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言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか[2]

「他者との間で話が通じること」はことばの大切な特性であるが、それは常識の働きも代弁する。実用に根差した自然言語は所属する社会の共同体の意識を形成し、それが社会の常識を底から支えている。常識はそのようにことばと縦横に繋がって作られるからだ。”常識”には“ありふれて凡俗なモノ”といった響きがあるため、それ自身検討に値しないと思い込みがちであるが、その一方で、常識は思考などに枠をはめ、それによって人を縛る。情報化時代とは、そうした常識の縛りをいかに緩め、そこから抜け出し、どのように新しく組み替えていくかが、これまで以上に問われることではないのだろうか。

ところで、話が通じるという言葉遣いは、「心が通じる」という連想を誘い文学的な広がりを持つ一方、そこにアイマイさを含み、言葉を科学的な研究の対象から遠ざける要因となってきた。そうした見方が支配する言葉の世界に、ソシュールは話が通じるとは、「話し手の話の意味が聞き手に伝達される」ことであるという立場を明らかにすることによって、言葉の性質を”科学的に”解明する先鞭をつけた。それは、本格的に原子レベルでモノを扱う科学技術が始められようとしていた20世紀初頭の事であった。だが、考えてみると、ことばはモノではないから、それ自身手にとって見える対象ではなく、科学的とは言っても捉えどころがないようにも思える。「話が伝わる」と思っても、ひょっとすると本当は何も伝わっていないのかもしれないという疑念を完全に消し去るのは難しいからだ。それ故、人間のことばを”科学的に”探求することには原理的な問題を含み、とりわけ、方法自体に大きな問題があることは現在も変わらない。

今から見ると、若いソシュールが”記号”を盾にそうしたことばの問題に挑もうとした気持ちはよく分かるモノを対象にした科学技術は、哲学的な問題を別にすれば、実用的な意味ではこれまで十分発達を遂げてきた。対照的に、モノとは言えない、広い意味のコトの世界については未解決なことが沢山ある、というより、見方によっては未だほとんど手付かずと言えば、“言い過ぎ”と文系の人から非難されるのだろうか。いずれにしても、我が国では、このような意識を持つ理系の人はあまりに少ないようだ。今回のコラムでは、ソシュールが確立しようとした、ことばの意味が完全に伝達されるという“理想的なコミュニケーション”とは対照的な、もう一つのコミュニケーションの型があることを紹介したい。そこから、現在社会に広く遍在する、理系・文系の間の深い溝が垣間見えてくるように思われる。

手短に前回の話をしておこう。「話が通じる」とは、話し手から聞き手にことばの意味が伝達されることと言ったが、意味の伝達は、宅配便で梨が甲から乙に届けられたという場合のように、確かに届いたか直接確かめるすべはない。意味それ自身は見たり、聞いたりできないからだ。だから、聞き手が自分の感覚を使って“聞き”、あるいは“読む”ことが可能になる何らかの手段(記号)を用いて意味を表示しない限り、ことばで(送り手の)考えなどは伝えられない。言葉は、思考や思いを可視化する一種の手段なのである。一方、ソシュールは、意味を伝える実用的手段として言葉を機能させるため、音声などの自然現象と一線を画す制約として、”ラング”という枠を置いて一般言語学を構想した。その中で、単語の意味が伝わる仕組みに焦点を絞ったソシュールは、単語を音素列によって(音声)記号を表示し、また表示された記号(単語)の意味を概念とすることによって、「言葉は何故伝わるか」に答えようとした。

図1.ことばのコミュニケーション・モデル

ソシュールはこのように「言葉は何故通じるか」を問うことで、言葉の科学的な探求を創めたが、私たちはことばが通じない多くの経験をしている。実際、私たちが日常言葉を意識するのはむしろそのような場合だろう。通じると思っていることばは、何故「通じないのだろう」と。その理由は一つでなく、様々な理由があるに違いない。ここでは、理系の人を念頭に、話し手と聞き手の間で言葉が交わされる過程を「コミュニケーション」と捉え、何故ことばは完全に通じたり、あるいは反対に全く通じないといった事象が起きるか検討しよう。ことばの伝達をコミュニケーションとする見方は既にソシュールにも見られるが、理想化したコミュニュケーションを考えることによって、対立する性質などが浮き彫りにされることを期待できるだろう。

図.1は話し手と聞き手の間のことばによるコミュニケーションの概念図である。図の発信者からのメッセージとは、発信者の頭にある考えや思い(伝達内容)をコードに従って音声(または文字)によって記号表現された情報である。経路を通して右側の受信者が受け取ったメッセージは再びコードに従って解読(デコード)される。もし、発信者と受信者が勝手なコードを採用した場合、もちろん受信内容は伝達内容と同じにならず、話は伝わらない。正確に話が伝達されるためには、受信側のコードは発信側のコードを”逆対応”させていなければならない。図.1のコミュニケーションの過程は、ソシュールが考えた「ことばが通じる仕組み」と基本的に同じだが、”コード”という語が使われている点などに違いがある。コードとは、簡単に言えば、メッセージの作成に使われる記号(単語)とその意味を集めた辞書および記号(単語)の結合の規則(文法)の両者から成っている。

この型のコミュニケーションは、発信者が予め決められた伝達内容をコードに従って正確に記号化すると共に、受信者は共有されたコード通りに間違いなく伝達内容を解読する事で成立する。この過程の全ての作業が正確に実行される時、伝達内容は正確に受信者に伝えられ、その意味で理想的なコミュニケーションが実現する。しかし、伝達に必要なコードの条件が充たされる場合、話は理想的に伝わるけれど、話し手受け手の人間は主体的な活動をせず、予め決められた作業を忠実に行う、いわばロボットという立場で実現する訳である。言い換えれば、理想的コミュニケーションは“人間の主体性が無視される状況で実現する”という、機械と人間の関係の皮肉な結果なのである。このような”理想的なコミュニケーション”は主体性がある人間の言葉としてふさわしいカタチと言えるのか、こう問われれば、恐らく多くの人はふさわしくないと言うだろう。実際、人間のコミュニケーションでは、外国人との会話に見られるような意味を逸脱させた形で話をしたり、また詩のように社会的に流通している意味、つまり常識を意図的に無視した言葉遣いによって成り立つ活動が行われている。こうした面に少し目を向けてみたい。だが、それらの間には対立があるということを知っている人もいるに違いない。 とは言え、今まで理系の人には馴染の薄い観点だから、理想的なコミュニケーションの対極にある、もう一つの言語観、つまり人間の主体性を取り入れた言語観を紹介することも今日無駄ではないだろう。

ところで、人間には主体性があるとはよく言われることだが、その主体性に“不確定さ”が含まれることは忘れられがちだ。この“不確定さ”は、一口で言えば人間の“予測不可能性”と云えるだろう。こうした”人間の自律性”に立脚した見方に立てば、主体性を取り入れたコミュニケーションにも必然的に不確定さが入ることになる。以下では、このような不確定な要素を持つコミュニケーションのモデルを取り上げ、理想的なコミュニケーション、つまり、話し手から聞き手に話が間違いなく伝わるということばの機能と対照的な、もう一つの言語観を見ることにしよう。

 

図.2 ワンちゃんとの会話は推論型コミュニケーション

 

理想的なコミュニケーションでは、送り手と聞き手は共通のコードを用いることによって送り手のメッセージが聞き手に間違いなく伝達される。この過程に参加する聞き手は、送り手からのメッセージを正確に把握するべく同じコードの使用を事実上強制されているから、それは、送り手主体のコミュニケーションと言える。

これに対して、“ナンセンス詩”などに典型的に見られる、送信者のメッセージがコードを大きく逸脱している場合、受信者は可能な文脈(コンテクスト)を利用して、メッセージを作成した送信者が使用したと思われるコードを逆に推定するしかない。言い換えれば、この型のコミュニケーションは、送り手が発する常識では捉えきれないメッセージを聞き手が主体的に解釈することになる。だから、聞き手主体のコミュニケーションと言えるだろう。ここで、注意すべきは、聞き手主体のコミュニケーションでは、送り手の発するメッセージ(意味)は、あたかも伝送路を機械的に聞き手に伝達される理想的コミュニケーションとは全く異なった形で“伝わる”点である。この”伝わる”ということばは誤解を招きやすく、むしろ“推定される”と言うべきなのである。つまり、送り手のメッセージは決して因果的に聞き手に伝わるワケではないのである。その意味では、”推論型のコミュニケーション”と呼ぶことも出来るだろう。こうしたコミュニケーションは詩的なことば遣い、例えば、“煮えたぎる憎しみのつらら”のような形で見られるが、そこでは、ことばは意味を伝達するという実用的手段としてではなく、聞き手に新しい意味をもたらすという形で、意味自体を創る機能をしている。ここで容易に見て取れるように、それぞれの型のコミュニケーションでは、言葉に対する価値観の大きな違いが現れる。

上で、理系の人にとってはおそらく新しい言語観を非常な駆け足で紹介した。詩人と云えども、日常生活では詩的なことば遣いは抑えていると思われるけれど、そのような言語観を知らない人が、こうした言葉遣いを身につけているグループの人といきなり会ったとすれば、至極当然、会話不全は起こるだろう。このことは、一昔前にスノーが指摘した”20世紀科学革命による人文系・理系二つの文化における乖離現象”の内実を説明すると思う。また、本コラムの主題に引きつけるなら、(現状においては)理系と文系という異なる文化圏に属する人たちの言葉が伝わらないのは当然である。なお、理系で使われる言葉は、日常生活で使うような多義性を含むあいまいな言葉とは区別されるが、正確な意味を伝えるという点で上述した理想的なコミュニケーションの型に属している事に注意したい。

ここまでの話をとりあえずまとめておこう。理想的コミュニケーションでは、送り手や聞き手の人間は、予め決められた内容をコードに従って記号化(あるいは解読)する主体性のないロボットと見做せる。詩的ことばの場合を参照すれば明らかなように、人間の主体性がことばに関与する仕方は、コミュニケーションに大きな影響を与える。記号論では、記号とそれを使用する人間の関係を語用論(実用論)と呼ばれるが、統語論や意味論のような科学的な研究が進んだ領域とは対照的に、そこでは科学的研究は実質的に進んでいると言えないようだ。この間の事情は、丁度、これまで科学技術が人間を含まない領域で大きく発展したけれど、他方、人間が関与する領域では行き詰っている現象と平行している。その意味で、ことばが情報化された科学技術や工学のモデルになるという見方は不思議ではないと思う。今後、そうした見方から、何か理系・文系の区分けに関わる常識について考えてみたい。

次回、常識を逸脱するコードによって、科学的な常識では届かないような世界が現れることを取り上げる予定。

 

長島 知正  (2017-09-30)

 

“理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか(3)

最近、“科学を文化に“あるいは”創造的な工学“といった理科系と文化の結びつきを訴える記事が目に付くようになったこともあり、理科系という立場から本コラムに”文化”に関する話題を何回か続けて書いた。とは言え、気軽に始めた文化の話だが、文化とは実は“とんでもない“テーマで、気楽にまとめられるシロモノでないことがようやく分かってきたらしい。しかし、後悔先に立たず。ここでは、これまでと違う視点から議論をした後、表題の問に対してとりあえずの答をまとめる事にする。

まず、表題に関する論点として、現在大学等で行われている研究と市民生活の関係を考える。そのため、以下ではやや特殊な研究活動の面に立ち入ることになるが、大学は今日文化とどうかかわっているかというさらに本質的問題にも関わっているから、ここで取り上げることにしよう。理系出身の筆者が文化という言葉で思い出すのは、まだ研究を始めたばかりのころ指導を受けた先生達から、科学者には、文化の話は一種のタブーだ、という話を聞いたことである。当時を振り返ると、そのワケを聞くこともなく、文化とは文化勲章を授けられるような人達が考えるものだということかな、と単純に受け止めた覚えがある。現在でも、理系の研究者の中には、文化とはどこか遠くにある、“何か高尚なモノ”といったイメージを持っている人もかなりいると思う。

ところで、20世紀に入り科学技術の進歩が経済発展の根本にあるという見方が世界的に定着するに従って、科学技術を進める基本的な形態は、研究者個人の好奇心から社会的な要請を受けた形に移っていった。その結果、技術立国を目指したわが国や先進国の間では成果を巡る競争から、研究では分業や細分化が進み、また専門化も加速された。今日では、専門分野に応じておびただしい数の学会が設立され、それぞれの学会を舞台に専門家による研究が進められている。研究の成果は専門論文誌に公表される。ここで研究の質を支えているものに、論文誌ごとに設けられた専門家による審査制度(ブラインド・ピア・レビュー)がある。こうした科学的論文の審査制度に問題がない訳ではないが、世界的にほぼ共通した形式で行われ、現在の科学的研究体制を支える基盤である。論文審査は研究者にとって、研究費獲得に繋がる非常に重要なものであるが、一方では、研究者以外の人には実質的に無関係なことや、一つの学会の中でも、専門が異なる分科会の研究発表を聞いても分からないことが“常識”と云われる現実があることも付け加えなければならない。

一般に、研究の急激な専門分化は専門家と非専門家の間の相互理解(コミュニケーション)を困難にする。研究者間の話であれば、これは特殊な問題と云えるけれど、市民が非専門家として関わる場面では、両者の乖離は社会的問題になる。つまり、市民から見ると、大学など研究機関が行っている研究は一体どんなものなのか、日常生活の感覚で内容を把握し、判断するのは困難ということだ。言い換えれば、近年の激しい専門分化に伴って、理系・文系に関わらず、専門的研究全般が事実上日常生活との接点を失い、市民と乖離してしまったのである。こうした事態には問題が多いことが既に環境問題などで知られているが、正面から取り組む話は未だ少ない。

このような研究者と市民の間の乖離現象は、本コラムのテーマ“理系・文系の話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか”という課題に全体的に関わることは明らかだろう。つまり、それは市民の中に文化的活動を根付かせる阻害要因になっているのである。近年、“科学を文化に“という学術団体のシンポジウムなども開催され、それ自体は結構なことなのだが、裏返せば、”科学が文化になっていない“という現実の何よりの査証だろう。

               図1.伝統文化

上述の結論は、これまでの議論とどう関係しているだろう。問題は、“わが国は教育熱心であるけれど、理系あるいは文系の文化が根付かないのは何故だろう”であるが、これまで導かれた理由をキーワードの形で挙げれば、第1回目では翻訳語の意味の不確定性、また第2回目は、わが国のタテ(場)優先の社会構造であった。今回の科学研究の急激な専門化というワケは、日本社会固有の特性ではなく、むしろグローバルな性質であり、また、異文化を理解するための翻訳の問題に通じるところもあるようだ。こうした考えを加えて、大雑把に、これまでの議論をまとめてみよう。

まず、グローバルな要因に、(1)文化、科学などのような西洋の概念に対する翻訳(意味)の不確定性、および、(2)研究の専門化に伴う科学全般の市民生活からの乖離、また、わが国固有の要因としては、(3)タテ(場)優先の社会構造がある。

これまでの結論は以上のようにまとめられるが、抽象的だから、少し具体的な形で議論しよう。

そのためここでは、わが国社会のタテ(場)優先という特性に的をあて、“何故、理系・文系の話題が文化として根付きにくいか”という課題を掘り下げてみる。前回議論したように、わが国では現在もタテ(場)優先の構造が成り立っているとすれば、日本は個人の職能より、集団による場が優先する社会ということになる。つまり、日本の社会は、タテ(場)優先-ヨコ(職能)優先という対立軸によって特徴づけられる。また、それと独立に理系-文系という対立軸が考えられる。そこで、これらの対立軸を重ねて、わが国のさまざまな集団の文化的特性の把握を試みてみよう。ここでは、それらの対立軸を平面上にとって、その上に代表的な集団を配置させた(図2)。

図2.各種グループのマップ

図2のマップからどんな特徴が読み取れるだろう。まず、スノーが指摘した英国に見られる人文系と自然科学系の知識人グループの乖離現象は個の職能に関わる典型的事象だから、上半面に①のように左右に分離してマップされる(①)。対照的に、中根が指摘した日本的企業組織の特徴はタテ(場)優先とされるから、下半面にマップされる(②)。同様に、わが国社会の官僚組織や政治組織などの他、相撲など伝統的活動を行う集団に典型的なタテ(場)優先の特性が認められる。

続いて、わが国を対象として、スノーが考えたと同様な人文系・自然科学系の専門的グループのマップを考えてみよう。人文系にせよ自然科学系のグループにしても、活動の今日的形態としては、作家などのような個人活動、あるいは、主に大学のような個を中心とした組織で行われている。従って、そこでは原則として個人の意思に基づいて意思決定が行われているから、基本的に上半平面に配置され、(③ではなく)①に位置づけられる。このことから、前述したような日本的企業組織とは明らかに一線を画して存在していると云えよう。だが、ここで対象になっている人文系および自然科学系分野の研究者にわが国社会のタテ(場)優先性の影響は何もないのだろうか?  タテ(場)優先性は、個より集団の場を優先する思考であり、西欧的な思考法と対立すると見做されるから、科学的な思考を身に着けた研究者に受け入れがたいことは良く分かる。しかし、西欧的科学思考によって専門的研究を進めるわが国研究者に“科学は文化になっていないのでは”という思いを抱かせているのは、その影響の現れではないのだろうか。前回述べたように、中根の議論にある“場”には、そこに通底する性質として情(念)、特に共感がある。今後議論が必要なことはもちろんだが、そこに、科学技術として現在一体的に捉えられて、ほころびが見える自然科学と工学の関係を多重的関係に組み替える手がかりを期待しているのである。

日本社会のタテ(場)優先性を60年前に指摘した中根は、個人を“われわれ”と、また自分の所属組織を”ウチ”と表現する、日本人の会話を取り上げ、情緒性が支配して、そこには通常弁証法が全く使われないと云って、日本人の論理性のなさを嘆いてみせた。だが一方で、中根の議論には古さをよしと感じさせるところもある。古いということは意味がないことなのか。少なくとも、新しものを求める技術社会でも、文化を考えることはそのような見方を見直す契機になるのではないだろうか。

 

長島 知正   (2017-07-31)、(2017-08-01;字句修正)