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共感の視点(9)

共感の視点(9):感性は感動もする

 

○ 感動を消費する社会

デュシャンによる「泉」の出現が象徴しているように、20世紀に入ってからの(現代)芸術には、美を基軸とする美術や音楽など(近代)の芸術と大きく異なった面が現れるようになった。

前回、岡本太郎の感性をモチーフとしたエッセイ(「感性は感動しない」、椹木野衣)を通して、芸術における変化の一端を垣間見た。

 

美術批評家の手になるそのエッセイの芸術観については後で議論するとして、ここではとりあえず、エッセイのタイトル“感性は感動しない”に込められた主旨を筆者の解釈に従ってまとめておくことにしよう。それは以下のようなものである:

優れた芸術作品に触れた時、人は“感動”という言葉をしばしば使う。だが、それは往々にして、こころの奥深くから心を動かすというより、社会的常識や専門的知識に頼った表層の反応である。芸術における感性は、そうした社会的な縛りから解き放された個人がこころの底で感じる生の手触りだ。

 

“確実に4回泣ける”といった映画のキャッチコピーがあったが、感動を“コスパ(費用対効果)で測り、消費する” 最近の社会の状況が“感性は感動しない”と言わせる背景なのかも知れない。こう考えれば、“感性は感動しない”と言いたくなる気持ちはよく理解できる気がする。

 

だが、“感性は感動しない”とは一体どういうことなのか。前回、あからさまにその問題に立ち入ることは避けたが、“感性は感動とは全く別のモノだ”と言っているのだろうか。

そのエッセイでは“感動”は随分悪者扱いされ、例えば、「ある意味で、芸術にとって、感動は諸悪の根源だ」と言われたりしているが、感動自体どういうモノか、感性と感動の関係を言及するのであれば、答えなければなるまい。

 

本稿では、芸術とは異なった領域の“スポーツ”を取り上げる。そこには、双方の観客に“よく似た顕著な反応(=感動)”が見られるからだ。以下では、まず、互いに似た反応が起きるのは何故か、また、よく似た反応が起きる事の意味について考える。その後、“感性は感動しない”という文言の意味を検討する。

図1 サッカーのクライマックス

 

〇 感動とは何か

ギリシャ悲劇のような芸術に感動の原点があるとしても、感動が芸術に限られている訳ではない。とりわけ、20世紀後半以降の現代芸術では、芸術の範疇が広がり、明快な境界が失われるという変化が起きている。つまり今日、芸術(やそれぞれ)の分野に入る絵画や音楽といった要素の組み替えや芸術(やそれぞれの分野)の境界それ自体の変更が進行していると言えるのかも知れない。その上、芸術以外の領域での感動体験も話題になることも珍しくない。例えば、探査機“はやぶさ”が3億キロもの長旅の後、小惑星“リュウグウ“に到達するといった科学技術による新たな達成などに、多くの人が感動しているようだ。

 

以下、精神的な活動と見做される“芸術”とは対照的に、もっぱら肉体を駆使する競技とされてきた“スポーツ”を取り上げる。ここでは、特に、ロック音楽およびサッカーに注目し、それらの観客の間によく似た反応として感動がどのようにして生まれるかを通じて、芸術分野における変化の一端に目を向けてみよう。

なお、感動と言う言葉の語義も一義的ではないようだが、以下ではとりあえず、遭遇した出来事に心を動かされ、我を忘れて熱狂する、と言った意味で使うことにする。

 

筆者の音楽経験は貧しく適切ではないが、とりあえずロック音楽に目を向けることにする。1950年代のわが国では大抵の人は、豊かなアメリカの生活を夢みて毎日ただ働くことに精一杯だった。その時代に創られロックンロールの波は米国を越え、わが国にもメディアを通してすぐ伝わってきた。

プレスリーのものまねと揶揄されながらも、人々は和製ロックンローラーによるロックのライブに非日常の昂奮を体験した。その後、ビートルズの来日などを経て、ロック会場を埋め尽くす観衆の熱狂ぶりは、音楽の領域を越えて社会的耳目を集めた。そのような現象は近年のAKB48の公演などを通じて、わが国の日常に浸透したようだ。それは、礼儀正しくおとなしいと言われる日本人の隠された面を見せているのかも知れない。

 

 

○ スポーツは芸術に似ているのか

スポーツにおいて、同様な反応が見られる例の一つはサッカーだろう。一昔前まで、我が国を代表するスポーツは相撲や柔道などのような伝統的な武道であったが、サッカーはわが国のスポーツ界に大きな変化を与えた。

サッカーにおけるJ-リーグの成功はビジネス上の成功と見られがちだが、スポーツを倫理的な縛りから開放し、スポーツは面白さを自由に楽しむものという面を引き出したことは重要だろう。それは“遊び”というスポーツ本来の性格を照らしだしているからである。

 

音楽の演奏会には、プレイヤーの演技があって、観客はそれを見て(聞いて)いるという基本的構図があるが、その構図はサッカーも同様である。そこには、プレイヤーと観客の視点とがあるが、とりあえずここでは観客の側に注目しよう。

 

サッカーはゲーム形式の試合だから、観客は敵・味方に分かれる点を含め、ロック音楽とは基本的に違うところがある。にも拘らず、非日常的な体験に期待を膨らませた観客がクライマックスを迎える場面で興奮し、我を忘れて熱狂するという現象はロックの観客と共通している。双方の観客が示す顕著な反応は“感動”と呼べる特徴を持っている。

図2 ロック演奏

ところで、ロック演奏会場の昂奮は、悲劇などの舞台劇で見られるものに類似していると言えるかも知れない。一方、肉体を極限まで駆使して競うスポーツでの反応(=感動)はどうなのか、以下少し掘り下げてみよう。

 

 

○ 似た反応(=感動)はどのようにおきるのか?

考えたい問題は、サッカーの観客は、ロック会場の観客とは異なった感覚刺激を受けながら、何故同じような感動と言う反応をするのか、である。

 

少し唐突だが、最初に、筆者の考え(答え)を述べることにしよう:

「双方の観客によく似た反応(=感動)がおこる一義的な理由は、演奏者や選手などのプレイヤーによる身体を駆使した個人技や一瞬の判断力に魅せられて心を動かされたから」

である。

以下、少し内容に立ち入ろう。

ここでは特に、サッカーの観客がロック音楽の観客と良く似た反応(=感動)をしている理由に的を絞る。そのため、“劇的”という特性に注目しよう。感動と言う日本語の語源は「ああ~!」という感嘆にあるように、感動には、想定を超える意外性がもたらす“驚き”の要素が欠かせないからである。

スポーツでも音楽同様にルールがあるけれど、ルールの性質は両者で質的な違いがある。楽譜に従う音楽の演奏と異なり、サッカーのルールは緩いから、選手の行動は基本的に予測できないか非常に困難である。したがって、サッカーは脚本のないドラマと言えるように、劇として両者は大変違った性格を持っている。とは言え、双方の観客はプレイヤーが演ずるそれぞれの劇(=ドラマ)の展開に身をゆだね、展開がクライマックスを迎えた時、高まった自らの感情を一気に爆発させる(=感動する)。

その上、昂奮に我を忘れた観客は、他者との垣根を越え、周りと同調した集団的行動をとることになるのではないか。

サッカーとロック双方の観客に似通った反応(=感動)が起きる上の理由(*)は単純化し過ぎているかも知れないが、基本的な要因は含まれていると思われる。

 

〇 まとめ

一流のスポーツ選手が全力を挙げて戦う試合中の身体の動きには、無駄のない、自然な美しさを感じさせる。

サッカーとロック演奏でも観客の感動は、演技中の優れたプレーヤの身体を駆使する技と瞬間的判断(センス)に自らの身体能力と精神を重ね、同じ人間としての可能性を想像することから生まれる(**)、と考えられる。ここに、本質的に横たわっているのは共感であろう。

 

サッカーのゲームと音楽ライブは異なるイベントである。そうした別のイベントを体験する観客が互いに似た顕著な反応(=感動)をするのは、未だ明確にはなっていない何か互いに近い(似通った)要素を夫々のイベントが持っているからだろう。

いつか、両者(サッカーとロック)を一つのまとまったグループのモノとして認識する人が現れるようになる可能性を示唆している。敷衍すれば、感動と言うこころの働き(感受性の)働きを介して、異なる領域で生まれ育ったスポーツが芸術と融合する可能性を示唆するが、身近なところで言えば、落語やJ-Popなどは芸術に含まれるのか、と言った日常事がここには関わっているのである。芸術にせよ、スポーツにせよ人間が作ったモノでは、それを規定する概念は決して固定されていない。わたしたちはその変化自体を知覚できないため、いろいろな分野で起きている変化を気づかないだけである。

人は感動する時、言葉を失っている。その体験も、多くは言語化されないまま心に留まり(***)、記憶として蓄積されていくことになる。感動の意義の理解を深めるには、上述したような隠れた機能に着目することが大切ではないか。

 

最後に、“感性は感動しない”という文言の意味について考えよう。

感性は感動しないというエッセイでは、「よい芸術は、見るひとの心を動かし、いてもたってもいられなくなるほど揺さぶるものだ。そのような根底から人間の生き方に影響するのが芸術だ」という。このように芸術を感じる感性は、社会的に汚染されることを拒み、人間の自由に絶対的価値を置く。それ強調して「感性は感動しない」と言ったのである。そうした芸術観を筆者も認めないわけではない。

が、問題は、上の説明を言い換えれば、「芸術は人に根底から感動を与える」と言うことだ。この説明には、芸術に関する感性についての語義矛盾がある。これは何を意味しているのだろうか。

そう、この文言には意味などないのである。美術批評家のワナにはめられたのだ。つまり、“燃え上がる冷たい炎“同様、逆説的な表現で「感性は感動する」と強調しているのである。

 

しかし、上の解釈は良いとしても、“根底から”と言う特別な感動のみを指向する「感性は感動しない」という文言は独我論を感じさせる。それが、エリート芸術の意識に重なるのであれば、近代(以前)の芸術に逆戻りすることにならないのか。

そこには、科学にも同質の問題があるのではないだろうか。

 

 

長島 知正   2019-04-23(付記追加・字句修正:04-29)

 

付記:

サッカーとロック夫々の観客が似通った反応をする理由として推定された、双方の観客に共通する要素(*)あるいは(**)が”言語化されないままこころに留まっている”(***)内容に関わっていると想定される。そうした仕組みには共通感覚”の関与が考えられるが、それらについては別の機会に議論したい。

 

 

 

共感の視点(8)

共感の視点(8):岡本太郎の感性と感動

 

  • 緒言

 時代劇大河ドラマなどを書いた作家堺屋太一が元通産官僚で、団塊の世代といった言葉を造り、1970年大阪万博のプロデュースしたことは良く知られている。日本人にはめずらしい多才ぶりを発揮した堺屋だが、結局のところ彼の関心は戦後社会のいく末だったのではなかろうか。とは言えここで、彼の追悼をしようと言うのではない。

大阪万博のシンボル“太陽の塔”を創ったのは岡本太郎であるが、その岡本の感性を取り上げたいのである。岡本太郎はテレビ全盛の時代、TVにしばしば出演し、目をむき顔を紅潮させて“芸術は爆発だ“などと叫んでいたことを記憶している人もいるだろう。

 

岡本はわが国のおける前衛芸術の第一人者とも言われていたが、大阪万博のあの”太陽の塔“は岡本の芸術思想を体現したものであろう。巨大なエリマキトカゲが両手を広げて立っているようなあの塔は、確かに”美しくない“印象を与える。堺屋は2025年の万博開催に意欲を示していたが、2度目の敗戦を経験しているともされる現在、どんな未来を描こうとしていたのだろう。

 

1996年に没した岡本が活躍した時代は戦後の経済発展の時期にも重なっている。我が国経済の盛衰については多くの議論がある。他方、その時代の芸術活動は、多くの人たちが親しみを持つ近代の絵画や音楽とは異質な方向に向かい、“現代芸術”に移り出した変化が話題にされることはほとんどない。一般に、絵画にかぎらず、現代芸術は難解で近寄りがたくて、敬遠したいという気持ちがあるからだろう。それは、筆者を含め多くの人が待つ率直な印象でないだろうか。

幸いなことに、現代美術の批評家による一般向けのエッセイを偶然目にした。以下では、そこに登場する岡本太郎を手掛かりに、現代の芸術で感性や”感動“がどう捉えられているか一考したい。

 

 

  • 現代芸術:“美しくない”美術・音楽

 とは言え、美術評論家は口をそろえて芸術に知識など全く不要だ、と説く。とすれば、ここで本コラムも閉じざるをえなくなる。だが、人によっては、何か新しいことを始めるには、動機づけがなければならないと考えることもあるだろう。また、このコラムで現代芸術を正しく理解をしようなどと考える人はいないはずだから、肩ひじはらず思いつくことを記すことにしよう。

 

フェルメールの展覧会などには、長蛇の列ができるほど大勢の人がおしかける事だろう。また、モーツァルトをはじめとするクラシック音楽を好む人も少なくない。多くの人に親しみを待たれているのは、19世紀に頂点を迎える近代西欧の絵画や音楽のようだ。ところで、そうした西欧近代の芸術(絵画や音楽)と20世紀(後半)からの現代芸術と比べた場合、難しい芸術論などに頼るまでもなく、そこに誰でも感じるような大きな変化があることに気づくだろう。

まず挙げられるのは、芸術作品から“美しい“と言う基軸が失われたことだ。つまり、美術に限らず音楽などでも、20世紀(以降)の芸術では”美しくない“作品が前面に現れてきたことが顕著な特徴だ。良く知られるように、デュシャンの「泉」(1917年)はそうした芸術における変化の象徴である。

 

図1.便器をいくら磨いても芸術家にはなれない。

 

「泉」はデュシャンが陶器製の便器を美術展の展示会場に作品として陳列して話題になった。もちろん、その便器が特に美しいというのではない。それは出来合いのモノだとどこかで読んだ記憶がある。“何のために、こんな作品を美術展覧会にわざわざ出展したか?”と誰しも思う。

デュシャンの狙いは見事に的を射た。彼の出展の意図はまさ“そこ”、つまり、美を中心とする芸術に対する近代芸術の枠組みを揺さぶり、既存の芸術観に衝撃を与えることだったのである。

 

様々な挑発的な言動で知られた岡本太郎もまた現代芸術のチャレンジーであった。

彼は、芸術について、

「芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」

といって言っている。

 

デュシャンの「泉」は美術史上の大事件で、その影響は“美を中心としない芸術作品”の登場という現象だけに留まらない。ここでは、筆者の関心からその一端に触れたい。

上述したように、現代芸術で作品の中心から美が外された。それに伴い、“美しくない芸術”において、近代の美学(Esthetics)で展開された、美は如何に把握されるか”に関わる“美の無関心性”などの審美的(Esthetic)な概念は意味を失わざるをえない。そこで新たに、「“美しくない“現代芸術”のために、”美しい“に代わって何を埋めるべきか」が主要な課題として問われている。

その課題についての模索は今日も続いているはずだが、

「芸術作品がよって立つ根拠は、“見る人の心を揺さぶること”」

という答えは大変もっともらしく聞こえる。

 

 

  • “感性は感動しない?“

 本題「現代芸術における感性と感動」に移ろう。といっても、筆者にできるのは、そのさわりのサワリに触れるだけである。ここでは、岡本太郎の感性に注目した“感性は感動しない“(椹木野衣著、世界思想社)というエッセイを取り上げよう。その冒頭、岡本太郎による次の文が紹介されている:

 

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性と言うのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。」

「感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。」

「自分自身をいろいろな条件にぶつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。」

 

この短い文章には、感性について、岡本太郎の決して論理的ではない彼独特の表現が与えられている。椹木は“感性は感動しない”というエッセイでその岡本の表現に解釈を与えている。美術批評家の書いた文章に慣れない筆者には、タイトル「感性は感動しない」から易しくないのだが、以下そのあらましをかいつまんでみよう:

 

そもそも感性は実体がないから、それは磨きようがない。にもかかわらず、しばしば感性を磨くと言うのは、どうしてなのか。磨くと言うのは、感性自身ではなく、感性に関わりのある“技”や“知識“を指しているからではないのか。芸能やスポーツでは、技がなければ見られないことは確かで、そのために修行は絶対条件である。

 

だが、芸能と芸術の区別はあいまいにされていないか。芸術には技術より感性が圧倒的に必要なのである。椹木によれば、ここには「芸術は教育できるのか」という根源的問題がある。

図2.良い絵とは?

 

そもそも、「よい絵とか、すぐれた美術作品とはどんなものだろう」。

芸術が作品として成り立つ条件は、「見る人の心を動かすものにほかならない」。「見る人の気持ちがわけもわからずグラグラと揺り動かされる」。「一枚の絵が何故か頭から離れない」等である。

これは良い。

つまり、芸術作品は、見る人がいてもたってもいられなくなるように心をゆする。だが、こうした芸術が生み出す現象を、しばしば感動と言う言葉でひとくくりにして分かったつもりになってしまう。ここに誤解の根がある。感動は芸術にとって諸悪の根源なのだ。感動ということばによって済ませようとした瞬間、作家がどれだけ絵を描くために努力をしたか、という苦労物語が首をもたげる。

 

そのための血のにじむような修行を考えると、感動しなければならない、と思ってしまうのである。もっと、勉強して感性を磨かねばならない。ここには、「芸術に感動できるのは、優れた感性の持ち主であり、ゆえに、作品に込められた高い技芸や複雑な歴史を読み解く優れた感性を持つ」という偏見がある。

 

しかし、芸術作品における感動では、作品の技や背景知識は鑑賞の助けにはなっても、本当にこころが動かされるとは限らない。むしろ、それが、邪魔をして目の前の絵に感性が届かない、という事も起きるからだ。その上、どんな絵に心をゆすられ、感動するかは、結局のところその人にしか分からない。

つまり、芸術における感性とは、あくまで見る側の”こころの自由”にある。感性の根拠はその人がその人であるということ、それだけである。つまり、芸術は、従ってそれを感じる感性も教育できない。岡本太郎の感性とはこういう生の手触りを感じるモノだ、と椹木は言う。

 

 

4.感性の現在:宙づりの感性

 以上が、エッセイ「感性は感動しない」のあらまし、というより、かなり筆者の理解を加えたまとめである。実は、このエッセイには驚かされた。「感性は感動しない」と言うタイトルの”語彙矛盾”が気になって仕方なかったのだが、そのエッセイが発表された年の大学入試で、26校もの入試問題に採用され、現在も高校の教科書に採用されていると書かれていたからだ。

だが、ある大学の入試問題を当の著者が実際に解いた結果、正解は半分しかなかったとあってまた驚いた。正直言うと、これで、入試はどうやっているのだろう、などと余計なことを考えてしまったのである。どこからか「正解は一つに限らないのは常識!なんで驚くの?」という声が聞こえる。「うーん!」。こんなことでは、我ながらこの先心もとないなあ。

 

 

それはともかく、本コラムをとりあえずまとめよう。

まず、岡本太郎の感性を通じて、現代芸術の一端に触れたこのエッセイから筆者が何を学んだか述べておこう:

「人が何に感動するかは、その人その人違うものだ。芸術には、その人の心の中で眠って押さえつけられていた、何かに気づき、それを解放するきっかけがあればよい。」

という指摘である。これは、かなり重要なことではないだろうか。

何となれば、この指摘は、現代芸術が人の心理の深層に横たわる無意識に働きかけを持ち得ることを意味しているからだ。芸術が言葉を超えているとされる所以(ゆえん)だろう。

図3.不安

 

その一方、岡本太郎の現代的芸術観を通して浮き彫りになった重要な点は、美を中軸とした近代の芸術と現代の芸術の質的な違いが明らかにされたことだ。

つまり、西欧近代における美的な感性は、美を趣味(センス)の延長上に捉える鑑賞者の精神にあり、基本的に鑑賞者の情や人間の身体とは直接関わらない、とされる。他方、上述した岡本の感性に見られたように、芸術における感性は作品を見る者の身体全体を貫き、心身をゆすぶるものだ。

ここには分裂した感性の姿がある。その分裂の溝は深く、感性はさまようしかない。これが人間の感性の衰えを加速している要因の一つではないか。

 

なお、上の問題には、「美術(芸術)作品は鑑賞する対象から、理解(解釈)するモノに変わった。」

と言われる一般的背景があることも付け加えておきたい。

筆者はその分裂に架橋することはこのサイトの課題と考えているが、芸術や感性に関わる従来の議論に、理系の視点から加えるべき事がないか、椹木のエッセイにある芸術の感性に対する検討とともに、稿を改めて考察したい。

 

いずれにせよ、芸術は現実の社会に先駆けて変化してきたという面は見落とされがちである。私たちは現代にいたるまで時代と共に性格を変えてきた芸術の持つ役割を考え直す時ではないか。世界規模で既成の体制が大きく揺らぐ現在、社会全体で問われている課題と思うのである。

 

 

長島 知正   (2019-02-24、加筆修正;03-12)

  付記:

椹木によると、感性とは人間の自由にしか根拠をもたない。にもかかわらず、そこを誤解して、人は安易に、感性の根拠を自分の中にではなく、作品や作家の側に手渡してしまう。そこから感動が変質し、作品の技や作品の知識など分かりやすい理由に頼るのだ、と言う。

 

なるほどと思うが、この解釈を受け入れるとして、何故、見る人はそうしてしまうのか、が問題になろう。その理由は大切なポイントと思うのだが、エッセイに記述はない。ここで補うことにしよう。

筆者による理由は、「人間は一人でいることが”不安”だから」というものである。

つまり、人間はそうした不安をもっているから、安易に芸術作品の根拠を、それを受け止める側から、作品や作者の側に渡してしまうということではないのだろうか。