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言葉は何故伝わったり、伝わらなかったりするのか

現在、世界では7000を超える様々な言語があると言われている。その中には、文字を持たない 言語もある。Internetの普及以後、少数民族で使われているそうした言語の存続には厳しい状況が生じているらしい。それはどこか遠い国の話ではない。アイヌ語もそのような言語の一つである。シャケやシシャモなど現在使われている日本語の由来はアイヌ語にあるそうだ。少ないとはいえ、アイヌ語が厳しい状況にあることは知られているが、日本語自身が将来消滅するかも知れないと考える人はほとんどいないだろう。だが、日本語は本当に安泰なのか。どんな言語と言えども、使用されなくなれば言語は消滅する。現在日本語が置かれた国際的環境は、日本語出版物の状況を考えれば、ほとんどガラパゴス状態と言ってオカシクナイ。文系不要論を声高に言う人は、不思議なことに文系の出身者が多いように見受けられるが、ご自身の主張が自らのコトバをいずれ消滅させるということに何故か考えが及ばないらしい。

今や理系の人が専門領域で使う言語として英語は、あたかも世界に君臨する共通語の気配を見せている。だからこそ、小学校でも英語をという考え方があるようだ。だが、それはオカシイ話ではないのだろうか。母国語は日常の生活で使われるが故に、それがどういうモノか捉えにくいのは事実だろう。古来、哲学者は言語能力は人間に顕著な能力だと言ってきた。だが、そうした議論を先に進めるには、言語を使用する能力について、どう捉えられるかが問われなくてならない.

以下では、コトバの基本とは何かを考えてみたい。コトバと言えば、日本語、英語、仏語などを想像するかも知れないが、そうした個別言語の性質を考えるのではない。種々の個別言語に共通した性質に注目し、コトバが普遍的に持つ基本的な機能、特に、コトバが通じる仕組みに的を絞って考えたい。

どの国でも“読み、書き、ソロバン”は初等教育で必須だろうが、わが国の読み書きの学習は、“サクラが咲いた、サクラが咲いた”というコトバから始まるのが定番だった。これは、“文化はことばを使用することによって、継承される”という昔の人の知恵からなのだろう。

         図2.母国語の学習はもっとも大切

コトバは、(頭の中にある)思いや考えを表現し、伝達することが基本である。コトバの影響は、建築の言語、芸術のことば、あるいは計算機言語などということばから想像されるように、人の営為を蓄積した文化の中に様々な形で見届けることができる。そこでは、意味を伝えるコトバの働きは、その文化を担う人たちの間にある種の秩序を成り立たせるための必須な要件と云うことが出来る。

とは言っても、誰しも経験しているように、コトバは常に通じるものではない。大切だからといくら繰り返しても、話は一向に伝わらない。何故、コトバにはこのように、伝わったり、伝わらなかったり矛盾するような面が生じるのだろう。コトバは通じるものという思い込みがあるせいだろうか。あるいは、理科系と文科系でコトバの受け止め方や使い方の違い、つまり、言語観の違いに関係があるのかもしれない。以下では、日常生活の中で文化を支えるコトバの基本的な性質を考える。

シッポを振りながら四つ足の(犬と思われる)動物が近寄って来る時、日本語では“イヌが来る”と云う。他方、例えば英語では、“A dog is coming”と云うだろう。異なる言語では、同じ事物を伝えるために使われることば(語)はこのように違う。当たり前だ。この当たり前に見られる性質から、コトバの本質は記号(Signe,シーニュ)と云ったのは、F.ソシュールである。20世紀の初め、ソシュールは言語を記号の体系として捉えようとしたが、以下では、「コトバは何故通じるのか」に問題を絞り彼の考えを辿ることにしよう。コトバは単語を単位としてそれらの集まりで構成されているから、言葉とは何かを考えるため、ここでは、単語に焦点をあてる。コトバには書き言葉、話し言葉の違いがあるが、ソシュールは、話し言葉を対象とした。書き言葉の方がデータの保存には有利だから、研究の対象が話し言葉なのは、一見不思議な感じもする。しかし、文字が発見される以前から、“話し言葉”を使って、狩猟など集団生活をおくっていたことは明らかだろう。言語の科学的研究の創始者としてソシュールには、コトバの起源の問題は重要なテーマだったということなのだろう。

コトバに対するソシュールの最も基本的な考え方を、先ほどの犬という単語を例に説明しよう。頭に思い浮かんだ、シッポを振る四つ足のモノ(=犬)という概念を簡単に“(犬の)意味”と考えよう。犬という概念(=意味)に日本語の場合“イヌ”という音声を対応させ、その両者を組み合わせたものが単語(日本語のコトバの単位)の基本である。普通、記号は交通標識などの目的で使われるような図形を指すことが多いが、彼は、犬の概念に対して、日本語では“イヌ”、また英語では“dog”と云う音声を夫々対応させ、その対を、それぞれの言語体系の中の一つの記号と捉えたのである。こうすることによって、異なる言語では、同じ概念に対して違う音声が対応しているという言語的特徴を説明する原理が得られると考えたソシュールは、「言語記号は恣意的である」という命題を言語学の第一原理と呼んだ。なお一般に、記号とは、意味を伴った、視覚や聴覚で感覚可能なモノ(図や音声)であることに注意しよう。また、上の恣意的とはRandomということもあるが、ここでは、ある概念(意味)が与えられた時、それに対応させる記号として特定の音声を選ぶ ”いわれ” あるいは、動機がないということである。

言語記号と単語については、とりあえず良いことにしよう。だが、同じ言語を使う集団の中で、そのような単語が集まったコトバを使うと、どうして話は他者に伝わる(理解される)のだろうか。日常生活で使われるコトバは、”自然言語”と呼ばれているけれど、ことばは何か自然的な仕組みによって伝わるのだろうか、それとも、そうでない仕組みが必要なのだろうか。

           図.2 コトバによる意味の伝達

ところで、図2はソシュールの「一般言語学講義」の序論に出てくる、コトバが話し手から聞き手に伝わる仕組みを説明する概念図である。以前、単語は概念(=意味)と音声の対が基本と言ったが、それは実は正確ではない。話を簡単にするため、概念=意味と解するのは良いとしても、問題は音声と言ったことにある。以下では、そこに注意して、話し手から聞き手に音声が伝えられる時、聞き手はどのように話し手が言いたかった意味を理解するのか、図2を元に考えてみよう。ソシュールによれば、話者が伝えたいある概念(=意味)を思いついた時、話者の頭の中で、言語ごとに決められた、その概念についての音響映像(イメージ)(Image Acoustiqueが対応させられる。ここで、音響映像とは、ソシュールの造語だが、後で説明するように音素(やそれらが連なった音素列)と考えてよい。その聴覚イメージに従って、実際の音声が話者の発声器官で生成され、口から空気中に発せられる。発せられた音波は空気中を伝搬し、聞き手の聴覚器官に届くと、その後伝搬してきた音声を元に音響映像が作られ、それに対応した概念(=意味)が引き出される。こうして話し手の コトバが聞き手に伝達され、話し手の言いたかった考え、つまりコトバの意味が聞き手に理解される。かくて、話者の話は聞き手に通じた。なお、上の議論から分かるように、単語は概念と音声の対ではなく、正確には、音声の代わり音素列(音響映像)の対として与えられる。

更に、話し手と聞き手の立場を交換して、上と同じ過程が成り立てば、原理的にある言語の中でコトバが通じる仕組みが与えられたことになる。言い換えれば、同じ言語を使う集団の中で、コトバが通じるためには、話者の発したコトバの意味を聞き手は共有しなければならない。単語の概念(=意味)に対応した音声(音素列)は恣意的に与えられているから、単語の集まりであるトバの意味を把握することも自然的にはできない事柄である。それ故、コトバを得得するために、特別に学習や訓練が必要になる。

どんな集団でも、その社会で生活する上で必要な規則を反映したコトバの習得は欠かせない。だから、どこの国でも、母国語に対する読み書き能力の習得を初等教育で実施する。一定の努力をすれば、母国語は習慣に従って誰もが習得していくから、一見そこには特別な問題はなさそうに思われる。だが、誰でも習慣的に習得するからといって、言語の獲得・習得の過程が自明なものでは決してない。何故、コトバの習得が可能か、その仕組みは現状で明らかなったとは到底言えない。そこに少し立ち入れば、科学を超えるような人間の能力の不思議さにビックリする。以下、そうした問題の一端に触れよう。

犬という単語は、シッポを振る四つ足の動物という概念(=意味)と”イヌと”いう音声(=音素列)の組みと上で説明した。しかし、Aさんはゴールデンレトリバー、Bさんは柴犬を飼っていた場合、Aさん、Bさんが犬と言っても、同じ犬の概念を持っているかは分からない。犬ほどサイズ、形、表情のバラエティがある動物もないから、犬に対する必要十分条件を与えるのは至難だろう。にも拘わらず、Aさん、Bさんに限らず、人は姿(見え)も大きさも違うモノに犬と言う一つ単語(概念)をあて、問題なくコトバを交わしている。そのような、多くの異なったモノを一つと見る認知の仕組みはどういうものなのだろう。あるいは、“多に一を見る合理的な方法はどういうものなのか。同様なことは、単語のもう一方の音声(音素列)についてもある。人が実際に発する音声は、性別、年齢、地域などによって、たとえ同じ”あ”と発音しても、物理的な状態、高さや強さは異なっている。だから、音声は犯人の識別に利用される。ある単語に対応させられた音声(音素)は物理的な音ではないと前に言ったが、一体音のどんな性質を考えるのだろう。答えを一口で言うと、様々な音声の集まりを何らかの基準に従ってまとめることで、一つの”音”と”聞きなす”のである。ソシュールはそれを音素と呼んだ(複数の音素の連なりを音素列と言う)。私たちはある音声を聞いてそれがどの音素(列)に属するかを判定出来るが、それは各音素が設定している音声の集合の性質を知っているからである。ここで、どんな音声の性質を同じ集合にまとめるかは自然的に決まるのではなく、社会に依存して決められる。例えば、英語では、l  と r  という音声を異なる性質をもったものとして二つの音素に属させるが、それらを日本語では区別せず一つの音素に含ませる。こうした例から、コトバに社会性が現れる事を知ることになる。

音声のある集合を一つの音と”聞きなす”音素は本質的に抽象的なモノである。結局、コトバの単位である単語を定める、概念(=意味)も音声(音素列)も共に抽象的な性質を持つから、単語やコトバ自体も抽象的な存在である。これが、コトバを自然的なものから一線を画した形で捉えようというソシュールの言語観の根底にあるものだろう。つまり、言語の研究は、物理的に測定可能な音声の物理的性質やまた音声の発話や聴覚のメカニズムを研究するものと思いがちだが、実際はそうではなく、そうした研究とは一線が画されている。そのことに、簡単に触れておこう。

上で説明したように、ソシュールは単語とは、概念と音響映像の組みとしたが、この音響映像は音声に関わっているけれど、それは単語の意味を伝達するために必要とされる頭の中に現れる性質で、物理的に観測される音声そのものではない。ソシュールはコトバにおけるその違いをそれぞれラングとパロール呼んで区別し、言語学を音声学から分けると共に、ラングこそ、コトバが通じるために必須な要素とした。ラングは、単語の概念(=意味)も音素も抽象的な存在だから、抽象的なモノである。一方、パロールは、実際に計測可能な物理的な音声と考えられる。両者の関係は、簡単には、外界にある音声つまり、パロールが頭の中で認識された時、はじめてラングになると考えれば良いのだ。

以下、本稿の議論をまとめておこう。「コトバが通じる」とは、コトバの意味が伝わるからだという立場のソシュールに従って、コトバが伝わるために要請される性質を、単語の性質に的を絞って考察した。ここで考えた話者のコトバが聞き手に伝わる仕組みは、あたかもモールス信号が伝達される方法のようで、理系の人にはなーんだそんなの情報通信の基本の話じゃないのと思った人もいるだろう。ソシュールの言語理論はその後チョムスキーなどの登場もあって、現在評判はあまり良くないらしい。だが、言語という人間が持つ特性の可能性を記号学という形で切り開いて見せた事実は否定しようもない。その影響は例えば、以前取り上げたスノーの二つの文化論にも及んでいるようにも見える。 スノーは、人文系と理系による二つの文化の乖離を取り上げた時、人文系、理系のグループが異なる言語を使用することが、それぞれの文化の理解を妨げる障壁になると言っている。上のラングとパロールの区別は、文系と理系の言語観の違いを生む一つの要因と思われるが、従来理系に属するとされる数学の言語観は物理のそれとは大きく異なっていて、単純には文系・理系の違いを説明できない。むしろ、パロールとラングの違いは、自然科学系言語と非自然科学系言語という大きな区分けを示唆しているのではないか。この区分に従えば、原理的に、実際のモノを扱う物理学等で使われる言語は自然科学系言語、一方数学のような抽象性の世界を扱う言語は非自然科学系言語に属すことになる。このような言語観の変更は、様々な既存概念に対する枠組の組み替えに繋がるかも知れない。

ここまでの議論とは対照的に、しばしば、コトバが通じないことを経験する。次回は「コトバは何故伝わらないか」に的を絞り、コトバが持つ広い側面を考えたい。その中で、コトバの創造性や感情は言葉で伝わるのかといった問題など検討する予定。

 

長島 知正    2017-08-29 (加筆修正:2017-08-31)

 

参考文献

長島知正、感性とことば(1)~(5)、理系のための哲学・芸術・美・感性;読みもの

読みもの

 

 

 

 

 

 

 

”理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか(2)

英国の作家で科学者でもあったスノーは著書”二つの文化”で、20世紀におきた科学技術革命は、文化を自然科学系と人文系という二つの文化に乖離させるという、深刻な指摘をした。とは言っても、我が国ではそうした文化論以前に、スノーの”二つの文化”に対応した理系や文系という言葉があっても、それは個人の得意科目のような個人的な事情に留まり、二つの文化それぞれへ繋がる文化の議論や活動に根付かないといった事情があるようだ。ここには一種のスレチガイがある。前回のコラムではそのスレチガイが起きるワケを考えた。要点は、理科や文科あるいは科学や文化など”二つの文化”に関わる言葉は、いずれも外国で作られた概念を明治維新の時期に翻訳して創られたものだが、その翻訳の過程に生じる(翻訳)意味の不確定性(翻訳不確定性)が与っているのではないか、ということである。その当否は別にしても、“二つの文化”の舞台はあくまで英国ないし欧州である。実際、日常の生活感覚の中で考えてみると、スノーの”二つの文化論”にはスッと落ちないところも確かにある。ことばは文化を体現すると云われているが、異なる文化圏にある日本の背景が考慮された議論ではないから、そこに分かりにくさや消化不良があって何も不思議はないのである。ここではそうした面を補うため、舞台の中心をわが国の文化に移し、もう一度“理系・文系の話題はなぜ文化の議論に繋がらないか”を考え直してみよう。もし、スノーの二つの文化論と異なる我が国の文化の特徴が見られたら、それも無意味ではないだろう。ただし、取り上げる舞台は、スノーが“二つの文化”を論じ”た時期とも重なる、戦後の日本である。

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 図1.日本文化のシンボル

多くの組織が社会に存在することは当然だが、筆者の世代にとって、戦後の高度成長期とよばれた時代の日本を代表する社会組織と云えば「会社」だった。そして、”ジャパン アズ ナンバーワン”といったタイトルの本が現れたように、戦後日本の高度成長は外国から見ると謎めいていた。そうした中、高度成長のカギは、わが国における会社組織の“タテ社会の構造”という点にあるという指摘は広く内外の注目を集めた。論者の中根千絵は、日本人が自らを社会的にどう位置付けるかに着目して、わが国では、エンジニアとか営業といった専門職種より、どこそこの会社のものです、という所属組織の方に重きが置かれる、つまり、会社という組織への帰属が重視されると指摘した。また、職種では専門知識や資格が重視されるのに対して、会社など自らを置く“場”が重視されるため、そこでは感情的な一体感が支配する状況も起き得る、とした。タテとは、入社年次による年功序列型の機序、またヨコは会社を超えた職能によるフラットな繋がりである。”場”というキーワードは抽象的だが、単に人がいる空間ではなく、組織全体が関わる環境と云えるだろう。砕けた云い方では、”空気読む”の”空気”と云えるのかもしれない。タテ社会の構造論はタテ優位の構造の形成メカニズムを与えるものか筆者には不明な点もあるが、一般には、“タテ社会の構造論”は、戦後の社会において、日本人は敗戦によって失われたアイデンティティーを企業への帰属意識とすることによって、自らのアイデンティティーを保ち、わが国の高度成長を内側から支えた、という解釈により高い評価が与えられているようだ。だが、ここでは、その議論を別の文脈に適用してみよう。つまり、タテ社会の構造論は、戦後の日本における組織と人間関係の特徴を述べているが、それを本コラムの観点から捉え直すとどうなるかを考えたい。

端的に云うと、わが国では、(企業)組織等において、専門的職能より、’場”が重視されるという点に本質があるなら、理系・文系といった話題がどこかで持ち上がったとしても、それは個人の得意科目の範囲に留まり、理系や文系それぞれの文化に社会的な触手を伸ばしていかないのは自明ではないか。即ち、専門的職能より組織への帰属意識が優位にあるという我が国の“(企業)組織文化”のあり方が、理系・文系の話題が社会的な議論に繋がることを妨げる基本的要因と思われるのである。だが、このタテ社会の構造論が本コラムの問題にヒントを与えるとしても、今日の我が国は、高度経済成長後のバブル崩壊を経て、既に終身雇用や年功序列は崩れ、社会にはさまざまな新しい制度が導入されている。もはや戦後ではないから、その議論は的外れでしょ! ほとんどの人がそう思うのではないだろうか。筆者自身タテ社会の構造論は高度成長期の我が国の文化を説明するモデルで、新しい時代に適したモデルに当然変わると考えている。では何故、タテ社会の構造論といった古い議論を今持ち出すのか。一つのワケは、タテ社会の構造論で表立って議論されていないけれど、それと通底しているが、短期的には変わらない、人間の共感という性質が、我々の問題「我が国で、理系・文系の話題が社会の中に根付いていかない」に与っていると考えるからである。 タテ社会の構造論の中心にある帰属意識は、企業などの組織に働く特殊な感情、つまり組織の一員であるという仲間意識である。従って、それは共感と言い換えられるだろう。他者と同じように感じるこうした共感は、人間が感じる一種の感性として組織集団を最も底辺において支えている。共感は感性の一種と云ったけれど、それは美的センスのような感性とはどこか異なっていると感じるかもしれない。だが、その問題についてここでは立ち入らないことにする(拙書 ”感性的思考”(東海大学出版会、2014)を参照頂きたい)。

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図2.タテ社会の病理

タテ社会の構造論を持ち出したもう一つのワケは、「忖度」(そんたく)という何とも古めかしい言葉が、最近新聞に突然現れ、アッという間に広まったからである。なぜ、「忖度」という古い言葉がこのように広まったのだろう。言葉はその国の文化を現すと云われるが、「忖度」には“場”を重視するという日本の感性が関わっていると感じるのである。

「忖度」は漢詩に由来する古い日本語で、その意味は「推量する」だったという。菅原道真が使ったと云われているが、念のため手元の国語辞典で調べると、「他人の気持ちを推し量る」意の漢語的表現とある(三省堂、新明解国語辞典)。ところが、現在「忖度」で問題とされているのは、例えば、「マスコミが時の政府の意向を忖度して、追及記事の掲載を取り消した」という行為や「大企業の担当者は、取引先の社長に不都合な発言はしないよう、言外に忖度を求めた」といった姿勢のようだ。つまり、現在注目され、特に批判のマトにされているのは、他人の気持ちを推し量るだけでなく、さらに相手のことを配慮して、行為するという新しく付け加わった意味ということになる。新聞アンケート(朝日、4月30日)によると、忖度についての受け止め方は、組織の潤滑油とか効率的というプラス面の評価から、上からの無言の圧力による表に現れない不公正な意思決定といったマイナス面まで、人によって大きく揺らいでいる。

現在、マイナス・イメージが強調される「忖度」だが、「他人への気遣い」といった日本社会の美徳もそこには含まれるように感じられる。その意味が安定するには未だ時間がかかるだろう。しかし、「共感」は元来、他人と同じような気持ちを持つという事だから、原則的に忖度と共感には相手の気持ちを推し量るところに類似性がある(後述するスミスの共感も参照)。それ故、組織への帰属意識、共感、忖度という言葉には意味の平行性が認められる。従って、理系・文系を巡る話題がなぜ文化の議論に繋がらないのか、という本コラムの問題に戻ると、専門的職能より、場を優位におく我が国の組織の在り方に基本的原因がある、という結論が再び得られる。この結論は非常に古臭い印象を与えるに違いない。しかし最近は、今まで隠されていた古臭いモノが表層の覆いを破って現れたような出来事がむしろ増えているのではないか。

これから先は、ひとまず”得られた上の結論に対する考察とイイワケである。いい訳を簡単に云うと、”帰属意識”、”共感”、”忖度”夫々のことばの意味は似ているけれど、同じと云えるのだろうか。そこにことばの問題(前回の翻訳語を含む)があるかも知れない、ということである。例えば、「忖度」の意味。忖度の元来の意味は、「相手の気持ちを推し量る」であったが、上で述べたように、現在いわば正反対の意味で使用され、矛盾した状態が生じている。一方、忖度とは異なり、日常的によく使われている共感には、そのような混乱はないように思われる。だが、困ったことには、議論の展開を妨げることばの落とし穴がここにもある。以下、結論の考察として、共感に関する微妙な点を掘り下げてみる。

共感と云えば、多くの人は、例えば、お気に入りのスターなどの演技に感激し、我を忘れて演技者になりきってしまうような状況を想像するかもしれない。しかし、近代の西欧社会に共感概念を定着させた A. スミスの考えは少し違ったものである。その違いを説明してみよう。スミスが用いたSympathy という語は、社会学関係では”同感”と訳され、一方哲学や心理学では、”共感”があてられることが多いが、ここでは、それらを区別せずに使う。

 まず、スミスは、人間とは自らの利害に関係なくとも他人に関心を持つ存在だと云う。だから、ある人が何か出来事に遭遇した場合、その当事者の運、不運に関心を

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持ち、大声で泣き叫んだり、笑い声がきこえれば、何があったのか知ろうとして、その状況を観察する。その際、想像力によって、自分を当事者の境遇に置いて、仮に当事者の立場になったとき、自分がどのような感情を持つか、またどんな行為をするだろうか想像する。それを実際観察される当事者の感情や行為と比べ、もし同じであれば、当事者の感情や行為が適切であると判断し是認する。違えば否認と判断をする。これがスミスの共感である。特に、このような判断における、相手の境遇を知る方法を”共感的理解”と呼ぶことがある。私たちは、日常、他人や自分の行為を善いとか悪いと判断しているが、スミスは共感を基に、誰もが納得する公平な判断(道徳判断)の原理を与えようとしたのである。また後には共感的理解は、心理学分野への応用や音楽や小説など芸術作品を理解するための方法としても広く応用されるようになったことを付け加えておきたい。

スミスの共感で重要な点は、”理解”と”是認”の区別だろう。詳細は別に譲るけれど、要点は相手の立場になって理解をするが、それは相手の行為を全面的に是認することではないという点である。現今批判される忖度が、相手の気持ちを配慮して、相手に有利な行為をするという意味で使われるのとは対照的である。(スミスの)共感では、全面的に感情によって支配されることなく、それを抑制する理性的な働きが立ち上がっている。仮に不幸な人に同情はしても、単なる同情ではない。あるいは、相手に共感はしても、完全に同化してしまわず、相手の行為を公平に判断する。ここに、多くの人が持つ共感のイメージ(意味)との違いがあるが、それは冷たいと受け止められるかも知れない。だがそう云うなら、理性と感情の結びつきを排斥する、従来からの自然科学の思考はどうなってしまうのだろう。

 

スノーが二つの文化論で論じた科学的文化もまた、従来のカテゴリーの自然科学だったのである。共感的理解が示唆する感情と理性が結びついた思考は、科学的成果を深い知恵に繋ぎ変える具体的な手がかりを与え、広い意味の感性を利用したわが国独自の科学技術の基礎になるように思われるのである。

 

長島 知正   (2017-06-21) *加筆;(2017-06-23)

 

 

 

 

”理系・文系”を巡る話題はなぜ文化の議論に繋がらないのか

前のコラム”理科系と文化”で、わが国で日常的に使われている”理科系・文科系”という言葉や区分は、C.P.スノーが”二つの文化と科学革命”で議論した自然科学系と人文系に分類される専門家のグループに原則的に対応していることを説明した。だが、気になるのは、そうした対応があるということよりむしろ、理科系・文科系といった言葉が、得意科目を指し示すことに留まり、社会的つながりをもつ議論に広がっていく気配が一向に見えないことである。かつて、”文理融合”といった話題はあったが、いつしか立ち消えたようだ。 また、理系・文系の壁という言葉が一時マスコミで話題になったこともある。しかし、我が国で、理系・文系や“二つの文化”をめぐる議論が社会的に広がったとは思えない。何故、広がっていかないのだろう。明確な結論をだすのは簡単でなさそうだとは云え、科学技術が、私たちの外部世界にあるモノのみならず、心理的な面への繋がりを強めている今日、今まで見過ごされてきた、人間に関わるこうした、云わば、掴みどころのない問題にどう答えるかが、大切に課題になってきたと思うのである。

しかし残念なことに、わが国ではこうした問題は、往々に「西欧とは歴史が違うからネ」、といった結論になりやすい。これは、「私たちには、歴史は変えられないんだ」、という思考停止の正当化の危険を孕んでいる。 以下では、考えを進める手がかりとして、まず、スノーが”二つの文化と科学革命“で云う文化とは何かについて整理し、その後、理系・文系を巡る話題が文化の議論に繋がっていかないワケは、西欧との歴史の違いにあるのではなく、西欧で使われている言語を日本語に翻訳する過程に内在する不確定性にある、という可能性を指摘したい。

前回述べたように、物理研究者を経て、作家や行政官などを経験したスノーは、物理学などの科学研究者の文化と文学に造詣の深い知識人達が持っているそれぞれの文化を表すため、”二つの文化”という言葉を創った。そして著書の中で、英国最高レベルの知識人たちと云えども、自らのグループに属していない人達が云っていることが分からず、その結果、最高レベルの知識人たちのグループの間は乖離し、互いの無理解や相互不信があると指摘した。スノー自身、文学者たちから古典文学についての見識を試された経験から、そうした文化人達の態度に反感を抱き、文学者の集まりで、”熱力学第二法則とはどんなことか”、と聞いたりしている。こうしたやり取りは一見暴露記事のような印象を与えるが、それは話の余興である。真意は、20世紀の科学技術の進展によって、最高の知識人たちといえども、英国の文化はもはや一つではなく、互いに共通するものを持たない、理解不能な(少なくとも)二つの文化に分かれてしまった、という近代社会の深刻な事態にある。今から大よそ80年程前の話である。細分化が進んだ今日、二つの文化という区分に異論があるとしても、二つの文化を象徴的に文系、理系と捉えれば、今日の我が国でも十分通用する話ではないだろうか。

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図1.将来の夢は?

ところで、スノーは、自然科学者および人文系の知識人それぞれのグループの人達が持っている文化を“二つの文化”と名付けたが、文化そのものはどう捉えていたのだろう。スノーによれば、Cultureには、彼の”二つの文化”に適用できるような二つの異なる意味があるという。第一の意味は、「知的な発展・形成」、あるいは「精神の発達・形成」という辞書的なものである。この定義は抽象的でアイマイさがあって、内容を把握しにくい。そのためスノーは、Cultureの第一の実質的な意味を”教養(Cultivation)”とする妥当性を力説している。ここで、教養とは、人間性を特徴づける性質ないし能力と定義される。つまり、人間が持つ最も貴重な性質で、人間らしい能力は、自然に対する好奇心および記号を用いて思想を表現することであり、これこそが教養、すなわち文化であると云うのである。この説明は十分説得的と思うけれど、念のため、Cultureの原義に相当するCultivationの意味は、”耕す”こと、つまり“作物を造るために耕作する”という意味であること、さらにそこから”精神の耕作”が含意されることも付け加えておきたい。

第二の意味は人類学の観点によっている。ここで、文化は、ある時期一定の地域に住んでいた民族や一群の人たちに共通する生活上の習慣や様式を表すために用いられる。例えば、弥生文化とか文化遺産がこれに該当するだろう。だが、スノーは、この定義における地域性を拡張し、社会における固有の集団にも援用して“二つの文化”という言葉を創ったと云っている。この集団は、特定の地域に住む人ではなく、科学者や人文的知識人といった職業的区分による集まりを対象にしたものである。実際、そうした二つのグループは、それぞれの内部で共通する行動の態度や方法を持ち、文化として存在していると見做せる。それぞれの文化は、自分たちの時代、環境、教育の影響を受けて育まれたのである。

 

カルチャー

 

図2.Cultureと翻訳(意味)の対応; 実線の円の内部がCultureのカテゴリーを表す。破線内部がCultureに対する生活様式・習慣、教養、耕作など異なった訳(意味、使用例(1))を与えるが、Cultureの適切な訳(1)は実線内のみで、Cultureの訳として実線の外部は全て不適切になる。

 

スノーが”二つの文化”で考えた文化は以上のように整理できるだろう。文化の第二の意味、つまり、本来の人類学的な意味の文化は地域性を持ち、そのため生活に密着した身近さが感じられるせいか、わが国でも自然に受け入れられている。 実際、各地で行われる古墳など様々な文化財の調査や発掘作業の話題からそれは伺うことができる。だが、第一の意味の文化、つまり、最も人間らしい性質や能力とされる、自然に対する好奇心や思想を記号によって表現するという教養の方についてはどうだろう。筆者にはその受け止め方に何か非常な違いを感じる。云い換えると、この第一、第二の文化の意味に対する受け止め方の違いが、我が国の理系・文系という区分やそれぞれの文化との近さといった問題に関係していると思うのである。だがここでは、そうした分析をする前に、その前提にある言語の問題、特に翻訳における意味の問題に着目したい。

一般に、翻訳とはある言語の表現を“等価な”別な言語表現に移し変えることと考えられるが、そのような翻訳があるというのは自明なことではない。私たちは今日簡単に、海外の作品にも先人の素晴らしい翻訳によって接することが出来るため、すぐれた翻訳が“正しい”あるいは“等価”な翻訳と思い込みがちである。だが、以下議論するように、正しいあるいは等価な翻訳は存在しないかも知れないのである。

文化という単語は、近代を迎えたわが国が、西欧から短期間に大量に入ってきた外来語に漢字を充てて作った翻訳語で、哲学、芸術、理性、感性、科学、物理、文学などの一つである。上述したような問題を分析する場合、文化、自然科学、理科、文学などの語やそれを含むテキストを用いて議論することになるが、それらの語やテキストの意味は定まらなければならないのは当然だろう。スノーの”二つの文化と科学革命“の翻訳では、原語のCultureは文化、またScienceは科学と訳されている。この訳に違和感を持つ人は少ないだろうが、言語学の方面では、ある言語表現されたテキストに対し、一般に、それに”等価な“翻訳の表現は一つに定まらないと云う主張がいろいろ議論されている。ここでは、そうした主張を翻訳不確定性と呼ぶことにしよう。翻訳の対象は一般に単語に限らずテキストや作品などにおよぶが、以下では、単語を例に、翻訳不確定性の要点を英語-日本語の翻訳から簡単に説明しよう。

異なる言語の間で、それぞれの単語の意味が食い違う例として良く知られるのは色彩の問題である。旅行中、空港でPick Upを約束していたオレンジ色の車はいくら待っても来なかった、といった逸話がある。これはオレンジ色と米国人が呼ぶ色を日本人は茶色にしか見えなかったことが誤解を生んだワケである。物理的に同じ色(波長帯)であっても、言語が異なる人の間では、一般には同一の色ではなく別の色を意味する言葉に対応させていると考えられるのである。

言語間には、こうした色彩感覚に関するズレのほか、広く認識に関わった食い違いがある。例えば、果物という言葉に含まれる食物の種類は、国によって(ウリなどのように)一部が野菜と見なされるから、果物という言葉のカテゴリーは言語によってズレが起こる。

言語間の意味が食い違う同様な例は動詞にも及ぶ。というより、基本的な動詞はほとんどそうである。例えば、meetについて辞書を引くと、出会う、出迎える、などのほか、見合う、戦う等いくつもの意味が出てくる。それ自体、英語のmeetという単語にぴったり対応する日本語の単語はないということを示唆している。また、大きな辞書にはより多くの意味が出てくるが、この多義性により、より多くの事物が適切に翻訳できることになるが、同時に、意味が食い違った不適切な翻訳が作られる危険も増えることは見逃せない(図2参照;実線の外部にある不適切な訳(意味)の領域が増大する!)。

翻訳の不確定性とは上の例のように、原語(英語)を日本語に翻訳する際に生じる非同義性、つまり原語と翻訳両者の語の表すカテゴリーのズレや不一致、さらにまた一つの原語のテキストに複数の翻訳が生じることである。これは、スノーが問題にした二つの文化の間の乖離や相互相反とは異なる、複数言語間の翻訳で広く生じる非常に一般的な問題である。こうした言語論的観点から、表題のような課題にアプローチすることは今までにない試みと思われる。

例えば、「科学は文化か」といった、Culture、Scienceなどの単語から構成される命題を考える場合、それらの原語(単語)に多義性があれば、その翻訳は不確定になる可能性が生じる。それは、翻訳語使用者に、原語でなされる世界認識に歪みや濁りを与え、正しい理解に至ることを困難にする。とはいえ、翻訳が定まらないということが意味する内容を理解するのそう易しくないと思われる。以下、英語を例に少し考えてみよう。英語のWaterが日本語で水と訳されることは誰でも知っている。H2O分子の液体に対して、日本語では”水”のほか”湯”という単語で区別するが、英語には湯を表す単語が存在しない。つまり、同じH2Oに対して、英語と日本語で指示するカテゴリーが食い違っていることになる。日本語の水には冷たいということが暗に含まれるのに対して、英語のWaterにはそのような制約はなく温度的に中立といわれる。だから、湯に対して、形容詞をつけ Hot Waterという英語の表現が使える。だが、こうした食い違いを一応理解できたとしても、それは表層のものだ。日本人ならだれでも分かる”ぬるま湯”のような感覚をWaterと結びつけて理解したり、また逆に英語使用者が、日本語では”熱い水”(Hot Water)という表現が語義矛盾をふくんだ表現だということを了解できるようになるのは難しいだろう。その難しさは、それぞれの言語(原語)によって獲得した正しい知識という信念が揺るがされるからと云えるのかも知れない。

特に、私たちの問題では、Culture(文化)についてスノーが云う二つの意味を認める時、多義性による不定性に加え、Culture(文化)の第一の意味、すなわち教養としての文化の意味を把握すること自体、教養教育が崩壊したわが国ではほとんど期待できないから、それが文化という語を含むテキストの翻訳不定性を増幅していることは想像に難くない。結論をまとめれば、以上の議論が、「理系・文系を巡る話題が文化の議論になぜ繋がらないのか」という問題のみならず、「わが国では、科学は文化になっていないのではないか」といった議論が繰り返されること、云い換えればえれば、「“我が国では、科学は文化になっていない”と思われていること」の基底をなしているのでないか、と括ることができる。

ここまで翻訳に伴ういわば負の面を議論してきたが、急いで、翻訳には創造的な機能を伴っていることを付け加えておきたい。

先ず、翻訳とは日本語と外国語との間に限られるものではなく、大変に広い表現活動に関与していることに注意しておこう。計算機言語のような人工的言語にも翻訳の問題はおよぶが、さらに、日本語同士でも、異なる言語の翻訳は関わっている。その中に、理系の人が研究上使う理系の言語と日常生活で使われる言語の二種の言語がある。荒っぽい説明だが、スノーが”二つの文化”で指摘したように、理系と文系の間は異なる言語の壁で隔てられているのである。しかし、翻訳はこうしたステレオタイプな見方を超える可能性がある。特に、理系の人にとっては、異なる言語間の“同等な”翻訳とは何かも重要だが、翻訳が言語の理解可能性をもたらす創造的行為であることは、データからの理論構築に共通した面を持ち、大きな示唆を与えると思うからである。

 

長島 知正        (2017-05-08)

 

追補

(1)訳(意味)を訳(意味、使用例)に。訳(意味)を訳に。(06/01)