論した知覚と感覚の関係の要点は、意識レベルを介して知覚と感覚が関係づけられているということだ。ここで、その関係の基本になる、知覚の意識レベルが無意識に近くなった時、顕著に現れるのが感覚であるという見方を纏めておこう:

無意識に近い状態では、意識の志向性を失った知覚は、はっきりした感覚的な感じ(感覚印象)をなくし、おぼろげになるだろう。

しかしそのような場合であっても、生命を維持する仕組みによって、身体には、「感じる」という感覚は残される。そうした一つに反射がある。反射は、意識と無関係に、外から感覚器官に与えられた刺激に一定の筋肉活動を起こす。また、極端な話だが、大怪我で意識を失った時など、瞳孔検査で、光の明暗を感じるか調べる。

この場合、目の感覚反応で調べていることは、意識を失って、何も感じられなくなった(知覚できなくなった)人の目が光を感じる(感覚)かである。

この事例で明らかなことは、同じ「感じる」ということばの語義の二義性である。つまり、“感じられない”(知覚していない)一方で、“感じている”(感覚している)、という一見矛盾する事態が起きている。このように、同じ“感じる”という言葉を使用することに、感覚と知覚の混同をおこす起源があるのではないだろうか。これが、今回の一つの結論である。

 

上で、視覚に関して、無意識に近い意識レベルの知覚と感覚の関係を述べたので、以下、覚醒時の知覚と感覚の関係を補足して本稿を終えよう。

覚醒して、何か外部のモノを見る時、感覚器の目は光を受容し視神経に信号を伝えるが、通常、目が特に何かを感じることは無い。知覚する(“見えている”と感じる)のは目でなく、精神(脳)であるが、意識の志向性によって、外部にある対象を感じることになる。

 

本稿では視覚や痛覚について、意識レベルを介して感覚と知覚の関係は結びつき、意識レベルによって互いの関係が変わることを示した。しかし、感覚は何を感じているのか、また、それをことばで表現できるか等、感覚と知覚について検討すべき課題は少なくない。

 

 

長島 知正    2019-07-31