カテゴリー別アーカイブ: 理科系

“理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか(3)

最近、“科学を文化に“あるいは”創造的な工学“といった理科系と文化の結びつきを訴える記事が目に付くようになったこともあり、理科系という立場から本コラムに”文化”に関する話題を何回か続けて書いた。とは言え、気軽に始めた文化の話だが、文化とは実は“とんでもない“テーマで、気楽にまとめられるシロモノでないことがようやく分かってきたらしい。しかし、後悔先に立たず。ここでは、これまでと違う視点から議論をした後、表題の問に対してとりあえずの答をまとめる事にする。

まず、表題に関する論点として、現在大学等で行われている研究と市民生活の関係を考える。そのため、以下ではやや特殊な研究活動の面に立ち入ることになるが、大学は今日文化とどうかかわっているかというさらに本質的問題にも関わっているから、ここで取り上げることにしよう。理系出身の筆者が文化という言葉で思い出すのは、まだ研究を始めたばかりのころ指導を受けた先生達から、科学者には、文化の話は一種のタブーだ、という話を聞いたことである。当時を振り返ると、そのワケを聞くこともなく、文化とは文化勲章を授けられるような人達が考えるものだということかな、と単純に受け止めた覚えがある。現在でも、理系の研究者の中には、文化とはどこか遠くにある、“何か高尚なモノ”といったイメージを持っている人もかなりいると思う。

ところで、20世紀に入り科学技術の進歩が経済発展の根本にあるという見方が世界的に定着するに従って、科学技術を進める基本的な形態は、研究者個人の好奇心から社会的な要請を受けた形に移っていった。その結果、技術立国を目指したわが国や先進国の間では成果を巡る競争から、研究では分業や細分化が進み、また専門化も加速された。今日では、専門分野に応じておびただしい数の学会が設立され、それぞれの学会を舞台に専門家による研究が進められている。研究の成果は専門論文誌に公表される。ここで研究の質を支えているものに、論文誌ごとに設けられた専門家による審査制度(ブラインド・ピア・レビュー)がある。こうした科学的論文の審査制度に問題がない訳ではないが、世界的にほぼ共通した形式で行われ、現在の科学的研究体制を支える基盤である。論文審査は研究者にとって、研究費獲得に繋がる非常に重要なものであるが、一方では、研究者以外の人には実質的に無関係なことや、一つの学会の中でも、専門が異なる分科会の研究発表を聞いても分からないことが“常識”と云われる現実があることも付け加えなければならない。

一般に、研究の急激な専門分化は専門家と非専門家の間の相互理解(コミュニケーション)を困難にする。研究者間の話であれば、これは特殊な問題と云えるけれど、市民が非専門家として関わる場面では、両者の乖離は社会的問題になる。つまり、市民から見ると、大学など研究機関が行っている研究は一体どんなものなのか、日常生活の感覚で内容を把握し、判断するのは困難ということだ。言い換えれば、近年の激しい専門分化に伴って、理系・文系に関わらず、専門的研究全般が事実上日常生活との接点を失い、市民と乖離してしまったのである。こうした事態には問題が多いことが既に環境問題などで知られているが、正面から取り組む話は未だ少ない。

このような研究者と市民の間の乖離現象は、本コラムのテーマ“理系・文系の話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか”という課題に全体的に関わることは明らかだろう。つまり、それは市民の中に文化的活動を根付かせる阻害要因になっているのである。近年、“科学を文化に“という学術団体のシンポジウムなども開催され、それ自体は結構なことなのだが、裏返せば、”科学が文化になっていない“という現実の何よりの査証だろう。

               図1.伝統文化

上述の結論は、これまでの議論とどう関係しているだろう。問題は、“わが国は教育熱心であるけれど、理系あるいは文系の文化が根付かないのは何故だろう”であるが、これまで導かれた理由をキーワードの形で挙げれば、第1回目では翻訳語の意味の不確定性、また第2回目は、わが国のタテ(場)優先の社会構造であった。今回の科学研究の急激な専門化というワケは、日本社会固有の特性ではなく、むしろグローバルな性質であり、また、異文化を理解するための翻訳の問題に通じるところもあるようだ。こうした考えを加えて、大雑把に、これまでの議論をまとめてみよう。

まず、グローバルな要因に、(1)文化、科学などのような西洋の概念に対する翻訳(意味)の不確定性、および、(2)研究の専門化に伴う科学全般の市民生活からの乖離、また、わが国固有の要因としては、(3)タテ(場)優先の社会構造がある。

これまでの結論は以上のようにまとめられるが、抽象的だから、少し具体的な形で議論しよう。

そのためここでは、わが国社会のタテ(場)優先という特性に的をあて、“何故、理系・文系の話題が文化として根付きにくいか”という課題を掘り下げてみる。前回議論したように、わが国では現在もタテ(場)優先の構造が成り立っているとすれば、日本は個人の職能より、集団による場が優先する社会ということになる。つまり、日本の社会は、タテ(場)優先-ヨコ(職能)優先という対立軸によって特徴づけられる。また、それと独立に理系-文系という対立軸が考えられる。そこで、これらの対立軸を重ねて、わが国のさまざまな集団の文化的特性の把握を試みてみよう。ここでは、それらの対立軸を平面上にとって、その上に代表的な集団を配置させた(図2)。

図2.各種グループのマップ

図2のマップからどんな特徴が読み取れるだろう。まず、スノーが指摘した英国に見られる人文系と自然科学系の知識人グループの乖離現象は個の職能に関わる典型的事象だから、上半面に①のように左右に分離してマップされる(①)。対照的に、中根が指摘した日本的企業組織の特徴はタテ(場)優先とされるから、下半面にマップされる(②)。同様に、わが国社会の官僚組織や政治組織などの他、相撲など伝統的活動を行う集団に典型的なタテ(場)優先の特性が認められる。

続いて、わが国を対象として、スノーが考えたと同様な人文系・自然科学系の専門的グループのマップを考えてみよう。人文系にせよ自然科学系のグループにしても、活動の今日的形態としては、作家などのような個人活動、あるいは、主に大学のような個を中心とした組織で行われている。従って、そこでは原則として個人の意思に基づいて意思決定が行われているから、基本的に上半平面に配置され、(③ではなく)①に位置づけられる。このことから、前述したような日本的企業組織とは明らかに一線を画して存在していると云えよう。だが、ここで対象になっている人文系および自然科学系分野の研究者にわが国社会のタテ(場)優先性の影響は何もないのだろうか?  タテ(場)優先性は、個より集団の場を優先する思考であり、西欧的な思考法と対立すると見做されるから、科学的な思考を身に着けた研究者に受け入れがたいことは良く分かる。しかし、西欧的科学思考によって専門的研究を進めるわが国研究者に“科学は文化になっていないのでは”という思いを抱かせているのは、その影響の現れではないのだろうか。前回述べたように、中根の議論にある“場”には、そこに通底する性質として情(念)、特に共感がある。今後議論が必要なことはもちろんだが、そこに、科学技術として現在一体的に捉えられて、ほころびが見える自然科学と工学の関係を多重的関係に組み替える手がかりを期待しているのである。

日本社会のタテ(場)優先性を60年前に指摘した中根は、個人を“われわれ”と、また自分の所属組織を”ウチ”と表現する、日本人の会話を取り上げ、情緒性が支配して、そこには通常弁証法が全く使われないと云って、日本人の論理性のなさを嘆いてみせた。だが一方で、中根の議論には古さをよしと感じさせるところもある。古いということは意味がないことなのか。少なくとも、新しものを求める技術社会でも、文化を考えることはそのような見方を見直す契機になるのではないだろうか。

 

長島 知正   (2017-07-31)、(2017-08-01;字句修正)