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共感の視点(8)

共感の視点(8):岡本太郎の感性と感動

 

  • 緒言

 時代劇大河ドラマなどを書いた作家堺屋太一が元通産官僚で、団塊の世代といった言葉を造り、1970年大阪万博のプロデュースしたことは良く知られている。日本人にはめずらしい多才ぶりを発揮した堺屋だが、結局のところ彼の関心は戦後社会のいく末だったのではなかろうか。とは言えここで、彼の追悼をしようと言うのではない。

大阪万博のシンボル“太陽の塔”を創ったのは岡本太郎であるが、その岡本の感性を取り上げたいのである。岡本太郎はテレビ全盛の時代、TVにしばしば出演し、目をむき顔を紅潮させて“芸術は爆発だ“などと叫んでいたことを記憶している人もいるだろう。

 

岡本はわが国のおける前衛芸術の第一人者とも言われていたが、大阪万博のあの”太陽の塔“は岡本の芸術思想を体現したものであろう。巨大なエリマキトカゲが両手を広げて立っているようなあの塔は、確かに”美しくない“印象を与える。堺屋は2025年の万博開催に意欲を示していたが、2度目の敗戦を経験しているともされる現在、どんな未来を描こうとしていたのだろう。

 

1996年に没した岡本が活躍した時代は戦後の経済発展の時期にも重なっている。我が国経済の盛衰については多くの議論がある。他方、その時代の芸術活動は、多くの人たちが親しみを持つ近代の絵画や音楽とは異質な方向に向かい、“現代芸術”に移り出した変化が話題にされることはほとんどない。一般に、絵画にかぎらず、現代芸術は難解で近寄りがたくて、敬遠したいという気持ちがあるからだろう。それは、筆者を含め多くの人が待つ率直な印象でないだろうか。

幸いなことに、現代美術の批評家による一般向けのエッセイを偶然目にした。以下では、そこに登場する岡本太郎を手掛かりに、現代の芸術で感性や”感動“がどう捉えられているか一考したい。

 

 

  • 現代芸術:“美しくない”美術・音楽

 とは言え、美術評論家は口をそろえて芸術に知識など全く不要だ、と説く。とすれば、ここで本コラムも閉じざるをえなくなる。だが、人によっては、何か新しいことを始めるには、動機づけがなければならないと考えることもあるだろう。また、このコラムで現代芸術を正しく理解をしようなどと考える人はいないはずだから、肩ひじはらず思いつくことを記すことにしよう。

 

フェルメールの展覧会などには、長蛇の列ができるほど大勢の人がおしかける事だろう。また、モーツァルトをはじめとするクラシック音楽を好む人も少なくない。多くの人に親しみを待たれているのは、19世紀に頂点を迎える近代西欧の絵画や音楽のようだ。ところで、そうした西欧近代の芸術(絵画や音楽)と20世紀(後半)からの現代芸術と比べた場合、難しい芸術論などに頼るまでもなく、そこに誰でも感じるような大きな変化があることに気づくだろう。

まず挙げられるのは、芸術作品から“美しい“と言う基軸が失われたことだ。つまり、美術に限らず音楽などでも、20世紀(以降)の芸術では”美しくない“作品が前面に現れてきたことが顕著な特徴だ。良く知られるように、デュシャンの「泉」(1917年)はそうした芸術における変化の象徴である。

 

図1.便器をいくら磨いても芸術家にはなれない。

 

「泉」はデュシャンが陶器製の便器を美術展の展示会場に作品として陳列して話題になった。もちろん、その便器が特に美しいというのではない。それは出来合いのモノだとどこかで読んだ記憶がある。“何のために、こんな作品を美術展覧会にわざわざ出展したか?”と誰しも思う。

デュシャンの狙いは見事に的を射た。彼の出展の意図はまさ“そこ”、つまり、美を中心とする芸術に対する近代芸術の枠組みを揺さぶり、既存の芸術観に衝撃を与えることだったのである。

 

様々な挑発的な言動で知られた岡本太郎もまた現代芸術のチャレンジーであった。

彼は、芸術について、

「芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」

といって言っている。

 

デュシャンの「泉」は美術史上の大事件で、その影響は“美を中心としない芸術作品”の登場という現象だけに留まらない。ここでは、筆者の関心からその一端に触れたい。

上述したように、現代芸術で作品の中心から美が外された。それに伴い、“美しくない芸術”において、近代の美学(Esthetics)で展開された、美は如何に把握されるか”に関わる“美の無関心性”などの審美的(Esthetic)な概念は意味を失わざるをえない。そこで新たに、「“美しくない“現代芸術”のために、”美しい“に代わって何を埋めるべきか」が主要な課題として問われている。

その課題についての模索は今日も続いているはずだが、

「芸術作品がよって立つ根拠は、“見る人の心を揺さぶること”」

という答えは大変もっともらしく聞こえる。

 

 

  • “感性は感動しない?“

 本題「現代芸術における感性と感動」に移ろう。といっても、筆者にできるのは、そのさわりのサワリに触れるだけである。ここでは、岡本太郎の感性に注目した“感性は感動しない“(椹木野衣著、世界思想社)というエッセイを取り上げよう。その冒頭、岡本太郎による次の文が紹介されている:

 

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性と言うのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。」

「感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。」

「自分自身をいろいろな条件にぶつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。」

 

この短い文章には、感性について、岡本太郎の決して論理的ではない彼独特の表現が与えられている。椹木は“感性は感動しない”というエッセイでその岡本の表現に解釈を与えている。美術批評家の書いた文章に慣れない筆者には、タイトル「感性は感動しない」から易しくないのだが、以下そのあらましをかいつまんでみよう:

 

そもそも感性は実体がないから、それは磨きようがない。にもかかわらず、しばしば感性を磨くと言うのは、どうしてなのか。磨くと言うのは、感性自身ではなく、感性に関わりのある“技”や“知識“を指しているからではないのか。芸能やスポーツでは、技がなければ見られないことは確かで、そのために修行は絶対条件である。

 

だが、芸能と芸術の区別はあいまいにされていないか。芸術には技術より感性が圧倒的に必要なのである。椹木によれば、ここには「芸術は教育できるのか」という根源的問題がある。

図2.良い絵とは?

 

そもそも、「よい絵とか、すぐれた美術作品とはどんなものだろう」。

芸術が作品として成り立つ条件は、「見る人の心を動かすものにほかならない」。「見る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる」。「一枚の絵が何故か頭から離れない」等である。

これは良い。

つまり、芸術作品は、見る人がいてもたってもいられなくなるように心をゆする。だが、こうした芸術が生み出す現象を、しばしば感動と言う言葉でひとくくりにして分かったつもりになってしまう。ここに誤解の根がある。感動は芸術にとって諸悪の根源なのだ。感動ということばによって済ませようとした瞬間、作家がどれだけ絵を描くために努力をしたか、という苦労物語が首をもたげる。

 

そのための血のにじむような修行を考えると、感動しなければならない、と思ってしまうのである。もっと、勉強して感性を磨かねばならない。ここには、「芸術に感動できるのは、優れた感性の持ち主であり、ゆえに、作品に込められた高い技芸や複雑な歴史を読み解く優れた感性を持つ」という偏見がある。

 

しかし、芸術作品における感動では、作品の技や背景知識は鑑賞の助けにはなっても、本当にこころが動かされるとは限らない。むしろ、それが、邪魔をして目の前の絵に感性が届かない、という事も起きるからだ。その上、どんな絵に心をゆすられ、感動するかは、結局のところその人にしか分からない。

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の”こころの自由”にある。感性の根拠はその人がその人であるということ、それだけである。つまり、芸術は、従ってそれを感じる感性も教育できない。岡本太郎の感性とはこういう生の手触りを感じるモノだ、と椹木は言う。

 

 

4.感性の現在:宙づりの感性

 以上が、エッセイ「感性は感動しない」のあらまし、というより、かなり筆者の理解を加えたまとめである。実は、このエッセイには驚かされた。「感性は感動しない」と言うタイトルの”語彙矛盾”が気になって仕方なかったのだが、そのエッセイが発表された年の大学入試で、26校もの入試問題に採用され、現在も高校の教科書に採用されていると書かれていたからだ。

だが、ある大学の入試問題を当の著者が実際に解いた結果、正解は半分しかなかったとあってまた驚いた。正直言うと、これで、入試はどうやっているのだろう、などと余計なことを考えてしまったのである。どこからか「正解は一つに限らないのは常識!なんで驚くの?」という声が聞こえる。「うーん!」。こんなことでは、我ながらこの先心もとないなあ。

 

 

それはともかく、本コラムをとりあえずまとめよう。

まず、岡本太郎の感性を通じて、現代芸術の一端に触れたこのエッセイから筆者が何を学んだか述べておこう:

「人が何に感動するかは、その人その人違うものだ。芸術には、その人の心の中で眠って押さえつけられていた、何かに気づき、それを解放するきっかけがあればよい。」

という指摘である。これは、かなり重要なことではないだろうか。

何となれば、この指摘は、現代芸術が人の心理の深層に横たわる無意識に働きかけを持ち得ることを意味しているからだ。芸術が言葉を超えているとされる所以(ゆえん)だろう。

図3.不安

 

その一方、岡本太郎の現代的芸術観を通して浮き彫りになった重要な点は、美を中軸とした近代の芸術と現代の芸術の質的な違いが明らかにされたことだ。

つまり、西欧近代における美的な感性は、美を趣味(センス)の延長上に捉える鑑賞者の精神にあり、基本的に鑑賞者の情や人間の身体とは直接関わらない、とされる。他方、上述した岡本の感性に見られたように、芸術における感性は作品を見る者の身体全体を貫き、心身をゆすぶるものだ。

ここには分裂した感性の姿がある。その分裂の溝は深く、感性はさまようしかない。これが人間の感性の衰えを加速している要因の一つではないか。

 

なお、上の問題には、「美術(芸術)作品は鑑賞する対象から、理解(解釈)するモノに変わった。」

と言われる一般的背景があることも付け加えておきたい。

筆者はその分裂に架橋することはこのサイトの課題と考えているが、芸術や感性に関わる従来の議論に、理系の視点から加えるべき事がないか、椹木のエッセイにある芸術の感性に対する検討とともに、稿を改めて考察したい。

 

いずれにせよ、芸術は現実の社会に先駆けて変化してきたという面は見落とされがちである。私たちは現代にいたるまで時代と共に性格を変えてきた芸術の持つ役割を考え直す時ではないか。世界規模で既成の体制が大きく揺らぐ現在、社会全体で問われている課題と思うのである。

 

 

長島 知正   (2019-02-24、加筆修正;03-12)

  付記:

椹木によると、感性とは人間の自由にしか根拠をもたない。にもかかわらず、そこを誤解して、人は安易に、感性の根拠を自分の中にではなく、作品や作家の側に手渡してしまう。そこから感動が変質し、作品の技や作品の知識など分かりやすい理由に頼るのだ、と言う。

 

なるほどと思うが、この解釈を受け入れるとして、何故、見る人はそうしてしまうのか、が問題になろう。その理由は大切なポイントと思うのだが、エッセイに記述はない。ここで補うことにしよう。

筆者による理由は、「人間は一人でいることが”不安”だから」というものである。

つまり、人間はそうした不安をもっているから、安易に芸術作品の根拠を、それを受け止める側から、作品や作者の側に渡してしまうということではないのだろうか。

 

 

 

 

 

共感の視点(7)

共感の視点(7):二つの感受性と感動(共感)

  

○紅葉を巡る二つの感受性

秋も深まると日本列島は紅葉の季節を迎える。台風の影響で今年の紅葉は色づきが心配されたが、筆者の居宅の周りの野山も、緑色の広葉樹を背景に赤や黄色の固まりがあちこち点在して、目を楽しませてくれた。“観楓会”というコトバがあるわが国には、楓(カエデ)やイチョウの紅(黄)葉をめでに近隣の名所に出かける風習がある。この風習が古くからあることは詩歌に読まれていることから想像がつくが、これはわが国固有の文化なのだろうか?

 

紅葉を楽しみにしている人は多い。実際、散る前のイチョウは、当たり一面を鮮やかな黄色に染め上げ感動的と言えるものがある。人が感じる紅葉の美しさや感動は共感と関係があるのだろうか。ここでは、そこに通底する”感受性”から、そうした問題を考えてみたい。ただし、感受性には2種類の異なった性質があり得ることに注意したい。異なる感受性に着目する理由は、わが国ではそれが文科系と理科系で考える基本的内容を決めているように見えるからである。言い換えれば、その感受性の違いが文系・理系それぞれの文化圏を分ける一つの境界線をなしていると思われるのだ。

 

後で述べるように、秋の樹々の紅(黄)葉は葉に含まれる色素が示す感受性に依っている。通常、それは紅葉を美しいと感じる感受性に影響することはない。だが、落葉前の特別鮮やかな紅葉に感動を覚える時、そこに二つの感受性の間に相関があることは無いだろうか。その可能性を考えてみたい。

 

 

○感受性とは何か

明治期にヨーロッパから入ってきた多くのコトバと同様に、“感受性”も西欧から輸入された翻訳語であり、原語との対応にあいまいさや誤解のタネも潜んでいる。

とは言え、私たちにとって感受性は極めて大切なコトバである。誰でもこの世に生れ落ちて以来、何かを“感じない”日はなかったはずだからである。というよりむしろ、何も感じないことを考える方が難しい。“感じる“ことは、それほど私たちの日常活動に広範に関わっている。

だがいつしか、こうした広範な感じる能力には、学校で”感受性“というコトバがあてがわれ、限定的な使い方をされるようになる。そこに、わが国に顕著に見られる理系、文系の区分けの始まりがあるのではないか、これが今回の話の肝である。

 

ところで、感じる能力=感受性が大切という理由とは何なのか。とりわけ理科系の人には、異なった感受性に立ち入る前に、それを明らかにする必要があるだろう。端的に言うと、感じること=感受性が重要なのは、気づく”こと、つまり“気づき”との繋がりを与えるからである。感じることは意識にのぼった“しるし”(知らせ)だから、(そればかりではないが、)気づくことに欠かせないのだ。

これは、科学、芸術の別を問わずに必要とされることではないのか、という事が大切なのである。自然科学では、ニュートンやアインシュタインのような天才の発見した法則が教えられる。しかし、彼らがどのようにして発見をしたかは、普通立ちいらない。未解明とは言え、確かなことがない訳ではない。彼らは気づいたのである。気づくことが、今まで見過ごされていたことを発見することに他ならないのである。

 

 

理科系や情報系の人にとって親しみやすい感受性は、いわゆる五感を介した認知的活動を対象にしたものだろう。が、人間の感じることが、それらに限られることはない。美しいという感覚を含む広い意味の感性や幸せ、愛などである。言うまでもなく、これらはどれも人として欠かせないものだが、いわゆる五感で感じる訳ではない。

国語辞典では、これらを対象に感受性の意味を説明している。感受性の語義は明確に定まっていないようだが、とりあえず、手元の国語辞典で感受性(感受)を引くと、

 

A)(三省堂新明快国語辞典)

感受:外界の刺激や置かれた状況などを、主体が抵抗のない形で受け入れる事。

感受性:(既成観念にとらわれず)外界からの刺激に敏感に反応することが出来る心の働き。

B)(集英社国語辞典)

外からの刺激を受け入れること、また、その刺激を受けとめ感動を起こす心の働き。

感性。

とある。

 

図1.紅葉する森

 

国語辞典によって語義にズレはあるにしても、感受性とは外界からの刺激に対して、それを受けとめ、あるいはそれに応答、反応するこころの働きである。

秋の季節、野山の広葉樹の色づきの鮮やかな変化を楽しめるのは、こうした感じる精神=感受性による。だが、こころの働き=感受性を扱うことは文系の問題と見做され、理系では従来ほとんど扱われてこなかった。これはどこかおかしくないか。情報化の時代に生き残るには、こうした枠組を組み替える必要があると思うのである。

 

○二種類の感受性

文系の人が編纂しているせいか、感受性には、国語辞典に普通現れないもう一つ大きな対象がある。そうしたものに、無意識のうちに起きる、外部刺激に対する生理的な応答・反応がある。

 

辞書のみならず事典でもある広辞苑から、少し事情を覗いてみよう。広辞苑では感受性について以下のように記述している:

  1. 外界の印象を受け入れる能力。物を感じとる力。感性。
  2. 生物体において、環境から刺激、特に薬剤や病原体により感覚または反応を誘発され得る性質。受容性。

 

つまり、感受性とは、1 のこころの働きとは別に、2 で、生体(身体)が外界からの刺激に対して反応 する能力とした訳だ。

 

しかし、外界からの刺激に対して反応することは生体に限られない。ここで、生体の反応に限定する必要はあるのだろうか。磁石は磁場を感じて北極方向を向き、あるいは外から叩かれた机は音を出す。これらから察せられることだが、感受性を生体に限定するのは最近の事で、古来“外からの刺激に応じて材料や物質が示す応答ないし反応”、つまり、一般に物体の属性という意味を込めて把握していたのではないか。言い方をかえれば、感受性には、元来物質の属性と言う意味もあったが、時代の経過と共に、広辞苑に見られるように、もっぱら生体の反応や人間のこころの反応を指すように変化していったのではないだろうか。いずれにせよ、本コラムでは感受性を、人間や生体に限定しない“広義の感受性”を指している。

 

私たちは紅葉を美しいと感じるが、紅葉の色づきはどのように作られるのだろう。夏に葉が青々と繁るのは光合成によって葉緑素が盛んに作られるからだ。秋の深まりと共に、樹々の葉は緑から黄や赤に色づきを変えやがて落葉する。

紅(黄)葉のメカニズムはとうに分かっていると思っていたが、どうもまだ解明されていないらしい。ここでも、落葉する前に見られる、緑から黄色や赤に変わる紅葉(黄葉)は、秋に温度が下がり、葉の細胞内の葉緑素(クロロフィル)が分解して、代わりに潜んでいた黄色の色素カロテノイドが露わになる、あるいはアントシアンという赤の色素が増加する、という基本的事実に留めよう。

ここで、例えば、夏の光の下で産生されていた葉緑素が、秋の深まりと共に葉緑素は分解され、代わってカロテノイドが顕在化する黄葉の過程を、別の言葉で言えば、光に対する細胞の応答(感受性)が変化したと見ることが出来るだろう。このように、紅葉は、広い意味で、細胞中の物質レベルの感受性の変化に依っていると言えよう。

図2.楓とイチョウ

 

○二つの感受性と感動(共感)

紅葉はそうした物質的な仕組みで起きる自然現象である。それに関連した仕事をする人は更に詳細なメカニズムが解明されるまで、追及するに違いない。しかし、それは、紅葉の美しさとは別のものだろう。紅葉を美しいと思うのは私たちの(主体的な)こころの感受性に多くを依っているからだ。とは言え、私たちは紅葉の美しさをどのように、またいつ知るのだろう。エッセイストなら、“はらはらと舞い落ちる紅葉のうちに、紅葉の美しさがこころの働きであること知る”、と言うかも知れない。

エッセイとしてなら、上の文言でこの二つの感受性の物語を終えても良い。だが、哲学の名を掲げたサイトである以上、ここで、その文言には ”精神(こころ)と自然は別々にある”、言い換えれば、”自然は(私の)こころの外にある”という典型的な姿が見られることを指摘しておかねばなるまい。

 

これまで、感受性を大きく二つに分け、物質レベルの感受性とこころの感受性を取り上げてきた。

青々と見える夏の広葉樹は盛んに葉緑素が作られているからだが、普通そうしたことを私たちは気づくことはない。このように、私たちは他者の生命活動を維持しているミクロな装置の働きを感じることも、その機能を自らの思うように制御することも出来ない。他方、私たちは、そうした自然の過程がどうあれ、全く無頓着に、夏の樹々の青々としたみずみずしさや秋の紅葉の美しさを思う。つまりここに、こころの感受性と(他者の)生命に関わるミクロな物質の感受性は独立に働いている、という常識がある。

 

秋が深まると、紅葉が私たちを楽しませる。だが、そうした紅葉が落葉を迎える直前、葉の色づきはただならぬ輝きを見せる事がある。私たちがこころを動かし、感動するのは、落葉という生命体の一大事の中で分子レベルで起きる大変化に、何かを感じ、二つの感受性に直接的な繋がりが生じるからではないだろうか。

その仕組みの説明は現在の自然科学を超えているが、感動という現象が起きる時、人間の感情あるいは感覚は対象の側の感受性と一体化し、共鳴しているのかも知れない。

散り際の紅葉が一時見せる姿に、単に美しいという印象を超え、「あ~っ」と感嘆をもらす理由はそこにあるのではないだろうか。

 

なお、感動(共感)という表記をしたが、感動は共感と同じではない。その間の議論については、次回に回すことにしたい。

 

長島 知正   2018-12-08

(訂正;12-10、加筆;2019-01-02)