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言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか [3]

若いソシュールは、一世紀ほど前、様々な種類の言語があるにもかかわらず、言葉が同じように伝わるのは何故か、と問い、 「ことばを記号の一種と捉える一方、言葉の意味を社会的に共通の規約と見做すことによって、言葉が他者の間を伝わる普遍的な仕組みを科学的に解明できる」と夢見た。
確かに、このような言語観は科学的に言語を捉えようとする立場からは好都合に思われる。だが、それに反対の立場もある。その典型的な例として、社会的規約を無視した詩的なことば遣い、ポエジーがあることは前回紹介した。“言葉は社会的な規約に従うもの”と思い込んでいる人には、そのような言葉遣いをする人との会話は、ギクシャクとどこか伝わらないところが残るに違いない。これが、理科系・文科系の文化の間の相反ないし乖離現象の内実であり、広い範囲にまたがる根深い文化的対立の芯ではないだろうか。といっても、言葉よるコミュニケーション不全は理科・文化で区分されるような問題以外にも当然ある。その中のかなり部分は、言葉の意味と言葉が指示するものとの食い違いに起因しているように思われる。そうしたあれこれを議論し始めればキリがないから、ここでは、典型的な例を少しだけ挙げるに留めよう。

“私はキツネだけど、あなたはタヌキ?”という文は、字義上の意味を考えると、何か動物たちがアイサツしているようだが、日常生活でいきなり聞けば、何のことかと首をかしげるだろう。実際は、蕎麦屋で昼食のソバの注文をしている時の会話だ。また、ラジオのスポーツ中継でアナウンサーが、決定的場面を迎えて “絶対絶命のピンチを迎えました!”と叫んでいる。だが、このアナウンサーの叫びを聞いて、言葉自身の意味は分かっても、どんなことが実際に起きているかは伝わらない。ピンチやチャンスと言う言葉は聞き手の立場と切り離しては、指示するものが定まらないからだ。このような会話不全の原因が明らかな事例を挙げることはこれくらいにして、以下では、より間接的で微妙なコミュニケーションの問題に目を向けたい。

ところで、話者の感じている感情は、工夫を凝らした言葉で表現すれば、受け手にそのまま伝わるものなのだろうか。例えば、日常生活のコミュニケーションにおいて、“あなたに、私の苦しみがわかる!?“といった会話に見られる感情的な齟齬(そご)は、理系・文系などという区別と関わりなく、会話不全を生む。それはブツブツこころの中でくすぶり、ある時突然破裂したりする。
前回、新しい意味を創りだすという価値観に基づいた言語観に立つ、受け手主体の推論型コミュニケーションを紹介した。上のような会話における感情的な齟齬の問題もその範疇の問題と考えられる。しかし、ここではむしろ、この推論型コミュニケーションの範疇はとてつもない広がりがあることを強調しておくべきだろう。

図1.早朝の小鳥のさえずりに幸せな一日を予感する

上のような(会話不全という)事態は話者と聞き手の間の言葉によるコミュニケーションとは限らないからである。つまり、私たちは日常の暮らしにおいて、特に意識もせず身の回りの出来事を(ことばを超えた)記号として捉え、主体的に意味付けしている。言い換えると、私たちは日常的に、本来は言葉のようなメッセージ機能を持っていないモノに対しても意味を認め、自らの判断に基づいてそれに解釈を与えることをいわば習慣として行っているのである。例えば、はらはらと舞い落ちるサクラに世のはかなさを感じたり、庭に見つけた草木の新芽にいのちの息吹を共感し、また、早朝の小鳥たちのさえずりに、良い一日を予感している。ここでは、こうした毎日の暮らしに起きる、身の回りの小さな出来事をきっかけに生じる感情や印象のような心に浮かぶ心象について考えたいのである。上の例をとると、小鳥のさえずりが記号を表し、その記号が幸いな一日という意味を表している現象と見做せる。「何かが別な何かを表して(=意味して)いる」という意味で、これを記号あるいは記号現象と呼ぶことが出来る。こうした見方は、言葉ではないが、あたかも言葉のようなものとして、事物をことばに擬して捉える言語観と言えるだろう。それは伝統的な言語観とは異なり、相容れないモノも含まれるから、人々の間に目に見えない壁を作り、コミュニケーション不全を産むといったことにも繋がる。

以下では、このような記号現象が、前回取り上げた、受け手の主体性に基づくコミュニケーションの一種として、仮説形成推論(アブダクション)と言われる推論によって把握出来ることを示そう。初めに、仮説形成推論について説明する。
簡単に言うと、仮説形成推論は、私たちの周りにおきた説明がつかない現象(出来事)に出会った時(C)、その出来事が導かれるような仮説(H)を作って独自な推論をする。つまり、仮説Hによれば、現にある出来事Cがうまく説明できる。だから、Hは正しいかもしれない、と推測をするのである。簡単な例を挙げてみよう:

机の上に一つまみのコシヒカリの米粒がある。その机の上には、何袋かコメ袋が置かれている。そのコメ袋の中に、コシヒカリのコメだけが詰まっているコメ袋(a)が一袋見つかった。しかし、その他のコメ袋には、どんな種類のコメが混じっているか分からない。

この状況で、問題は「机の上にある一つまみのコシヒカリは、どのコメ袋からきたコメ(コシヒカリ)なのか」である。

この問題に対して、仮説形成推論は、「コシヒカリだけが入ったコメ袋(a)から、一つまみコシヒカリをとって机上に置いたのではないか、即ち、 机上の一つまみのコシヒカリは全て袋(a)からのコメ(コシヒカリ)ではないか」と仮説を立てる(推論する)。

この推測を論理的な形式で書けば、
(C)一つまみのコシヒカリがある。
(A)コシヒカリだけが入った袋(a)が見つかった。
(C)と(A)を前提に、結論として、次の仮説(H)
(H)一つまみのコシヒカリは全て、袋(a)からのコメ(コシヒカリ)である。
を推測する。

この推論は、広く科学で用いられる推論の形式、演繹推論や帰納的推論とは異なっている。つまり、演繹推論では、真理を保存したかたちで、前提に含まれる内容を分析・析出する。また、帰納推論は、有限個のデータを基に、一般的な命題を形成する推論である。これに対して、仮説形成推論は、説明のつかない現象に対して、合理的な説明をするための仮説を、上のような形式に従って導き出すのである。

図2.枯れすすきは晩年の記号?

上の例では、机上のコメ粒(コシヒカリ)の出どころが、どの袋から来たかについて、それがすべて(a)の袋からと推測した。しかし、コシヒカリは(a)のコメ袋以外にも含まれている可能性が否定されていないから、その推理結果はあくまで誤る可能性がある。ここに挙げた推論の例は正しい結果を導くというより、シャーロックホームズの推理小説などに見られる、意図的に誤った推理を読者に誘導させる仕掛けられたトリック(罠)のように感じた人がいたかも知れない。科学的な問題領域での正しい推論として使用するためには、仮説(推理結果)は採用すべきか検定が不可欠である。実際、この仮説形成推論は新しい科学的発見を導くための方法として考えられ始めたのであるが、ここでは敢えて、科学的な対象の対極に位置づけられるような感性的な問題を取り上げてみよう。

具体的には、先に引用した“早朝の小鳥のさえずに、幸いな一日を予見する”という、一種の感性的なこころの動きを対象として、上の仮説形成推論を適用してみる。記号現象として解釈すれば、「早朝の小鳥たちのさえずり」という記号に、「一日の幸い」というイメージを意味として読みとる過程と見做せる。この記号現象で興味あることは、“小鳥の鳴き声に、良い一日を読み取るというこころの働きである。以下で、それを先の仮説形成推論として考える;
(C):早朝の小鳥のさえずり    ‥・・・ 手元にある出来事(事例)
(A):幸運な一日     ・・・・・ 出来事の持つイメージ、印象(=意味)
(C)と(A)を前提として、仮説(H)を形成(こころの中に創造)する
(H):何か良いことがある日は早朝に小鳥がさえずる   ・・・・こころに形成された仮説

誌的な記号として表される “小鳥たちのさえずりに、一日の幸い” を読み取るこころの働きは、何気ない日常の出来事の中に何か明るい出来事を感じ分ける受け手のセンスであり、これは感性と言えるものだろう。それが新しい仮説を作り出す上のような推論として表現されている訳である。素人考えでは、こう表現されることによって、詩が詠まれる一歩前に近づくと言って良いのではないかと思う。これが示唆していることは、小さくないのではないだろうか。その一つは、机上のコシヒカリの来歴を探る例が、推理小説の謎解きのように正解を求めるための推論である一方、上の例の推論は誌的な世界を創造する過程に関わるという対照を示している事だ。ここで注目されるのはもちろん、推理的な探索誌的な表象という質的に対照的な課題が同一形式で扱われている事実である。

議論が大分荒っぽくなってきたので、この辺で、表題にある問題の中心からは相当逸脱する事になるが、今後の科学技術の課題に繋がる側面から、本論をまとめよう。

ことばは固定された意味を伝達するものという伝統的な言語観とは異なる新たな言語観に注目し、特に、受け手主体のコミュニケーションにおける言葉の新しい意味の創造という特性を検討した。具体的には、「小鳥たちのさえずり」という外界の出来事を「幸いな一日」という表象に結びつける、誌的なアイディアを表す記号現象が仮説形成推論として表現されることを例示した。この結果は、(1)「誌的なアイディアに含まれる創造性が形式化して明示される」、と同時に(2)「そのアイディアの創造的な仮説は誤っている危険がある」といった相反した特性を併せ持つことを示している。その特性の意味を更に検討すれば、「仮説形成推論は、芸術の創造性と科学的真実をつなぐ論理的な場である」という解釈が成り立つかも知れない。また、モノづくりのための方法として仮説形成推論は注目される。特に、何らかのイメージに合う新しいデザインを試行錯誤によって決定していくプロセスを支える思考方法、また、ユーザーの立場に立つ製品の感性評価法の開発に有用と思われる。これらは、各分野の専門家には経験的によく知られていることかも知れないが、モノづくりのための工学の基盤という認識には未だ至っていないのでなかろうか。

 

長島 知正 (2017-10-31)、(加筆:2017-11-01、02)

 

 

 

 

 

言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか

現在、世界では7000を超える様々な言語があると言われている。その中には、文字を持たない 言語もある。Internetの普及以後、少数民族で使われているそうした言語の存続には厳しい状況が生じているらしい。それはどこか遠い国の話ではない。アイヌ語もそのような言語の一つである。シャケやシシャモなど現在使われている日本語の由来はアイヌ語にあるそうだ。少ないとはいえ、アイヌ語が厳しい状況にあることは知られているが、日本語自身が将来消滅するかも知れないと考える人はほとんどいないだろう。だが、日本語は本当に安泰なのか。どんな言語と言えども、使用されなくなれば言語は消滅する。現在日本語が置かれた国際的環境は、日本語出版物の状況を考えれば、ほとんどガラパゴス状態と言ってオカシクナイ。文系不要論を声高に言う人は、不思議なことに文系の出身者が多いように見受けられるが、ご自身の主張が自らのコトバをいずれ消滅させるということに何故か考えが及ばないらしい。

今や理系の人が専門領域で使う言語として英語は、あたかも世界に君臨する共通語の気配を見せている。だからこそ、小学校でも英語をという考え方があるようだ。だが、それはオカシイ話ではないのだろうか。母国語は日常の生活で使われるが故に、それがどういうモノか捉えにくいのは事実だろう。古来、哲学者は言語能力は人間に顕著な能力だと言ってきた。だが、そうした議論を先に進めるには、言語を使用する能力について、どう捉えられるかが問われなくてならない.

以下では、コトバの基本とは何かを考えてみたい。コトバと言えば、日本語、英語、仏語などを想像するかも知れないが、そうした個別言語の性質を考えるのではない。種々の個別言語に共通した性質に注目し、コトバが普遍的に持つ基本的な機能、特に、コトバが通じる仕組みに的を絞って考えたい。

どの国でも“読み、書き、ソロバン”は初等教育で必須だろうが、わが国の読み書きの学習は、“サクラが咲いた、サクラが咲いた”というコトバから始まるのが定番だった。これは、“文化はことばを使用することによって、継承される”という昔の人の知恵からなのだろう。

         図2.母国語の学習はもっとも大切

コトバは、(頭の中にある)思いや考えを表現し、伝達することが基本である。コトバの影響は、建築の言語、芸術のことば、あるいは計算機言語などということばから想像されるように、人の営為を蓄積した文化の中に様々な形で見届けることができる。そこでは、意味を伝えるコトバの働きは、その文化を担う人たちの間にある種の秩序を成り立たせるための必須な要件と云うことが出来る。

とは言っても、誰しも経験しているように、コトバは常に通じるものではない。大切だからといくら繰り返しても、話は一向に伝わらない。何故、コトバにはこのように、伝わったり、伝わらなかったり矛盾するような面が生じるのだろう。コトバは通じるものという思い込みがあるせいだろうか。あるいは、理科系と文科系でコトバの受け止め方や使い方の違い、つまり、言語観の違いに関係があるのかもしれない。以下では、日常生活の中で文化を支えるコトバの基本的な性質を考える。

シッポを振りながら四つ足の(犬と思われる)動物が近寄って来る時、日本語では“イヌが来る”と云う。他方、例えば英語では、“A dog is coming”と云うだろう。異なる言語では、同じ事物を伝えるために使われることば(語)はこのように違う。当たり前だ。この当たり前に見られる性質から、コトバの本質は記号(Signe,シーニュ)と云ったのは、F.ソシュールである。20世紀の初め、ソシュールは言語を記号の体系として捉えようとしたが、以下では、「コトバは何故通じるのか」に問題を絞り彼の考えを辿ることにしよう。コトバは単語を単位としてそれらの集まりで構成されているから、言葉とは何かを考えるため、ここでは、単語に焦点をあてる。コトバには書き言葉、話し言葉の違いがあるが、ソシュールは、話し言葉を対象とした。書き言葉の方がデータの保存には有利だから、研究の対象が話し言葉なのは、一見不思議な感じもする。しかし、文字が発見される以前から、“話し言葉”を使って、狩猟など集団生活をおくっていたことは明らかだろう。言語の科学的研究の創始者としてソシュールには、コトバの起源の問題は重要なテーマだったということなのだろう。

コトバに対するソシュールの最も基本的な考え方を、先ほどの犬という単語を例に説明しよう。頭に思い浮かんだ、シッポを振る四つ足のモノ(=犬)という概念を簡単に“(犬の)意味”と考えよう。犬という概念(=意味)に日本語の場合“イヌ”という音声を対応させ、その両者を組み合わせたものが単語(日本語のコトバの単位)の基本である。普通、記号は交通標識などの目的で使われるような図形を指すことが多いが、彼は、犬の概念に対して、日本語では“イヌ”、また英語では“dog”と云う音声を夫々対応させ、その対を、それぞれの言語体系の中の一つの記号と捉えたのである。こうすることによって、異なる言語では、同じ概念に対して違う音声が対応しているという言語的特徴を説明する原理が得られると考えたソシュールは、「言語記号は恣意的である」という命題を言語学の第一原理と呼んだ。なお一般に、記号とは、意味を伴った、視覚や聴覚で感覚可能なモノ(図や音声)であることに注意しよう。また、上の恣意的とはRandomということもあるが、ここでは、ある概念(意味)が与えられた時、それに対応させる記号として特定の音声を選ぶ ”いわれ” あるいは、動機がないということである。

言語記号と単語については、とりあえず良いことにしよう。だが、同じ言語を使う集団の中で、そのような単語が集まったコトバを使うと、どうして話は他者に伝わる(理解される)のだろうか。日常生活で使われるコトバは、”自然言語”と呼ばれているけれど、ことばは何か自然的な仕組みによって伝わるのだろうか、それとも、そうでない仕組みが必要なのだろうか。

           図.2 コトバによる意味の伝達

ところで、図2はソシュールの「一般言語学講義」の序論に出てくる、コトバが話し手から聞き手に伝わる仕組みを説明する概念図である。以前、単語は概念(=意味)と音声の対が基本と言ったが、それは実は正確ではない。話を簡単にするため、概念=意味と解するのは良いとしても、問題は音声と言ったことにある。以下では、そこに注意して、話し手から聞き手に音声が伝えられる時、聞き手はどのように話し手が言いたかった意味を理解するのか、図2を元に考えてみよう。ソシュールによれば、話者が伝えたいある概念(=意味)を思いついた時、話者の頭の中で、言語ごとに決められた、その概念についての音響映像(イメージ)(Image Acoustiqueが対応させられる。ここで、音響映像とは、ソシュールの造語だが、後で説明するように音素(やそれらが連なった音素列)と考えてよい。その聴覚イメージに従って、実際の音声が話者の発声器官で生成され、口から空気中に発せられる。発せられた音波は空気中を伝搬し、聞き手の聴覚器官に届くと、その後伝搬してきた音声を元に音響映像が作られ、それに対応した概念(=意味)が引き出される。こうして話し手の コトバが聞き手に伝達され、話し手の言いたかった考え、つまりコトバの意味が聞き手に理解される。かくて、話者の話は聞き手に通じた。なお、上の議論から分かるように、単語は概念と音声の対ではなく、正確には、音声の代わり音素列(音響映像)の対として与えられる。

更に、話し手と聞き手の立場を交換して、上と同じ過程が成り立てば、原理的にある言語の中でコトバが通じる仕組みが与えられたことになる。言い換えれば、同じ言語を使う集団の中で、コトバが通じるためには、話者の発したコトバの意味を聞き手は共有しなければならない。単語の概念(=意味)に対応した音声(音素列)は恣意的に与えられているから、単語の集まりであるトバの意味を把握することも自然的にはできない事柄である。それ故、コトバを得得するために、特別に学習や訓練が必要になる。

どんな集団でも、その社会で生活する上で必要な規則を反映したコトバの習得は欠かせない。だから、どこの国でも、母国語に対する読み書き能力の習得を初等教育で実施する。一定の努力をすれば、母国語は習慣に従って誰もが習得していくから、一見そこには特別な問題はなさそうに思われる。だが、誰でも習慣的に習得するからといって、言語の獲得・習得の過程が自明なものでは決してない。何故、コトバの習得が可能か、その仕組みは現状で明らかなったとは到底言えない。そこに少し立ち入れば、科学を超えるような人間の能力の不思議さにビックリする。以下、そうした問題の一端に触れよう。

犬という単語は、シッポを振る四つ足の動物という概念(=意味)と”イヌと”いう音声(=音素列)の組みと上で説明した。しかし、Aさんはゴールデンレトリバー、Bさんは柴犬を飼っていた場合、Aさん、Bさんが犬と言っても、同じ犬の概念を持っているかは分からない。犬ほどサイズ、形、表情のバラエティがある動物もないから、犬に対する必要十分条件を与えるのは至難だろう。にも拘わらず、Aさん、Bさんに限らず、人は姿(見え)も大きさも違うモノに犬と言う一つ単語(概念)をあて、問題なくコトバを交わしている。そのような、多くの異なったモノを一つと見る認知の仕組みはどういうものなのだろう。あるいは、“多に一を見る合理的な方法はどういうものなのか。同様なことは、単語のもう一方の音声(音素列)についてもある。人が実際に発する音声は、性別、年齢、地域などによって、たとえ同じ”あ”と発音しても、物理的な状態、高さや強さは異なっている。だから、音声は犯人の識別に利用される。ある単語に対応させられた音声(音素)は物理的な音ではないと前に言ったが、一体音のどんな性質を考えるのだろう。答えを一口で言うと、様々な音声の集まりを何らかの基準に従ってまとめることで、一つの”音”と”聞きなす”のである。ソシュールはそれを音素と呼んだ(複数の音素の連なりを音素列と言う)。私たちはある音声を聞いてそれがどの音素(列)に属するかを判定出来るが、それは各音素が設定している音声の集合の性質を知っているからである。ここで、どんな音声の性質を同じ集合にまとめるかは自然的に決まるのではなく、社会に依存して決められる。例えば、英語では、l  と r  という音声を異なる性質をもったものとして二つの音素に属させるが、それらを日本語では区別せず一つの音素に含ませる。こうした例から、コトバに社会性が現れる事を知ることになる。

音声のある集合を一つの音と”聞きなす”音素は本質的に抽象的なモノである。結局、コトバの単位である単語を定める、概念(=意味)も音声(音素列)も共に抽象的な性質を持つから、単語やコトバ自体も抽象的な存在である。これが、コトバを自然的なものから一線を画した形で捉えようというソシュールの言語観の根底にあるものだろう。つまり、言語の研究は、物理的に測定可能な音声の物理的性質やまた音声の発話や聴覚のメカニズムを研究するものと思いがちだが、実際はそうではなく、そうした研究とは一線が画されている。そのことに、簡単に触れておこう。

上で説明したように、ソシュールは単語とは、概念と音響映像の組みとしたが、この音響映像は音声に関わっているけれど、それは単語の意味を伝達するために必要とされる頭の中に現れる性質で、物理的に観測される音声そのものではない。ソシュールはコトバにおけるその違いをそれぞれラングとパロール呼んで区別し、言語学を音声学から分けると共に、ラングこそ、コトバが通じるために必須な要素とした。ラングは、単語の概念(=意味)も音素も抽象的な存在だから、抽象的なモノである。一方、パロールは、実際に計測可能な物理的な音声と考えられる。両者の関係は、簡単には、外界にある音声つまり、パロールが頭の中で認識された時、はじめてラングになると考えれば良いのだ。

以下、本稿の議論をまとめておこう。「コトバが通じる」とは、コトバの意味が伝わるからだという立場のソシュールに従って、コトバが伝わるために要請される性質を、単語の性質に的を絞って考察した。ここで考えた話者のコトバが聞き手に伝わる仕組みは、あたかもモールス信号が伝達される方法のようで、理系の人にはなーんだそんなの情報通信の基本の話じゃないのと思った人もいるだろう。ソシュールの言語理論はその後チョムスキーなどの登場もあって、現在評判はあまり良くないらしい。だが、言語という人間が持つ特性の可能性を記号学という形で切り開いて見せた事実は否定しようもない。その影響は例えば、以前取り上げたスノーの二つの文化論にも及んでいるようにも見える。 スノーは、人文系と理系による二つの文化の乖離を取り上げた時、人文系、理系のグループが異なる言語を使用することが、それぞれの文化の理解を妨げる障壁になると言っている。上のラングとパロールの区別は、文系と理系の言語観の違いを生む一つの要因と思われるが、従来理系に属するとされる数学の言語観は物理のそれとは大きく異なっていて、単純には文系・理系の違いを説明できない。むしろ、パロールとラングの違いは、自然科学系言語と非自然科学系言語という大きな区分けを示唆しているのではないか。この区分に従えば、原理的に、実際のモノを扱う物理学等で使われる言語は自然科学系言語、一方数学のような抽象性の世界を扱う言語は非自然科学系言語に属すことになる。このような言語観の変更は、様々な既存概念に対する枠組の組み替えに繋がるかも知れない。

ここまでの議論とは対照的に、しばしば、コトバが通じないことを経験する。次回は「コトバは何故伝わらないか」に的を絞り、コトバが持つ広い側面を考えたい。その中で、コトバの創造性や感情は言葉で伝わるのかといった問題など検討する予定。

 

長島 知正    2017-08-29 (加筆修正:2017-08-31)

 

参考文献

長島知正、感性とことば(1)~(5)、理系のための哲学・芸術・美・感性;読みもの

読みもの

 

 

 

 

 

 

 

”理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか(2)

英国の作家で科学者でもあったスノーは著書”二つの文化”で、20世紀におきた科学技術革命は、文化を自然科学系と人文系という二つの文化に乖離させるという、深刻な指摘をした。とは言っても、我が国ではそうした文化論以前に、スノーの”二つの文化”に対応した理系や文系という言葉があっても、それは個人の得意科目のような個人的な事情に留まり、二つの文化それぞれへ繋がる文化の議論や活動に根付かないといった事情があるようだ。ここには一種のスレチガイがある。前回のコラムではそのスレチガイが起きるワケを考えた。要点は、理科や文科あるいは科学や文化など”二つの文化”に関わる言葉は、いずれも外国で作られた概念を明治維新の時期に翻訳して創られたものだが、その翻訳の過程に生じる(翻訳)意味の不確定性(翻訳不確定性)が与っているのではないか、ということである。その当否は別にしても、“二つの文化”の舞台はあくまで英国ないし欧州である。実際、日常の生活感覚の中で考えてみると、スノーの”二つの文化論”にはスッと落ちないところも確かにある。ことばは文化を体現すると云われているが、異なる文化圏にある日本の背景が考慮された議論ではないから、そこに分かりにくさや消化不良があって何も不思議はないのである。ここではそうした面を補うため、舞台の中心をわが国の文化に移し、もう一度“理系・文系の話題はなぜ文化の議論に繋がらないか”を考え直してみよう。もし、スノーの二つの文化論と異なる我が国の文化の特徴が見られたら、それも無意味ではないだろう。ただし、取り上げる舞台は、スノーが“二つの文化”を論じ”た時期とも重なる、戦後の日本である。

Sakura(2)

 図1.日本文化のシンボル

多くの組織が社会に存在することは当然だが、筆者の世代にとって、戦後の高度成長期とよばれた時代の日本を代表する社会組織と云えば「会社」だった。そして、”ジャパン アズ ナンバーワン”といったタイトルの本が現れたように、戦後日本の高度成長は外国から見ると謎めいていた。そうした中、高度成長のカギは、わが国における会社組織の“タテ社会の構造”という点にあるという指摘は広く内外の注目を集めた。論者の中根千絵は、日本人が自らを社会的にどう位置付けるかに着目して、わが国では、エンジニアとか営業といった専門職種より、どこそこの会社のものです、という所属組織の方に重きが置かれる、つまり、会社という組織への帰属が重視されると指摘した。また、職種では専門知識や資格が重視されるのに対して、会社など自らを置く“場”が重視されるため、そこでは感情的な一体感が支配する状況も起き得る、とした。タテとは、入社年次による年功序列型の機序、またヨコは会社を超えた職能によるフラットな繋がりである。”場”というキーワードは抽象的だが、単に人がいる空間ではなく、組織全体が関わる環境と云えるだろう。砕けた云い方では、”空気読む”の”空気”と云えるのかもしれない。タテ社会の構造論はタテ優位の構造の形成メカニズムを与えるものか筆者には不明な点もあるが、一般には、“タテ社会の構造論”は、戦後の社会において、日本人は敗戦によって失われたアイデンティティーを企業への帰属意識とすることによって、自らのアイデンティティーを保ち、わが国の高度成長を内側から支えた、という解釈により高い評価が与えられているようだ。だが、ここでは、その議論を別の文脈に適用してみよう。つまり、タテ社会の構造論は、戦後の日本における組織と人間関係の特徴を述べているが、それを本コラムの観点から捉え直すとどうなるかを考えたい。

端的に云うと、わが国では、(企業)組織等において、専門的職能より、’場”が重視されるという点に本質があるなら、理系・文系といった話題がどこかで持ち上がったとしても、それは個人の得意科目の範囲に留まり、理系や文系それぞれの文化に社会的な触手を伸ばしていかないのは自明ではないか。即ち、専門的職能より組織への帰属意識が優位にあるという我が国の“(企業)組織文化”のあり方が、理系・文系の話題が社会的な議論に繋がることを妨げる基本的要因と思われるのである。だが、このタテ社会の構造論が本コラムの問題にヒントを与えるとしても、今日の我が国は、高度経済成長後のバブル崩壊を経て、既に終身雇用や年功序列は崩れ、社会にはさまざまな新しい制度が導入されている。もはや戦後ではないから、その議論は的外れでしょ! ほとんどの人がそう思うのではないだろうか。筆者自身タテ社会の構造論は高度成長期の我が国の文化を説明するモデルで、新しい時代に適したモデルに当然変わると考えている。では何故、タテ社会の構造論といった古い議論を今持ち出すのか。一つのワケは、タテ社会の構造論で表立って議論されていないけれど、それと通底しているが、短期的には変わらない、人間の共感という性質が、我々の問題「我が国で、理系・文系の話題が社会の中に根付いていかない」に与っていると考えるからである。 タテ社会の構造論の中心にある帰属意識は、企業などの組織に働く特殊な感情、つまり組織の一員であるという仲間意識である。従って、それは共感と言い換えられるだろう。他者と同じように感じるこうした共感は、人間が感じる一種の感性として組織集団を最も底辺において支えている。共感は感性の一種と云ったけれど、それは美的センスのような感性とはどこか異なっていると感じるかもしれない。だが、その問題についてここでは立ち入らないことにする(拙書 ”感性的思考”(東海大学出版会、2014)を参照頂きたい)。

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図2.タテ社会の病理

タテ社会の構造論を持ち出したもう一つのワケは、「忖度」(そんたく)という何とも古めかしい言葉が、最近新聞に突然現れ、アッという間に広まったからである。なぜ、「忖度」という古い言葉がこのように広まったのだろう。言葉はその国の文化を現すと云われるが、「忖度」には“場”を重視するという日本の感性が関わっていると感じるのである。

「忖度」は漢詩に由来する古い日本語で、その意味は「推量する」だったという。菅原道真が使ったと云われているが、念のため手元の国語辞典で調べると、「他人の気持ちを推し量る」意の漢語的表現とある(三省堂、新明解国語辞典)。ところが、現在「忖度」で問題とされているのは、例えば、「マスコミが時の政府の意向を忖度して、追及記事の掲載を取り消した」という行為や「大企業の担当者は、取引先の社長に不都合な発言はしないよう、言外に忖度を求めた」といった姿勢のようだ。つまり、現在注目され、特に批判のマトにされているのは、他人の気持ちを推し量るだけでなく、さらに相手のことを配慮して、行為するという新しく付け加わった意味ということになる。新聞アンケート(朝日、4月30日)によると、忖度についての受け止め方は、組織の潤滑油とか効率的というプラス面の評価から、上からの無言の圧力による表に現れない不公正な意思決定といったマイナス面まで、人によって大きく揺らいでいる。

現在、マイナス・イメージが強調される「忖度」だが、「他人への気遣い」といった日本社会の美徳もそこには含まれるように感じられる。その意味が安定するには未だ時間がかかるだろう。しかし、「共感」は元来、他人と同じような気持ちを持つという事だから、原則的に忖度と共感には相手の気持ちを推し量るところに類似性がある(後述するスミスの共感も参照)。それ故、組織への帰属意識、共感、忖度という言葉には意味の平行性が認められる。従って、理系・文系を巡る話題がなぜ文化の議論に繋がらないのか、という本コラムの問題に戻ると、専門的職能より、場を優位におく我が国の組織の在り方に基本的原因がある、という結論が再び得られる。この結論は非常に古臭い印象を与えるに違いない。しかし最近は、今まで隠されていた古臭いモノが表層の覆いを破って現れたような出来事がむしろ増えているのではないか。

これから先は、ひとまず”得られた上の結論に対する考察とイイワケである。いい訳を簡単に云うと、”帰属意識”、”共感”、”忖度”夫々のことばの意味は似ているけれど、同じと云えるのだろうか。そこにことばの問題(前回の翻訳語を含む)があるかも知れない、ということである。例えば、「忖度」の意味。忖度の元来の意味は、「相手の気持ちを推し量る」であったが、上で述べたように、現在いわば正反対の意味で使用され、矛盾した状態が生じている。一方、忖度とは異なり、日常的によく使われている共感には、そのような混乱はないように思われる。だが、困ったことには、議論の展開を妨げることばの落とし穴がここにもある。以下、結論の考察として、共感に関する微妙な点を掘り下げてみる。

共感と云えば、多くの人は、例えば、お気に入りのスターなどの演技に感激し、我を忘れて演技者になりきってしまうような状況を想像するかもしれない。しかし、近代の西欧社会に共感概念を定着させた A. スミスの考えは少し違ったものである。その違いを説明してみよう。スミスが用いたSympathy という語は、社会学関係では”同感”と訳され、一方哲学や心理学では、”共感”があてられることが多いが、ここでは、それらを区別せずに使う。

 まず、スミスは、人間とは自らの利害に関係なくとも他人に関心を持つ存在だと云う。だから、ある人が何か出来事に遭遇した場合、その当事者の運、不運に関心を

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持ち、大声で泣き叫んだり、笑い声がきこえれば、何があったのか知ろうとして、その状況を観察する。その際、想像力によって、自分を当事者の境遇に置いて、仮に当事者の立場になったとき、自分がどのような感情を持つか、またどんな行為をするだろうか想像する。それを実際観察される当事者の感情や行為と比べ、もし同じであれば、当事者の感情や行為が適切であると判断し是認する。違えば否認と判断をする。これがスミスの共感である。特に、このような判断における、相手の境遇を知る方法を”共感的理解”と呼ぶことがある。私たちは、日常、他人や自分の行為を善いとか悪いと判断しているが、スミスは共感を基に、誰もが納得する公平な判断(道徳判断)の原理を与えようとしたのである。また後には共感的理解は、心理学分野への応用や音楽や小説など芸術作品を理解するための方法としても広く応用されるようになったことを付け加えておきたい。

スミスの共感で重要な点は、”理解”と”是認”の区別だろう。詳細は別に譲るけれど、要点は相手の立場になって理解をするが、それは相手の行為を全面的に是認することではないという点である。現今批判される忖度が、相手の気持ちを配慮して、相手に有利な行為をするという意味で使われるのとは対照的である。(スミスの)共感では、全面的に感情によって支配されることなく、それを抑制する理性的な働きが立ち上がっている。仮に不幸な人に同情はしても、単なる同情ではない。あるいは、相手に共感はしても、完全に同化してしまわず、相手の行為を公平に判断する。ここに、多くの人が持つ共感のイメージ(意味)との違いがあるが、それは冷たいと受け止められるかも知れない。だがそう云うなら、理性と感情の結びつきを排斥する、従来からの自然科学の思考はどうなってしまうのだろう。

 

スノーが二つの文化論で論じた科学的文化もまた、従来のカテゴリーの自然科学だったのである。共感的理解が示唆する感情と理性が結びついた思考は、科学的成果を深い知恵に繋ぎ変える具体的な手がかりを与え、広い意味の感性を利用したわが国独自の科学技術の基礎になるように思われるのである。

 

長島 知正   (2017-06-21) *加筆;(2017-06-23)

 

 

 

 

宙づりの感性(2)

前回大変な駆け足であったけれど、デカルトがどのようにして、コギトの発見から、精神物質の二元論という枠組みを帰結させたか、その大まかな道筋を説明した。また、デカルトの二元論からは、見方を変えれば、認識する主観と認識される客観が相対立する認識図式が導かれるなど、後の自然科学が発展の契機とした基本的要因が垣間見えることも述べた。ここまでを取りあえずの手掛かりとして、”宙づりの感性”と云うコラムの本題に話を進めよう。話の向かう先は人間の感性である。と云っても、いずれ明らかになることだが、感性についての物語や想いを述べたいのではない。云いたいのは、”宙づりの感性”という事態が、デカルトが創った近代の枠組み、つまり、二元論から論理的に導かれるということである。”宙づりの感性”とはどう云うことか、また何故、そうなるのかはこれから説明する。詳しいことは後に回し、まず全体的な話から始めよう。

精神物質を実体とする二元論に行きついたデカルトは、この世界には、コギト(=考える我)とは全く異なる存在として物質が存在するとしたが、物質を具体的にどのように捉えていたのだろう。物質をどう認識していたかについては”方法序説”より、体系的な説明を後に発表した”省察”でしている。省察は、自らが打ち立てた二元論の体系に対する疑問に答える形をとり、改めて、自然界ーそれは神が創造したーは透明化され、機械論的な世界として構成できると主張した。実際、彼の確信は、科学・技術の歴史の中にクッキリと残されることになった。つまり、デカルト以降、自然科学は自らの根拠として二元論を採用し、その物質の側だけを研究してきたと云えるのではないか。そうした科学の選択は産業革命を可能としたばかりか、21世紀に至る科学技術の驚くべき進展に繋がっている。だが、二元論には、精神(こころ)と身体がバラバラに分離されるという”心身問題”に留まらず、外観は心身問題とは異なる形をした解決困難な問題が隠されていることも知られている。本稿の”宙づりの感性”で云わんとすることも、二元論に基づくデカルトの物質観それ自体から導かれる人間の感性に関する一つの帰結である。

デカルトが、完全なる神の存在を介して物質の存在を結論付けたことは前回紹介した。しかし今日では、神の存在まで持ち出す議論はどこかウサンクサイと感じる人は多いに違いない。ウサンクサイどころか、不信感さえ持つ人がいて当たり前だろう。何故、そんな手の込んだことをするのか、目の前にモノがあれば(見えていれば)、それが存在しているのは当然でしょう、と。

”素朴実在論(直接的実在論)”と呼ばれる感覚・知覚経験に根ざした物質界に対するこうした素朴な見方は日常生活を実践するうえで非常に有用なものだ。しかし、改まって考えてみると、当たり前でないことに気づくかも知れない。

素朴実在論の特色は日常生活の経験で知覚の直接的な対象を外的事物とすることにある。ドライブ中、急に眼の前に崖が現れたら、ブレーキを踏むのはその証しだ。しかし、文字通り素朴に、知覚の対象を外的事物に置き換えるのが困難なことも多くの事例が教える。例えば、目に映る景色は文字通りの大きさで外的なものが存在していない。広い意味の錯覚である。また、物理学によれば色は光の中に存在していない。だから、知覚の対象を素直に外部の事物と見なすことは難しそうだ。素朴実在論には根拠が与えられていないのである。

とすれば、知覚の対象として物自体と直接関係しない”何か”を考えざるを得ない、と云うのは哲学者だ。その”何か”を表すものの一つが、西欧では古くから”観念”であったようだ。普通、観念はある事物を意識した時、意識のうちにあらわれる意識内容を意味している。海と聞いたり、山を見たとき、心に現れる一種のイメージ(表象)を指すが、デカルトは、神から与えられた生得的で明晰に意識に現れる観念を元に彼の理論を組み立てた。つまり、我の精神(こころ)の働きの中に、”観念”を据え、その上で、神の存在を介して物質からなる自然を客観的に組み立てた。言葉をかえれば、二元論で物質との直接作用を禁止された、我の精神は、直接の対象として観念に作用(思惟)し、例えば、自らの内に生じる観念を知覚する。逆に云えば、外界の事物は、我の観念によって表象されたものとして見られ(知覚され)るのである。つまり、こころは間接的に外部の事物を見ているのだ(間接的実在論)。デカルトが近代哲学の父と呼ばれるワケも、カントに至る西欧の認識論の骨格と云える、こうした”観念を知覚する”認識モデルを創めたことに核心があるのだろう。もっとも、その評価はまた別の問題と付け加えなければならないが、、、。

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 図1.カンセツテキ・ジツザイ!?

具体的なデカルトの物質観に話を進めよう。デカルトによれば、上の説明のように、外界の物体は、我の精神のうちにある観念によって表象される、間接的な知覚の対象である。だが、その観念のすべてが本質的な存在(実体)を表してないということから話は複雑になる。つまり、外界にあるように心の中で感じられる観念は二種に分けられる。一つの観念は、物質の本質を表す延長のように、明晰判明に知覚され、数学的明証的に把握できる性質(一次性質)を持つ。しかし他方、色、音、匂い、味など感覚的に感じられる観念は、こころの中で感じられても、物質としては存在しないという性質(二次性質)があるというのである。この一次、二次性質の区分は実はデカルトが始めたものではなく、既にガリレオによって主張されていた。またロックによって詳しく分析されたが、ここでは、デカルトの物質観を色濃く表わした、省察3(三木清訳、岩波文庫)にある記述を引用しよう。

デカルトは、”そうして物体的なものの観念についていえば、”と云ってから、以下のような物質観を述べる: (中略)

”これらにおいて私が明晰に判明に知覚するものはただ極めて僅かであることに気づくのである。言うまでもなく、それは、大きさ、すなわち、長さ、広さ及び深さにおける延長、かかる延長の限定によって生ずる形体、種々の形体を具えたものの相互に占める位置、及び運動、すなわちかかる位置の変化であって、これになお実体、持続及び数を加えることができる。”

ここで、デカルトは物質の本質を、大きさ、つまり、長さ、広さ、深さという三次元的に広がる延長のほか、有限な延長による形、様々な形の位置とその変化による運動のみに限定し、物質の概念をそうした数少ない基本要素だけに還元した。これは勿論現代的原子論とは異なっているが、マクロな物質の本質的概念を抽出することによって、ニュートンの力学にも繋がりがある。

しかし、光や色、味、香などは夫々の感覚体験を物体から受け取る。だが、それらの体験は信じられるより疑わしい、とデカルトは云い、次のように”省察”で続ける:

”しかるにその他のもの、例えば光と色、音、香、味、熱と寒、また他の触覚的性質は、ただ極めて不分明に不明瞭にのみ私によって思惟せられるのであり、従って私は、それらが真であるのか、それとも偽であるのか、言い換えると、それらについて私の有する観念があるものものの観念であるのか、それとも何ものでもないものの観念であるのか、をさえ知らないのである。”

この短い段落では、感覚による知識や感覚自体へのデカルトの不信をはっきり現し、科学の対象からそれらを排除すべきという基本的な姿勢がうかがえる。

以上の記述に現れたデカルトの物質観を簡単にまとめてみよう。まず、客観的に存在する物質(物体)は無色透明、無味、無臭であって、空間に広がる延長や運動など限られた性質のみ持つことが許されている。一方、色、音、匂い、味などは物体とは切り離され、心の中でのみ感じられるものである。こうしたガリレオ・デカルトに始まる区別は、どこかオカシイ。だが、現代の科学、特に生理学の見解に類似しているから、ヒョットすると違和感を感じるというより、むしろ科学的に正しいではないかといった反応があるかも知れない。匂いや味などについて基本的にはその通りと云って良いのだろう。とは云え、精神と切り離された物体は、(無色な)形質や形は外界にある対象に属しているが、一方その色彩や匂いなどは精神(こころ)のうちにあるというのはオカシクないか。例えば、長い海岸の景色を見て、地平線と海岸線でかこまれる領域にある海や海辺の砂浜などの形質(無色な物)とそれらの形は遠くはなれた位置にあり、他方、海の青や砂浜の白等の色彩は形とは切り離されて心の中にあると云うことになるからだ。

イラストや パン 

図2.焼きたてパン

また、おいしそうに焼きあがったパンのもつ豊かさはどうなるだろう。パンの豊かさには、焼けたパン生地の色づきやイーストの香りのみならず、ふっくらと焼きあがった形状も与っている。パンの形状はあちらにあって、色や匂いは心の中にあるだろうか。バナナの匂いはバナナそのものに備わっているように感じられるように、元来、モノに備わった十全な感性的性質は一体感の中にあり、バラバラになっては感じられないのではないか。

こうしたオカシサはデカルトも知っていた。つまり、物質の一次性質、つまり客観的に把握される物質の性質と感覚的にこころの中でのみ感じられる二次性質はバラバラに独立に存在するのではない、と。つまり、経験的に心の中に現れる感覚的表象(印象)は外部の対象物質からの刺激が因果的に繋がって現れるからだ。云い換えれば、こころで感じる感性的性質の知覚経験は、外部に客観的に存在する物質の何らかの性質が原因となり、その性質が身体を経由して、こころに伝わり、表象が作られるからである。この説によれば、感覚的性質は結局、物質の性質によって決まっていることになる。こうして、デカルトは客観的に把握できる物質についての科学を進めて行くことによって、感覚的な性質まで分析できるに違いないと考えた。

実は、こころに浮かぶ表象(観念)が外部にある物体を間接的に表すという間接的実在論の立場から見れば、上述した見方はその中に当然含まれるハズであり、後に知覚因果論と呼ばれ広く知られるようになった。しかしここに、デカルトの、ひいては現代科学の楽観が隠されていた。つまり、知覚因果論はデカルト以降300年を経て今日なお未解決、というより、むしろある意味で不可能と云える問題を内蔵しているからである。

話が大分長くなったので、ここで結論を一部先回りして云うことにしよう: 

私たちは今日、ガリレオ・デカルトの一次、二次性質という物質観を基本的に受け入れる一方、科学的正当化の道を外された感性(感覚的性質)は、一体感を失い、行先 定まらぬまま宙に浮いてしまっているのである。

 

知覚因果論は今日の脳科学にも関わる問題である。それらについては次回考えよう。

 

長島 知正      (2017-03-18)

 

 

“それはセンスの問題だ”(ⅳ)

前回までの簡単な復習から始めよう。”○○のセンス”という言葉や”それはセンスの問題だ”という文言は極めて広い分野で、とりわけ事象の局面を左右するような場面で使われている。問題はそうしたセンスとは一体何なのかである。前回まで、センスの働きをことばから探るべく、国語辞典でセンスの語義を、続いてセンスの原語senseの語義を英和辞典で調べた。しかし、こうした言語世界の探索は、センスとは何かに対する答を導くというより、逆に問題を拡散させるという、外来語が抱える問題を露わにしてしまった。となれば、センスとは何かを捉えるには、言語の世界をこえた思想の領域に入る必要があるようだ。

当面する課題は二つある。中でも肝心なのは、センスの第一の意味、”物事の微妙な感じ(よさ、味わい)を知る(感じ取る)心の働き”と”それはセンスの問題だ”という文言が含意する「様々な事象に一瞬のうちに結論を下す」というセンスの関係は自明ではなく、それらはどう結びつくのか、という問題だろう。もう一つは、センスの第二の意味がバラついているように見えることだ。

はじめの課題から始めよう。センスの第一の意味は、物事の微妙な感じ(よさ、味わい)を知る(感じ取る)こころの働きである。一方、”それはセンスの問題だ”という文言の方では、物事の微妙な感じ(よさ)とか味わいに特に注目している訳ではない。両者はセンスに着目していても、想定している対象は一般に異なっている。また、そうした対象の違いに加え、記述の仕方にも違いがある。ここで、”○○はセンスの問題だ”という文言で、○○に代入可能な対象は、芸術や科学など従来議論されてきた分野にとどまらず、それらとは非常に異なる、例えば、サッカー等のスポーツや武術等の分野にも及びそうだということを思い起こそう。そうした広い領域に通用するセンスには、近代の枠組みが見失った、分野を繋ぐ横糸が潜んでいるかも知れないと思うのである。

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前回、センスの第一の意味は辞書の中で原語senseの意味と大きく食い違っていると云った。とは云え、senseの最も基本的な意味は”感覚”(感じる)にあると考えてよいのでないだろうか。ここで、”感覚”とはいわゆる感覚器によって感じられる”感覚”を指す。何故なら、そうした”感覚”は広く動物が生きていく上で必須のものであって、その重要性が”感覚”をsenseの第一の意味に置いた理由のハズだからだ。

”感覚”というsenseの最も基本的な意味が、(外来語の)センスでは消えたのは、国語辞典の編纂者/担当者が哲学や美学関係者だからと考えるのは筆者の思い込みだろうか。もし、理科系の人がいれば、そうならなかったのではないか。いずれにしても、ここで重要なのは、senseの原義である”感覚”を一般化し、広く外界(世界)を感じる性質ないし能力として”広義の感覚”というものを考えた人がいた事ではないだろうか。ここで、”感じる”ということは、”生きる”ということに比類するほどの広がりを持つことに注意したい。”感じる”ことを○○感と表現される場合に限っても、満腹感、満足感、幸福感、高級感、崇高感、正義感、違和感、一体感、存在感、等々のように、実存的なものから抽象的なものまで広がっている。さらに、こうしたヒトに特有の概念的な感じに留まらず、感じることは、すべての生き物が生きてある証し(あかし)でもあるから、感じるということを起点に世界をひとくくりにするような理屈を夢見る人は少なからずいたに違いない。晩年まで”美しい”という感じにこだわりを見せたカントのような人もそうした一人だったのだろうか。

我が国では、西欧哲学は混沌とした世界の中に秩序を与える見方(認識)や合理的思考を提供してきたと云われ、また実際私たちは、西欧の近代化の流れにのって生活している。が、哲学は常に正しいことを教えてくれるなどとは思わない方が良い。卑近な例として、センスの意味からsenseの原義である”感覚”という意味を消したのは哲学(関係)者でないかと推測されるのである。何故なら、西洋哲学では感覚は真理の邪魔をする存在と見なしてきたからだ。

話をはじめの課題に戻そう。そのため、senseの原義つまり、五感としての感覚を出発点に据え、その延長上で、五感の意味で感じる感覚とは別の”感じ”(感覚)について少し掘り下げていこう。感じること全体の広がりについては今後の課題とし、ここでは、伝統的な哲学を中心とした領域で”感じ”がどのように捉えられたかに注目する。いわゆる五感と呼ばれる感覚は個別感覚器に依存した身体的な能力であるけれど、西欧哲学では、それは人間の精神とは対極にあるという伝統的な見方がある。云い換えれば、(五感の)感覚の対極に精神(こころ)があるという枠組みであるが、こころで”感じる”ような働きを捉えるためには両者が重なった領域を考えざるを得ない。そのため、こころで感じるような働きには二通りのアプローチがあり得る。端的な方法は、精神の中に感覚的な働きを想定すること、つまり、”何か”を感じる精神(こころ)という見方である。この段階で、感じる対象として”芸術的な対象”を想定すれば、センスの第一の意味に採用されている「物事の微妙な感じを知る心の働き」を素直に受け入れることが出来るのでないだろうか。

もう一つのアプローチは、上の見方とは逆に、センスをあたかも心で感じているような感覚、つまり心(精神)のように働く感覚と把握しようとする。つまり、五感で感じる感覚は個別感覚器の機能によって、互いに異なる個別的なものを感じるのに対し、センスは、個別的感覚を超え、それらにはない複数の感覚にまたがりそれらを統合し外部世界の全体的感じを捉えるという(特徴)性質を持つと考えるのである。外部にある事物の全体を感じる働きは、実在を離れ想像による心(精神)の領域の働きとみなせることは、その典型的例として、甘いささやき、心に響く、といった日常生活を豊かにすることばの比喩的な使い方に現れている。

こころで感じるようなこうした働きは、芸術的な対象に限らず広い対象に対し、外部世界(事象)の全体的感じを捉える性質ないし能力として通用する、センスの基本的な一つの特徴と云えるだろう。

さらにセンスの基本的な特徴を考えよう。センスは感じるこころの働き、あるいは、こころで感じるような感覚であると云ったが、いずれにしても、感じるということによって、必然的にセンスには”瞬時の出来事”という特徴がある。とは云え、センスで大切なことは、感じることに判断が伴い、感じた瞬間すでに判断がなされている点である。これはもちろん、命題の連鎖によってなされる推論のような、理性の中核にある論理的判断とは別のものである。しかし、以上のセンスの特徴だけでは”○○はセンスの問題だ”という文言が周囲の者をたじろがせるような響きがある理由を説明するには足りないだろう。不足しているのは何か。センスは対象である様々な事物について、良し・悪しの判断を瞬時に下すからではないだろうか。良し・悪しは対象についての価値に関する判断である。対象はさまざま異なってもセンスは、一瞬のうちに各対象の全体的な価値を含む判断を下してしまうから、周囲の者はたじろがざるを得ないのではないだろうか。

これまでの議論をまとめておこう。まず、senseの原義から出発し、国語辞典にみられるセンスの第一の意味は、芸術的対象とくに美的なものを対象に作られたであろうこと、また、”心の領域で感じる”というセンスの基本的な特徴を考えることによって、とりあえず芸術分野をこえた対象にも通用すると思われるセンスの幾つかの機能を示した。しかし、芸術における鑑賞と異なり、運動を伴うスポーツや武術分野におけるセンスに限っても、それは行動と繋がっていて、一般化するためには、上述したセンスの特徴が、スポーツや武術などにおいて適切か更に吟味が必要である。

いずれにしても、”それはセンスの問題だ”という文言が当てはまりそうな分野は恐ろしく広く見える。その事実は何を意味しているのか、興味深いこれからの問題だろう。

sixth sense(第六感)、common sense(常識)、good sense (思慮、分別、良識)などセンスの第二の意味にも繋がりのある二つ目の議論がなお残ってしまった。それらについては、別の機会に取り上げることにしたい。

長島 知正        (2016-12-16)

“それはセンスの問題だ”(ⅲ)

”〇〇はセンスの問題だ”という文言には、センスということばによって瞬時に結論付けられ、あたかも聞くものを切り捨てるような独特な作用がある。このような働きをするセンスとは一体何なのか。前回とりあえず、国語辞典を引き、センスの第一の意味が、”微妙な感じ(味わい)を知る(感じ取る)心の働き”と集約されることを確認した。(以下、”第一の意味”の”第一の”を略し”意味”と記す)。そうしたセンスの意味と聞くものをたじろがせてしまう独特の作用の関係は自明ではないけれど、まず、センスの意味が何処から来るのか、気になるところだ。センスの原語senseに由来を尋ねるのは自然なことだろう。とはいえ、カタカナ外来語にはそのシンプルなイメージとは裏腹に、一般に複雑な背景が潜んでいる。どうやら、”センス”という外来語はその典型らしく、後で分かることだが、原語senseの語意とセンスの意味の対応は複雑を超えている。以下では、センスの原語senseに焦点を当て、センスとsenseの意味の間の錯綜した関係を眺め、その上でセンスと感性の繋がりも検討したい。

まず、センスの原語”sense”の語意を、英和辞書(大修館ジーニアス英和大辞典)で調べてみる。以下、取りあえず、名詞の上位の意味から順に記す;             ①感覚、                                 ②a;(・・・に対する)認識力、判断力、センス、・・・感、b;(・・・に対する)自覚、観念、 ③(・・・する)良識、思慮分別、道理にかなったこと、常識、            ④(・・・という)感じ、気持、感触、                        ⑤正気、意識、本性、本心、                          ⑥意味、意図、趣旨、                            ⑦価値、意義、効果、                            ⑧以下、省略。

これから直ちに分かるのは、日本語のセンスとは対照的に、原語senseには、数多くの語意が含まれていることだろう。当然、センスと原語senseの意味に1:1の対応はない。さらに、意外なのは、senseの語意には日本語のセンスということばの特徴である「物事の”微妙な”感じ」の”微妙な”に相当することばが見当たらないことだ。ここには、原語senseの語意の中にセンスの意味が明示的には含まれていない、という奇妙な状況が見られる。(ただし、②で、認識力、判断力の後に”センス”とあるが、このセンスとは何のことなのだろう。原語senseに由来するセンスを、原語の語意として充てるのは辞書として不適格である。) こうした奇妙な事態は、一体何を示しているのだろう。私たちはセンスの意味を探ぐる作業を始めたのだが、想定外のことに出会ったらしい。端的に云うと、言語世界の脆い断層に当たったのである。つまり、外来語(翻訳語を含め)を使用するとき、上述した原語と外来語としての日本語の間にある語意のズレ(違い)が、常に存在しているということなのだ。例として、もし、センス(日本語)をsense(原語)に機械的に置き換えるとすれば、意味のない(ナンセンスな)言葉が生れてしまう訳だ。簡単に答えを出せる話ではないけれど、そこには理科系の人も避けて通れない我が国の情報化の基本的課題の一つがあると思うのである。

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図3-1.日本人の感性

日本語のセンスの意味に含まれる”物事の微妙な感じ”は日本語特有のニュアンスのようにも思われるが、それに対応したことばが英語にあるだろうか、とりあえず再び辞書を引いてみよう。答えとしては、ひとまず、senseとは別なsensibilityということばが近いと云えそうである。つまり、sensibilityの意味 には、                    1.(芸術・倫理などに対する)識別能力、感性。                 2.(・・・に対する)敏感さ。                          3.(傷つきやすい)感情、細やかな神経。                    などが挙げられているからだ。ちなみに、sensibilityの語源が後期ラテン語のsensibilitasであることも記されている。ここまでくれば、語形から、sensibility=sense+abilityと分け、sensibilityがsense(=センス)とは別の語であることははっきりしてくる。云い換えると、日本語のセンスの原語はsenseであるけれど、センスの意味に近い語はsenseではなくsensibility なのである。 上のsensibilityの語意には”感性”が含まれている。感性ということを一言で説明せよと云われた時、筆者は”感性とはセンスのこと”、と云うことにしてるが、正確には、”感性とはsensibility”、と云い直さなければならないことになる。

センスにまつわるここまでの話では細かい議論に手間取ってしまったが、ようやく、センスの意味と原語を結びつける道として、センスの意味”物事の微妙な感じ(よさ)を知るこころの働き”に対応する原語はsenseではなく、sensibilityが対応している、という本筋が現れて来たようだ。

しかし、センスの第二の意味に目を向けた場合、sensibilityではセンスの(第二の)意味のバラつきを説明できそうにない、さらに、上で棚上げしたセンスの第一の意味と聞くものをたじろがせるような作用との関係など、センスについては未だ多くの議論が残されている。こうした事を捉えるには、英語などの個別言語が扱う範囲をこえ、歴史的にセンスという語が作られた思想の領域に立ち入らなければならないようだ。

次回これらをまとめて取り上げてみたい。

長島 知正  (2016-11-13)

 

 

 

 

 

 

 

 

”それはセンスの問題だ”(ⅱ)

考えようによっては、”〇〇はセンスの問題だ”という文言の対象範囲が極めて広いという事実は驚くべきことである。何故なら、論理的な正当化という近代が要請する手続きを取っていないとは云え、その文言は、それ次第で事態が大きく変わるような場面で、一瞬のうちになされる判断だからである。

分かり易い例が、従来重要な研究対象と見做されてこなかったスポーツの分野に多く見られるようだ。身近な例としては、サッカーにおける選手達はそのような判断(=センス)の良し悪しによって、評価がなされる典型だろう。他の球技スポーツもほとんど同様に思われるが、さらに興味あるのは、歴史的経緯などが異なっている武道などにもそれに通じるものがあるように見えることである。いずれにせよ、ここで重要なことは、スポーツと云っても、選手の能力は単に筋肉を動かす運動能力ではなく、状況を見極める知的な能力としての判断で評価されている点である。その判断は勿論、時間をかけてなされる論理的推論ではなく、一瞬のうちに下されものでなければならない。私たち見るものは、優れた選手の一瞬の判断(=センス)のすばらしさに魅せられるのである。

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図2-1 魅力はセンスの問題!

”それはセンスの問題だ”という文言が、”センス”ということばによってあたかも聞くものを切り捨てるような独特の雰囲気を産み出し、また一流のサッカー選手の一瞬の判断によって見るものを釘づけにする、そのような効果はどうして生まれるのだろうか。興味をそそる課題である。以下では、センスと云う語の意味を立ち入って検討し、センスとは何かについて掘り下げてみよう。

前回、国語辞典(集英社)を引くことによって、センスとは「物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力」とひとまず考えた。しかし、センスは外来語であるから、国語辞典の編者や執筆者の観点によって、センスの語意の採択や解釈に違いがあることも考えられる。そこで、手元にある幾つかの国語辞典で”センス”を比べてみた。すると、

[1]「物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力。感覚。」(集英社)、       [2]①「物事の微妙な感じ(よさ)を知る心の働き。」、②「普通の人なら当然持っているはずの感覚。常識。」(三省堂)、                        [3]①「物事の微妙な感じをさとる働き・能力。感覚。」、②「思慮。分別。」(広辞苑)

となった。これより、”細かな違い”を気にしなければ、センスの第一の意味は、物事の微妙な感じを捉える働き・能力と云って良い。”細かな違い”に関しては、[1]と[3]には”感覚”ということばが付け加えられているが、[2]ではそれがないことによる。つまり、センスの第一の意味は基本的に、物事の微妙な感じ(味わい、よさ)を知る(感じ取る)(心の)働きとくくれるとして、”感覚”という語が並置されている[1]、[3]では、その働きがこころと感覚双方(知覚と感覚)により、他方[2]では、それは、もっぱらこころの働き(知覚)によるもので、感覚は関与しないと捉えていると、解釈できるだろう。だとすれば、この違いは結局、感覚と知覚を区別して考えるか、区別できないとするかという立場の違いに帰着すると云えそうである。

感覚と知覚の関係の取り扱いは厄介な問題をはらんでいるけれど、ここでは、感覚と知覚が区別できるとして、第一の意味に現れた”センス”の特徴について考えたい。[1]、[2]、[3]の第一の意味に書かれた”センス”は、幸い「事物の微妙な感じ(味わい)」を「知る(悟る、感じ取る)」というコンパクトな形にまとめられる。これより、国語辞典を比較した結果は、「センスの第一の意味は、物事の微妙な感じ(味わい、よさ)を知る(感じ取る)心の働き」と集約されよう。

この要約のポイントは、センスは、”感じる”ことによる一瞬で行う判断であるが、感覚器官による感覚(感じる)とは、”こころ(精神)で知る(感じ取る)”という点で概念的に区別される、ということにある。この”こころの働き”は、勿論、論理的段階を踏んで判断し結論づける過程とは別のものである。そうした事の反映が、”センスのいいデザイン”とか、”ユーモアのセンス”といった既成の表現に見られるが、センスで大切なことは、埋もれている表現を見出すことだろう。意外な発見の契機がそうした表現の工夫の中にこそあるからである。

一方、センスの第二の意味については、[2]は、「普通の人なら当然持っているはずの感覚。常識。」、また[3]では、「思慮。分別。」とある。それらの意味は異なって見える。 結局、外来語センスの意味として、上で議論した「物事の微妙な感じを知る」という第一の意味がどのようにできたのか、さらに第二の意味が何故バラついているか等を理解するには、センスの原語”sense”にその由来を尋ねる必要がある。

考えるに、センスの原語senseには、 nonsense(無意味)、sixth sense(第六感), common sense (常識、共通感覚)等、日本語としては一見無関係のように見える、興味深い語が連なっている。この辺りには多くの話題が残されているけれど既に予定の紙幅を大幅に超えてしまった。それらについては、稿を改めて考えることにしたい。

長島 知正 (2016-10-28)

 

 

 

 

 

 

”それはセンスの問題だ”(ⅰ)

我が国で、”それはセンスの問題だ”と実際云ったことがある人は余り多くないかも知れないが、そのことばには下に述べるような一種独特の響きがある。その文言が発せられる場面を考えると、会話の中で話題にのぼった判断について、その根拠が問われていることが多い。だが、根拠を与えるべき場面で、ただひとこと”それはセンスの問題だ”という答えが返ってくるのである。その時、”センスって何?”と聞けば良いのだが、実際に聞くことははばかられてしまう。その文言はそういう特殊な雰囲気を産むのである。だから、それは聞いた者にそれ以上話を進める気を失なわせ、せいぜい”ああ”、とか”そうだね”と云わせる、一種の問答無用な断定とも云える。

”それはセンスの問題だ”という答え方は、直感による断定と云えるが、それは明らかに、問われたことに対して、根拠となる理由を論理に従って明示的に答える、近代の科学的思考とは異なっている。その文言は科学的、あるいは理性的思考法と相いれないものだから、センスそれ自体、あるいは、センスに頼った直感的判断などは良くないもの、出来るだけ使ってはいけないものと見做そうという気持ちは故なきことではない。そのためかは知らないが、我が国では古くから、”山勘(やまかん)”ということばが”当てずっぽう”でいい加減な予想の代名詞とされてきた。

しかし、そういう答えや態度が科学的なものと相いれないが故に、どこかで反科学的で、意味のないものとか誤ったものといったひどい誤解を産んではいないだろうか。”それはセンスの問題だ”と云う時、論理的な方法によっては当面結論が導けなくても、その代わり直感的判断で結論が得られることも示唆しているのである。誰しも身の周りの出来事の中で、例えば、外見がすっかり変わった友人を瞬時に認識したりするような、科学的に結論を導けそうにないにも拘らず、直感によって言い当てるという経験を一度ならずしているはずだ。

このように功罪相半ばし、一見捉えどころなく見える”センスの問題”について、詳しい様相に立ち入るには、センスの意味を掘り下げる必要がある。

 

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   図1-1.音楽はセンスの問題だ

取りあえず、国語辞典(集英社)で”センス”の語意を調べてみると、”物事の微妙な味わいを鋭敏に感じ取る能力。感覚。”とある。大掴みすれば、下線部にあるセンスの説明は私たちの経験と整合したものと云えるだろう。

ところで、その語意を受け入れるとした時、”それはセンスの問題だ”という文言はどのような分野に適応するのだろう。広い分野に及ぶことは容易に見当がつく。何故なら、”それ”に代入出来る語は非常に広いからである。仮に芸術関係を想定すれば、例えば”芸術はセンスの問題だ”という”まともな”文言になる。また、芸術をいろいろ分けて、例えば”作曲はセンスの問題だ”のようにも使える。芸術関係以外はどうだう。”数学はセンスの問題だ、あるいは”理論物理はセンスの問題だ”等もOKのようである。また、サッカーなどのスポーツでも、十分使える。こうしてみると、”〇〇はセンスの問題だ”の〇〇に該当する分野のすそ野の広がりは恐ろしい程だ。これは、センスが理系・文系と云った既存の学問の枠はもとより、芸術、産業、スポーツのような社会的に作られた壁をはるかに越え、広く機能するポテンシャルを示していると思うのである。

長島 知正      (2016-10-17)