デカルト・感性・非線形{1}

― 近代科学の確立と宙刷りにされた感性 ―

長島 知正

キーワード; デカルト二元論、感性、趣味判断、二つの文化

 

1.はじめに

 

本稿では、近代を拓いたデカルトに焦点を当てると共に、人間の広い意味の思考と非線形の関わりを考察する。そのため方法序説を取り上げ、まずデカルトの思考方法に線形性が見られることを指摘し、続いてデカルトの心身二元論には、近代科学技術の隠れた壁として、人間の感性の問題があることを明らかにする。また、人間の感性は、二元論では切り離された、精神と身体との間を繋ぐものとしてあることを示す。本稿{1}の取りあえずのまとめとして、デカルトの心身二元論は、スノーの唱える二つの文化の起源とほぼ重なっているようみえることを指摘する。次稿{2}に於いては、言語分析を通して、隠れた壁を超える新しい情報科学・技術の可能性を考える。

 

2.デカルトの拓いた近代

 

科学史によれば、コペルニクスやガリレオらに端を発する「科学革命」とともに近代は始まるが、同時代に科学でも活躍したデカルトは哲学の父と呼ばれている(表1)。
“デカルト座標”などに名を残すように、理系の文化圏では、デカルトは数学を広く自然現象に適用するという方法を示し、自然現象を客観的・明証的に理解できるようにしたという評価がある。しかし、数学の自然への適用ということのみでは、ガリレオやニュートンの後塵を拝するだろう。“近代を拓く”といった栄誉がデカルトに与えられる理由は別にあるはずである。

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表1.デカルトの時代の近代西欧と日本

哲学では、世界はどういう種類の構成物からなっているか、という問題は重要である。ただ一種の構成物よりなるとするのが一元論、多くの種からなるとするのは多元論である。

二元論を最もはっきり提示したのがデカルトである。世界は精神と物という互いに全く重なりのない性質の二種の構成物によりなるという、二元論を提示することによって、古代・中世の目的論的自然観と決別し、近代的な客観的自然観を拓いたことは、周知のことだろう。

 

2-1)方法序説

 

デカルトが独自の思想を形成した17世紀初めには、既にケプラーやガリレオによる新しい天体運動説(地動説)は密かに知られていた。だが、彼が望んだことは、天体の運動に留まらず、人間を含む世界全体を対象として、正しい知識を得るための信頼できる確実な方法だった。
そのため彼は、後で詳しく説明するように、「人間の精神を物質的世界から完全に切断し、精神が直接作用するのは心のうちにある観念である」という枠組みを唱えた。この枠組みは、カントに至る近代の西洋哲学における共通の枠組みとなり、それ故、デカルトは近代哲学の父といわれるようになった。
デカルトはアリストテレスによる目的論的な科学観など、古代・中世の中心にあった古い思想を一掃することを考えていたが、そのための思索をまとめたのが「方法序説」である(1)。
方法序説は6部からなるが、本論では深く関係する第2部、第4部を主に取上げる。第2部から始めよう。

 

2-2)デカルトの方法:4つの規則

 

探求によって真理を得る方法として、数学的方法こそ確実な知を与えると考えていた若いデカルトは、以下の4つの規則((一)~(四))で十分だとした。(一)では、「精神の明晰性と判明な判断に従わなければならない」という彼の思想を、また(四)で、最終的な結論を出すための検証作業について述べている。問題を解くための一般的な方法が次の(二)および(三)である:
(二);吟味する問題の各々を、できる限り多くのしかもその問題を最も良く解くために必要なだけの数の小部分に分かつこと。
(三);思想を順序に従って導くこと。最も単純で最も認識しやすいものからはじめて、少しずつ、いわば階段を踏んで、最も複雑なものの認識にまでのぼってゆき、かつ自然のままでは前後の順序をもたぬものの間にさえも順序を想定して進むこと。
この「4つ規則」は、「まず問題の分析として(二)の分析を行った後、その結果を(三)によって総合するという問題解決の手順を示した」と一般的に解釈されているが、以下の解釈もあると思われる。
つまり、(二)で、出来る限り単純な多くの要素への分解という方法と共に、(三)では、(二)で分解した最小の問題を、分解とは逆の順に、複雑なものに向けて進めと操作を指示している点は注目される。また、デカルトは数学に対する基本的見方として、
「普通、数学と呼ばれている学科をすべて学ぼうとは思わない。これらの学科は、対象が異なっても、そこに見出される様々な関係つまり比例だけを考察する点で一致することになるのが分ったから、これらの比例だけを一般的に検討するのが良い、と考えた」と述べている。
上の説明および引用から、「デカルトの方法」が想定していた世界、少なくとも自然学の世界は、多くの変数間に比例関係が成り立つ“線形性の世界”と云えるように思われる。つまり、デカルトの科学的感性は、(二)や(三)の規則によって、近代科学の原点として、「分解」と「総合」という逆の操作が自由に行える線形世界のイデアを直感したのではないだろうか。さらに筆者には、現代の線形代数学の固有値分解などを見越していたようにさえ思えるが、それは思い込みだろう。
今日、自然現象に限っても、力学系カオスの発見(2)を契機として、線形世界の限界が強く意識され、複雑系、創発性など非線形現象を特徴付ける性質に興味がもたれている。こうした文脈ではデカルトの規則(二)も、「デカルトの方法」の限界と批判されるようになった。確かに、電気回路や流体などの自然界のカオス現象を(二)のような要素の和に還元することは出来ない。“複雑なシステムを単純な小さな要素に分解して分析せよ”という(二)の規則は、今日“要素還元論”と呼ばれるが、それでは自然界の物質が作る様々な構造の形成などの非線形現象を説明できないのである。
複雑系という言葉は既に自然現象を超え、経済など社会現象としても語られている。だが、生の人間を含む世界の本質はほとんど未解明なのではないだろうか。そこには、要素還元論や機械的因果性などを理論的基準に据えることさえ出来ない、“本質的な非線形の世界”があるからだ。例えば、人間の精神が何かイメージを創りだす時、どのような要素や仕組みが働いたといえるのだろう。生態学などのように人間を外側から捉え、数量的変化を推定することは可能だが、そればかりでなく、人の内面とどう向き合うかということが、理系、文系の壁を超えた21世紀の科学技術、とりわけ情報の科学技術に本質的に問われている課題と筆者は思うのである。その手がかりを得るため、近代を拓いたデカルトに戻って考えたい。

 

2-3)デカルトの存在論

 

方法序説の第4部の主題は、人間が正しく世界を認識できる根拠は何かであるが、そこには神学など通常の科学を超えた問題領域とされる形而上学(Metaphysics)も含まれる。
デカルトは親しい知人から、すべての物質は基本的な粒子より成るという原子論に基づき、粒子の運動を数学的に考えるという力学的自然学のアイディアを学んだ。それはデカルトにとって、感覚的に知られる世界を超え、原子による客観的世界を考えることによって、世界認識へ数学の適用を可能にするという新しい展望を拓く契機であった。

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図1「観念の知覚」モデル:外界を直接知覚できない精神は、観念が代理的に表象する外界を間接的に知覚する

まず、外にある自然物に対するデカルトの認識には、大きな仮説があることを説明しておかなければならないだろう。つまり、人間の思考する精神が直接作用する対象は精神の内なる観念であり、外的世界は観念によって間接的に表象されるという「観念の知覚」モデルである(図1)。このモデルによって、デカルトは人間の精神を物的世界から完全に切り離した。それは、「(物から切り離された)精神によって、実在する(実体として存在する)物体を客観的に認識する」という、デカルトにとって何より大切な、確かな知識を確保するための必須の方策だったのである。この切断は、精神と物質の二元論を意味するが、デカルトはこの目標を念頭に置いて、独特の存在論を展開した。まず、我々が経験する感覚世界は偽りに満ちているから、それらを振り払う必要がある。そのため、方法的懐疑と呼ばれる、感覚で得られるすべてを懐疑し、少しでも疑わしければ捨てるという作業を実行する。すると、最後には私自身が残されることになる。が、それをも疑った時、そうした疑いを抱く何ものかがなければならない。そうでなければ、疑いもなくなってしまうからだ。つまり「私は考える、ゆえに私はある」は確かである。これがデカルトの「コギト・エルゴ・スム」である。
この「考える私」を起点として、デカルトは明晰性を判断基準に神の存在、続いて、物の存在を示す。この論証は興味深いがここで立ち入る余裕はない(3)。
デカルトはこうして、考える精神から出発し、物の実在を示すことによって、近代哲学の到達点として、精神と物の二元論を確立した。
しかし、彼の近代合理主義思想がガリレオや後のニュートンなど近代科学の先駆者と
異なったのは、思索の対象を人間自身に広げたことにより、精神と物の二元論を精神と身体の二元論、すなわち心身二元論へと展開したからである。その結果、人間は動物同様な物からなる身体を持ち、考える精神だけが異なるとした。ここに、人間から精神を抜き去った身体は純粋な物質機械、つまり死物と見なす近代の身体観が始まったのである。

 

3.二元論から派生する科学技術の課題

 

心身二元論には一見奇妙な問題が現れるが、それらは一般に“心身問題”と括られ、哲学者の特殊で無益なおしゃべりのように受け止められがちである。しかし、そこにある決して特殊とは云えぬ、広い分野に跨った基本的な問題を直視しなければならない時代になったのではないだろうか。専門分化が進んだ現代社会では、広範な分野に関わる問題は、問題自体が把握されにくいのである。例えば近年、人間の精神(こころ)を身体から切り離す二元論により、身体は分子機械であるという認識が浸透し、分子生物学のような新分野が大きく進展した。確かに、二元論を元に人類は大きな科学的・技術的進展をみた。が、その二元論は決して完全ではありえず、全体としては納得されえない限界が現れる。複雑に絡み合って様々な形をとる解決困難な問題を派生するからである。以下では、科学技術に関わるそうした問題の一端を論じる。まず、デカルトの認識論に対する準備をしよう。
デカルトは、外的世界は内なる観念によって表象され間接的に知覚されるというモデルを二元論に沿って展開する際、観念が表象するものが実在の外的物体の姿を必ずしも表しているとは云えないとして、外的物体が持つように知覚される性質を二種類に分けた。一つ目は、大きさや形といった空間的に延長する物体としての性質とその運動という、第一性質と呼ばれる物自体に属する性質である。二つ目は、人間が感覚的に抱く色、音などの性質で、これは物に属するのではなく主観的な性質で第二性質と呼ばれる。
この区別から、心身二元論のいろいろな帰結が導かれるが、その前に二元論が抱える一つの科学的な困難を説明しよう。

 

3-1)知覚因果説

 

上の説明にあるように、外部の物が持つように感じられる色や匂いなどの感覚的性質は、物自身が持つ性質ではなく、心の中の表象にすぎないとされるが、ここでは、そのプロセスを考えてみよう。すると、知覚される内容は、客観的に存在する外的物体から、感覚器官を介して脳に届く神経の作用によって生じたものだ、という対応が考えられよう。つまり、私が見ている海などの風景は、私の外にある海、そこを照らす光、目という感覚器、神経さらに大脳に至るまでに関与する諸々の物質によって、精神の内部に見えている海の風景は産み出される(知覚される)のだという、因果的説明である。このデカルトの二元論に発する「知覚因果説」の考え方は、現代の自然科学でも広く受け入れられているものだろう。
ところで、この知覚因果説において精神と身体の関係に矛盾は生じないのか考えてみる。簡単化のため「鳴き声」を聞くという例にとろう。例えば、私はウグイスの鳴き声を聞いた時、その鳴き声は私の聴覚器官に入り電気信号に変換された後、伝達神経を経て大脳に到達し、適当な部位のニューロン群を興奮させることにより、ウグイスの“ホーッ、ホケキョ”という鳴き声が知覚されるだろう。生理学的な細部は問題としないことにすると、これがウグイスの鳴き声を例とした知覚因果説の説明になる。この説明にはどこか問題があるだろうか。結論を端的に言うと、“ある”のである。問題は、私が聞く「ホーホケキョ」という鳴き声と脳内ニューロンの興奮パタンが対応づけられるのかという点にある。誤解されやすいが、問題の核心は、大脳のニューロンの興奮パタンが何故、私が聞いている、あの“ホーッ、ホケキョ”という鳴き声を産むのかという疑問である。この疑問をやや緩めて、鳴き声の知覚と神経興奮パタンに対応が成立したとしても、その対応は1対1、多対1、あるいは1対多のいずれなのか、が示されているか、あるいは、これから示されるだろうか(4)。
これらの問題はおそらく未解決と思われるが、知覚因果説を巡る難問が厳しく問われるのは、人間の感性の問題である。何故なら、感性は“ホーッ、ホケキョ”という音色に独特の質感を感じとる(知覚する)からである。

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陶器: 感性は陶器から道具以上の何かを感じ取る

 

3-2)“宙吊りにされた”感性をとりもどす視点

 

第一性質と第二性質という区別は、デカルトが拓いた近代科学の基本的枠組みに端的に現れていることを確かめておこう。まず、延長する物体の持つ大きさや形などの空間的性質は実体として物が持つ性質であり、それらは数学的に精密に記述できる。一方、色や音、匂いなど、我々が日常生活の中で何か生き生きとしたものを感じたり、すばらしいと感じたりする人間の感性など広い意味の感覚は主観的な性質で、科学的対象ではない。それ故、感覚的なものは、知性や客観的科学に対する邪魔者である。
この枠組みは二元論のレールの上をひた走る現代も原理的に続き、人間の感性を含む広い意味の感覚は科学の足場を失ったまま、科学的な“宙吊り”状態なのである。
これまで、自明のように扱ってきた感性という言葉の意味を、ここで明らかにする必要があるだろう。広辞苑をひくと、感性の第一の意味は「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生じる感覚器官の感受性」というかなり問題の多い説明がある。むしろ筆者は、「感性とはセンスのこと」とした方が分り易くまた適切と考えている。というのは、従来もっぱら文系、特に芸術や哲学分野の専売だった感性は、近年“物づくり”という我が国産業の生命線とされる領域で注目され、感性工学も提案されている。要点のみを云えば、メーカーで作られるどのような製品も、市場で消費者によって選ばれるが、今日、製品の製造から消費者の選択に至る流れにおける鍵は、技術的なスペックからデザイナーやユーザなどその過程に関わる人間の感性へと大きく変化したのである(5)。この“感性”を“センス”と言い換えられるが、センスという言葉の優れている点は、感受性といった受動的性質のみならず、何かを表現する能動的能力としても使用可能であり、製品のデザイナーおよびユーザ双方が共有できることである。
センスを広辞苑で確認すると、「センスとは物事の微妙な感じを知る働き・能力」とある。このセンスの意味に沿うものは驚くほど多様である。美的センス、衣服のセンス、ゲームのセンスから科学的センスまで、センスの良さが問われる事は実に広い。
以下では、センスを手がかりに感性とはどういうものか、一つの切り口を明らかにしてみよう。
まず、「センス」の基本的働きを整理しよう。「センスが良いか」と問われるように、センスは基本的に判断と関わっている。しかもゲームのセンスに見られるように、ある特定の事物に関する判断ではなく、置かれた状況の中で全体を見て下す総合的な判断といえる。結局、センスとは、瞬時に下される全体的で総合的な判断である。元来、感覚(sense)は、外部刺激に対する目や耳など身体としての特殊感覚器官による生理的反応を意味するが、センスはそれとは対照的に精神の働きを示しているのである。このセンスが働く対象に、微妙な差異の世界として“趣(おもむき;taste)”のような世界がある(写真:陶器)。そこから、味わい深さ、品のよさといった、真にこころ豊かな広大な世界が広がってゆく。このようなセンスを“趣味判断”と考えたのは、意外なことにカントであった(6)。
ところで、私達はときに「心にしみる音楽」に出会うが、その体験で私達は、音楽を耳で聴くというより、心で味わう(と表現される)ように聴いていたのである。言い換えれば、そのとき「音に対し、聴く感覚は身体的にではなく、精神的に働いた」と云うことが出来る。その結果、微妙な音の良さを心に感じとっているとも云えるだろう。このように働く感性(=センス)は、デカルトが二元論では全く想定しなかった、身体と心を繋ぐ領域にあることを示すものと云えよう。
これまで説明した感性は、身体と精神(こころ)を結ぶ領域の精神に近い側で働く非常に知的なものと考えられる。従来から議論されているように、情動や感情を含めて考えれば、感性は身体とこころを繋ぐ線上に連続的に広がったスペクトルとなるだろう(5)。

 

4.本稿のまとめ:二つの文化の起源

 

いささか唐突であるが、英国のP.スノーは、世界には互いに相容れない“二つの文化”があり、それが社会の基底を成していると指摘している。彼は、ラザフォードが所長を勤めていたケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で物理学専攻のPhDとして研究生活をおくった。その後、事情により研究生活から転じて、行政職公務員や会社役員、文筆業などを経験した。こうした自然科学者の経験やその後の評論活動等の体験を元に、二つの文化論を唱えた。つまり、小説や音楽などの芸術に深い理解をもった人達の文化と自然科学を基礎に考える人達の文化があり、その人達は別々な言葉を使い交わることもなく、互いに足を引張りあい、いやむしろ内心馬鹿にさえしている。そうした二つの文化の離反や無理解は表立つことはないが、社会を分極化し停滞させている、と(7)。
スノーはこの文化論を半世紀以上も前に唱えたが、それは、現在我が国においてそっくり生きているように思われる。さしあたり、二つの文化を理系と文系に置き換えれば、議論の糸口になるのではないか。
ところで、スノーの二つの文化論は、自然科学の将来展望といった文脈で、著名な自然科学の研究者から取り上げられことはあるが、二つの文化の本質は一体何なのか、という事自体あまり問題にされたことはなさそうである。近代を拓いたデカルトに焦点を当てた本稿の議論からは、二つの文化が生まれた分岐点がほぼ重なっているように思える。換言すれば、心身二元論にいわゆる二つの文化の本質、とは云わないまでも、その一端が捉えられているのではなかろうか。
次稿{2}では、人間の感性の問題に典型的に見られる、近代科学技術の隠れた壁を超える新しい情報科学・技術の可能性を考察する。

 

 

文献

(1) R. デカルト、野田又夫訳、方法序説、世界の名著22、野田又夫編、pp.161-222、中央公論社、東京、1967.
(2)Y. Ueda, R.H. Abraham, and B. H. Stewart, The Road to Chaos, Aerial Press, 1992.
(3)柿本佳美、デカルト省察、近代哲学の名著、熊野純彦編、Ⅳ章―1、中央公論新社、東京、2011.
(4) 大森荘蔵、言語・知覚・世界、大森荘蔵著作集第三巻、岩波書店、東京、1998.
(5) 長島知正、感性的思考、東海大出版会、東京、2014.
(6) I. カント、篠田英雄訳、判断力批判、岩波書店、東京、1964.
(7) P.スノー、松井巻之助訳、二つの文化と科学革命、みすず書房、東京、2011.

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