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共感の視点(7)

共感の視点(7):二つの感受性と感動(共感)

  

○紅葉を巡る二つの感受性

秋も深まると日本列島は紅葉の季節を迎える。台風の影響で今年の紅葉は色づきが心配されたが、筆者の居宅の周りの野山も、緑色の広葉樹を背景に赤や黄色の固まりがあちこち点在して、目を楽しませてくれた。“観楓会”というコトバがあるわが国には、楓(カエデ)やイチョウの紅(黄)葉をめでに近隣の名所に出かける風習がある。この風習が古くからあることは詩歌に読まれていることから想像がつくが、これはわが国固有の文化なのだろうか?

 

紅葉を楽しみにしている人は多い。実際、散る前のイチョウは、当たり一面を鮮やかな黄色に染め上げ感動的と言えるものがある。人が感じる紅葉の美しさや感動は共感と関係があるのだろうか。ここでは、そこに通底する”感受性”から、そうした問題を考えてみたい。ただし、感受性には2種類の異なった性質があり得ることに注意したい。異なる感受性に着目する理由は、わが国ではそれが文科系と理科系で考える基本的内容を決めているように見えるからである。言い換えれば、その感受性の違いが文系・理系それぞれの文化圏を分ける一つの境界線をなしていると思われるのだ。

 

後で述べるように、秋の樹々の紅(黄)葉は葉に含まれる色素が示す感受性に依っている。通常、それは紅葉を美しいと感じる感受性に影響することはない。だが、落葉前の特別鮮やかな紅葉に感動を覚える時、そこに二つの感受性の間に相関があることは無いだろうか。その可能性を考えてみたい。

 

 

○感受性とは何か

明治期にヨーロッパから入ってきた多くのコトバと同様に、“感受性”も西欧から輸入された翻訳語であり、原語との対応にあいまいさや誤解のタネも潜んでいる。

とは言え、私たちにとって感受性は極めて大切なコトバである。誰でもこの世に生れ落ちて以来、何かを“感じない”日はなかったはずだからである。というよりむしろ、何も感じないことを考える方が難しい。“感じる“ことは、それほど私たちの日常活動に広範に関わっている。

だがいつしか、こうした広範な感じる能力には、学校で”感受性“というコトバがあてがわれ、限定的な使い方をされるようになる。そこに、わが国に顕著に見られる理系、文系の区分けの始まりがあるのではないか、これが今回の話の肝である。

 

ところで、感じる能力=感受性が大切という理由とは何なのか。とりわけ理科系の人には、異なった感受性に立ち入る前に、それを明らかにする必要があるだろう。端的に言うと、感じること=感受性が重要なのは、気づく”こと、つまり“気づき”との繋がりを与えるからである。感じることは意識にのぼった“しるし”(知らせ)だから、(そればかりではないが、)気づくことに欠かせないのだ。

これは、科学、芸術の別を問わずに必要とされることではないのか、という事が大切なのである。自然科学では、ニュートンやアインシュタインのような天才の発見した法則が教えられる。しかし、彼らがどのようにして発見をしたかは、普通立ちいらない。未解明とは言え、確かなことがない訳ではない。彼らは気づいたのである。気づくことが、今まで見過ごされていたことを発見することに他ならないのである。

 

 

理科系や情報系の人にとって親しみやすい感受性は、いわゆる五感を介した認知的活動を対象にしたものだろう。が、人間の感じることが、それらに限られることはない。美しいという感覚を含む広い意味の感性や幸せ、愛などである。言うまでもなく、これらはどれも人として欠かせないものだが、いわゆる五感で感じる訳ではない。

国語辞典では、これらを対象に感受性の意味を説明している。感受性の語義は明確に定まっていないようだが、とりあえず、手元の国語辞典で感受性(感受)を引くと、

 

A)(三省堂新明快国語辞典)

感受:外界の刺激や置かれた状況などを、主体が抵抗のない形で受け入れる事。

感受性:(既成観念にとらわれず)外界からの刺激に敏感に反応することが出来る心の働き。

B)(集英社国語辞典)

外からの刺激を受け入れること、また、その刺激を受けとめ感動を起こす心の働き。

感性。

とある。

 

図1.紅葉する森

 

国語辞典によって語義にズレはあるにしても、感受性とは外界からの刺激に対して、それを受けとめ、あるいはそれに応答、反応するこころの働きである。

秋の季節、野山の広葉樹の色づきの鮮やかな変化を楽しめるのは、こうした感じる精神=感受性による。だが、こころの働き=感受性を扱うことは文系の問題と見做され、理系では従来ほとんど扱われてこなかった。これはどこかおかしくないか。情報化の時代に生き残るには、こうした枠組を組み替える必要があると思うのである。

 

○二種類の感受性

文系の人が編纂しているせいか、感受性には、国語辞典に普通現れないもう一つ大きな対象がある。そうしたものに、無意識のうちに起きる、外部刺激に対する生理的な応答・反応がある。

 

辞書のみならず事典でもある広辞苑から、少し事情を覗いてみよう。広辞苑では感受性について以下のように記述している:

  1. 外界の印象を受け入れる能力。物を感じとる力。感性。
  2. 生物体において、環境から刺激、特に薬剤や病原体により感覚または反応を誘発され得る性質。受容性。

 

つまり、感受性とは、1 のこころの働きとは別に、2 で、生体(身体)が外界からの刺激に対して反応 する能力とした訳だ。

 

しかし、外界からの刺激に対して反応することは生体に限られない。ここで、生体の反応に限定する必要はあるのだろうか。磁石は磁場を感じて北極方向を向き、あるいは外から叩かれた机は音を出す。これらから察せられることだが、感受性を生体に限定するのは最近の事で、古来“外からの刺激に応じて材料や物質が示す応答ないし反応”、つまり、一般に物体の属性という意味を込めて把握していたのではないか。言い方をかえれば、感受性には、元来物質の属性と言う意味もあったが、時代の経過と共に、広辞苑に見られるように、もっぱら生体の反応や人間のこころの反応を指すように変化していったのではないだろうか。いずれにせよ、本コラムでは感受性を、人間や生体に限定しない“広義の感受性”を指している。

 

私たちは紅葉を美しいと感じるが、紅葉の色づきはどのように作られるのだろう。夏に葉が青々と繁るのは光合成によって葉緑素が盛んに作られるからだ。秋の深まりと共に、樹々の葉は緑から黄や赤に色づきを変えやがて落葉する。

紅(黄)葉のメカニズムはとうに分かっていると思っていたが、どうもまだ解明されていないらしい。ここでも、落葉する前に見られる、緑から黄色や赤に変わる紅葉(黄葉)は、秋に温度が下がり、葉の細胞内の葉緑素(クロロフィル)が分解して、代わりに潜んでいた黄色の色素カロテノイドが露わになる、あるいはアントシアンという赤の色素が増加する、という基本的事実に留めよう。

ここで、例えば、夏の光の下で産生されていた葉緑素が、秋の深まりと共に葉緑素は分解され、代わってカロテノイドが顕在化する黄葉の過程を、別の言葉で言えば、光に対する細胞の応答(感受性)が変化したと見ることが出来るだろう。このように、紅葉は、広い意味で、細胞中の物質レベルの感受性の変化に依っていると言えよう。

図2.楓とイチョウ

 

○二つの感受性と感動(共感)

紅葉はそうした物質的な仕組みで起きる自然現象である。それに関連した仕事をする人は更に詳細なメカニズムが解明されるまで、追及するに違いない。しかし、それは、紅葉の美しさとは別のものだろう。紅葉を美しいと思うのは私たちの(主体的な)こころの感受性に多くを依っているからだ。とは言え、私たちは紅葉の美しさをどのように、またいつ知るのだろう。エッセイストなら、“はらはらと舞い落ちる紅葉のうちに、紅葉の美しさがこころの働きであること知る”、と言うかも知れない。

エッセイとしてなら、上の文言でこの二つの感受性の物語を終えても良い。だが、哲学の名を掲げたサイトである以上、ここで、その文言には ”精神(こころ)と自然は別々にある”、言い換えれば、”自然は(私の)こころの外にある”という典型的な姿が見られることを指摘しておかねばなるまい。

 

これまで、感受性を大きく二つに分け、物質レベルの感受性とこころの感受性を取り上げてきた。

青々と見える夏の広葉樹は盛んに葉緑素が作られているからだが、普通そうしたことを私たちは気づくことはない。このように、私たちは他者の生命活動を維持しているミクロな装置の働きを感じることも、その機能を自らの思うように制御することも出来ない。他方、私たちは、そうした自然の過程がどうあれ、全く無頓着に、夏の樹々の青々としたみずみずしさや秋の紅葉の美しさを思う。つまりここに、こころの感受性と(他者の)生命に関わるミクロな物質の感受性は独立に働いている、という常識がある。

 

秋が深まると、紅葉が私たちを楽しませる。だが、そうした紅葉が落葉を迎える直前、葉の色づきはただならぬ輝きを見せる事がある。私たちがこころを動かし、感動するのは、落葉という生命体の一大事の中で分子レベルで起きる大変化に、何かを感じ、二つの感受性に直接的な繋がりが生じるからではないだろうか。

その仕組みの説明は現在の自然科学を超えているが、感動という現象が起きる時、人間の感情あるいは感覚は対象の側の感受性と一体化し、共鳴しているのかも知れない。

散り際の紅葉が一時見せる姿に、単に美しいという印象を超え、「あ~っ」と感嘆をもらす理由はそこにあるのではないだろうか。

 

なお、感動(共感)という表記をしたが、感動は共感と同じではない。その間の議論については、次回に回すことにしたい。

 

長島 知正   2018-12-08

(訂正;12-10、加筆;2019-01-02)