お題解題

お題5

哲学的でない本質定義であれば「あるもの」にたとえば「労働者」や「消費者」といった人間(生命)を入れても、まるで心配は要らない。なぜなら「ある角度」からしか見ないから。これが経営、あるいは政治や経済。

解題

あるものの本質を哲学的に見出そうとする場合、あらゆる角度からの検討が必要だけど、俗世間でいうところのあるものの本質は、ある角度から見た本質で構わない。一つの角度で少なければ、二つでも三つでもいいが、哲学の時のようにあらゆる角度の必要はさらさらない。この俗世の本質探求であれば、「あるもの」の中に「生命」を代入してもどうってことは無い。例えば「労働者」とか「消費者」とかいう人間(生命)を入れてみればいい。経営とか政治とか経済とかいったものは、このとき、ある一つないしいくつかの角度からの方法論で、労働者や消費者の本質を洞察することになる。例えば、労働者を、機械の部品とみなしてもいいし、感情を持った生身の人間としてもいいし、会社の利益を最大化してもいいし、労働者の幸せを最大化してもいいし、社会益を最大にしてもいいし、なんでも良いが、これらをどう検討しようが、しょせんはある角度からしか労働者(生命)を捕えていないのだ、ということは分かった上で論じた方がいいと思う。

林正樹

お題4

本質の哲学定義の方の「あるもの」というところに「生命」を置くと、その「本質」がそもそも規定できるか、という大問題に発展する。サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」とか、などの哲学的問題になる。

解題

哲学で「あるものの本質を問う」という時、その「あるもの」が生命だったとき「生命の本質を問う」ということになるが、これはまことに大問題である。あらゆる角度から見たときの生命の本質を問うことになるわけだが、そもそも「生命の本質」が定めうるのであろうか、という問題にも発展する。つまり生命は本質的に自由なので、それを静的な「本質」というようなもので説明し尽そうとすること自体がおかしいのではないか、ということである。実存主義のサルトルは、物のありかたと、人のありかたの、根本的な違いを鮮やかに描いてみせた。物の場合、本質が先にあって、それゆえに存在するが、人においてはそれが逆になっている。本質などは無いまま、人は、まずこの世界に実存し、人はその本質を、自由の元に自ら作り出して行く存在である、とした。

林正樹

お題3

「あるもの」の「本質」とは、当のあるものをあらゆる角度から分析したときに、常にその結果を説明しうる「あるものの性質」を言う。世間でいう「本質」と哲学でいう本質の意味と違うところは一箇所だけ。「あらゆる角度から」というところ。世間の場合これが「ある角度から」になる。

解題

例えば、「退屈」という言葉を取り上げたとして、「退屈の本質とは何か」みたいに問うたとしよう。で、取りあえず、辞書を引いてみると「することがなくて、時間をもてあますこと」って書いてある。ここで、世間であれば、あ、そっか、そうだよな、で終了する。しかし、これをあらゆる角度から検討し始めるとたいへんなことになる。「すること」とは何なのか、一体何をするというのだ、とか、時間というのは人とシチュエーションによって伸び縮みするが、いったい「もてあます」基準はどうやって決めればいいのか、とか、際限なく問い続ける事態になることは容易に想像がつくが、これが哲学の道というわけである。そういう意味では、哲学する人は、大人のくせして、親に「なんで? なんで?」と問い続ける子供に近いと言っていいかもしれない。というわけで、哲学などというものをやっている人間は、まあ、世間的には変人に違いなく、ある意味、子供に返って世界を問い直すことができる人と言っていいかもしれない。

林正樹

お題2

調べてみたらユングの共時性など後年の心理学は、当時の心理学会では異端扱いだったそうだ。ユングは誤解されること覚悟で発表したそうだが、案の定その通りになった。

解題

ユングの共時性(シンクロニシティ)の正式な発表は、だいぶ晩年のころで、70歳を過ぎてからのようである(ユングは85歳で死去)。共時性を論じるにあたって、彼は東洋の易学を持ち出しており、そういうものが当時の西洋の学会で受け入れられるはずがないことは容易に想像が付く。簡単に言えば、それはただの偶然か、よく言って統計的観察結果であり、科学的根拠がない、というわけだ。易学で考えると分かるだろう。現在の日本であっても、科学を正しいと信奉する大多数の人々は易学など冷笑して顧みない(そういう光景を自分もずいぶん見た)。しかし、ユングのような天才が、たとえば易学に思い至り、シンクロニシティの原理を据えて世に発表した、ということは謙虚に捉えた方がいい。科学は正しい、というテーゼは現代人の信仰の一つに過ぎないのだから。

林正樹

お題1

ユングの共時性(シンクロニシティ)とは、意味のある偶然のことを言うが、ネット社会のポジティブ面に正確に適用できるはず

解題

インターネットは、恐ろしい勢いで偶然の出会いの数を増やした。シンクロニシティの応用理論はよく知らないのだが、出会いの回数が激的に増えることで、もし、シンクロニシティが起こりやすくなるのなら、僕らのチャンスはだいぶ増えていることになる。しかし、一方、人は無闇な偶然の出会いの洪水から本能的になるべく逃げようと試みるものなのだか、検索エンジンの精度が上がりSNSが進化した今は、むしろ偶然の出会いを減少させるように事情は進んでいるようにも見える。しかし、そうであっても、やはり偶然の出会いはいまだにネットに充満している。そんないま、人がネット上でのシンクロニシティを呼び込むように動きさえすれば、まさにそれはネット社会のポジティブ面として、素晴らしい世界が現出する(はず)だろうね。

林正樹