お題解題

お題15

過剰な読書により人は考えることができなくなる、とは大昔から言われていたこと。ショーペンハウエルの「読書について」って本を読むと痛快だ。本は読むな、とか乱暴なことが書いてある。

解題

ただ、ショーペンハウエルのいう所の、本は読むな、というのは重要な書を既に十分に読んだ人に対する、乱読についての警告であろう。乱読、すなわち、あらゆるジャンルを網羅した本の読み過ぎ、情報の摂取のし過ぎ、というのは人をダメにすることが多いのは確かのようだ。ただ、ここで言う読み過ぎは、常識レベルを超えていて、例えば、毎朝5時に起きて、出社するまでの3時間を読書に当て、新聞3紙を隅から隅まで読み、さらに週に2冊の本を完読する、とか、そういうレベルで、いわゆる「中毒」に相当する場合である。これを何十年も続けることで、人は本当にものを考えることができなくなる。出て来る言葉は、すべてどこかで聞いたようなものになり、何らの新しい言葉もなく、知性というもののおよそ抜け殻しか残らない。で、「知性」が形骸化すると何が残るかと言うと、へんな話だが「感性」が残る。手慣れた感性と抜け殻の知性を備えた人間が出来上がるが、それはどういう人かというと、言われるほど悪くない。「世間」というものに完全に埋もれるのだが、それゆえに、その世間の揺り篭の中で、とてもしっくりと馴染んで、落ち着く人になる。その豊富な知識と常識ゆえに地位に恵まれることもある。家族に悪影響が及ばない限り、そういう人はむしろ世間で愛される人になる。本人が凡人であることを厭わないのであれば、何らの問題もないのである。

林正樹

お題14

あるとき国の「高齢者支援技術」の計画書を見て呆れた。たくさんのポンチ絵の中で、老人が色々なシチュエーションにいて、みんな汗かいて困ってる。

解題

ポンチ絵という言葉を知っている人は、この計画書のノリを説明する必要はないであろう。ポンチ絵とは挿絵(漫画)のことであるが、計画書に添えた挿絵、あるいはパワーポイントに貼られた挿絵の中で、たくさんの老人たちが、端末を前にして困ったり、ケータイを持って困ったり、道路歩いて困ったりしている。この計画書を作っている40代、50代の人々にとってのステレオタイプな老人をモデルにしているのは明らかだが、そのせいでこの老人は一世代古い。いま現時点の老人は、こんなに困っておらず、デジタルに半分足を突っ込んでおり、これと異なる。しかも、いま、こういう大構想を練って、これからそれを実現し、それが世の中の老人を救うようになるのは十年以上後だろうが、ならば、計画段階で十年後の爺さん婆さんを想定しないといけないのに、一世代古い老人を対象にしている、ということは、合計して二世代古い老人を相手に構想を立てているということになる。あと、計画書のポンチ絵に現れるたくさんの人間たちを見ると、その登場人物は、困っているか、喜んでいるか、どちらかしか許されていない。「困っている人がこの提案で解決して喜んだ」という筋書き以外は禁止されているのだ。これほど人生というものを馬鹿にした話もない。

「まあまあ、そう言わずに。こうしないと提案が通らないんですよ」だよね? ああ、分かったよ、分かったよ。

林正樹

お題13

病草紙(やまいのそうし)はほんとにオモシロイ。「けつのあなあまたあるをとこ」とか、ほか、たくさん見ものがある。

解題

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病草紙は、絵図に詞書がついた平安時代の絵巻物である。現存しているもので、十数個の異なる当時の病気についての絵が残っている。これは、本当に見ていて飽きない。この「肛門がたくさんある男」は、今でいう病名としては痔ろうである。高下駄をはき、着物の裾をからげ、烏帽子を被った男の尻にはたくさんの穴が開いていて、糞があらゆる穴からしたたり落ちており、女がそれを覗き込んでいる。この時代の便所は、町の外れの一角の単なる広場で、人々はみなそこへ行き、高下駄を履いて、糞尿の中へずぶずぶと入り込み、そこで用を足していたのだ。現代から見るとただでさえ辛い衛生状況だが、それに輪をかけてこの男、まことに辛そうである。それから、この題名の日本語にも注目して欲しい。「けつの」と「あなあまたある」と「おとこ」という風に分けると、真ん中の「あなあまたある」が最後の「る」を除いてすべて「あ」なことが分かる。この「あ」の並びがケツのたくさんの穴を彷彿とさせるではないか(穴は六つだろうか 笑)。視覚的に尻のようすを思い描くと、左の尻から始まって、たくさんの肛門の穴があって、右の尻に終わる感じが、言葉のリズムになっている。なんとも面白い。

林正樹

お題12

ネット検索は「いま」を検索できる能力を手にしたが、「過去」を探索するという古典的な検索に、もうちょっとウェイトを置いて研究した方がいいと思う。

解題

かつては「検索」というのは、図書館で文献を探すときのように、過去に記された言葉を探す行為だったが、現代では、検索は過去を探ることだけではなくなった。情報がネットに登録されるスピードと、検索エンジンクローラーのスピードが、劇的に向上したせいで、最近のインターネットは十分に「いま」を検索できる能力を持っている。「いま」を検索できるようになると、それを材料にして論理的に「演繹」することで、「未来」は十分語れる。

しかしそれは本当の「未来」なのか。それは、この、いま現在に確定しているという意味で現在と変わらないのではないか。実際の未来には、どうしても偶然と発明が混入し、確定した未来に楔を打ち込み、あるタイミングでまたたく間にそれが解体され、何か違うものを現出させてしまう。要は、本当の意味の「未来」というのは、アラン・ケイの言うように「発明するもの」なのである。

そうなると、実は、今の情報より過去の蓄積の方が遥かに重要になる。と、いうことで、未来を発明できる賢い人になるには、地道な教養の蓄積が必要だ、という昔からありふれた結論に到達してしまう。そして、検索という技術は、「過去を自在に探索できる」ということにウェイトを置いて研究開発すると、とても面白いことが起こる、ということも言える。ただ、経済を指標にすると、「いまを検索」することはすぐに益になるが、「過去を検索」することが益になるのには通常長い時間がかかるので、それゆえに、前者に法外なウェイトがかかってしまうが、考え直した方がいいと思う。

ところで、上述の「情報がネットに登録されるスピード」が劇的に向上したことと、よく言われるように「ネットに登録された情報」が間違ったもので溢れている、ということは、かなり面白い結果を生むと思うが、これについては、また別途書くことにする。

林正樹

お題11

情報を処理する、という図式で言うと、今は情報の過多だけでなく、処理法、つまり考え方の過多も同時にあるので、情報が平滑化されるだけでなく、考え方つまり解釈法も平滑化されるところが特徴だと思う。

解題

最近は、さすがにあまり言われなくなったが、インターネットによって情報が氾濫し、情報過多で人はものを考えなくなった、というのがあった。しかし、自分の意見では、情報過多社会の重要な特徴は、情報が氾濫していることより、むしろ、その情報を処理する「考え方」が氾濫していることだと思う。それまで、たとえば常識人であれば、テレビや新聞で流布されている「ものの考え方」を踏襲してものを言っていれば、それで済んでいたし、結局のところ人は考えてものを言う、というよりは、周知されて承認済みのパターンを単に表明しているだけ、というのが多かった。一方、情報社会になって、今度は、テレビ新聞以外のさまざまなものの考え方が現れ、それらは、昔なら表に出ないマイナー評論家だったり、ブロガーだったり、ソーシャルネットの中の識者とされている人だったり、いろいろだが、あらゆる考え方が発信され用意されている。そのせいで、人々は、かつての時代より圧倒的に自分の考えを表明するようになった。しかし、みなが考えるようになって、社会が進歩したように見えているけれど、実はそれは見かけだけで、全体として見ると実に平板な考えの集約に感じられないだろうか。なんだか、大量の情報を入力にして、大量の処理法(考え方)を適用すると、あらゆる組み合わせが可能で結果が分散するせいで単なる白色に帰しているんじゃないか、と思えるほど、むしろ、ユニークな考え方や個性的表明が、全体として減ったような気がする。今は「情報」も「考え方」も大量にある時代だが、自分としては、情報がほんの少しで考え方がたくさんあるか、あるいは、情報が大量で考え方が少し、という状態の方が良いように思える。

林正樹

お題10

大人は何もしなくても生きていける、ってどっかで読んだけど、なるほどな。子供は何かしてないと生きていけない。たかが砂場に穴掘るだけでも真剣そのものだ。

解題

一見逆じゃないかと思えるこの話。だって、大人は常に仕事をして義務を果たしたり、意識的に何かをしていないといけないけど、子供は何にもせずぼけーっとして鼻くそほじってぼんやりしていても文句も言われないし、と思うだろうか。僕は逆だと思う。大人になると「なんにもしない時間」というのは、正味なんにもしていないんであって「無い」と同じだと思うんだよね。あるいは、まったく予測可能な仕事(ルーチンワークと言ったりするもの)をしているとき、それは、体が動いているという意味で、はたから見ると何かしているように見えるけど、その人にとっては何もしていないのと同じ。それに対して子供は、ぼんやりと何かを見ているときでも、常に新しいものに囲まれてそこに何か新しい発見をし続けている。砂場で遊んでいる子供の顔を見てみるといい。真剣そのものだ。作ったものを壊して去って行くときだって真剣そのもの。子供は常に意識的。それに対して、予測可能なものに囲まれる大人はその多くの時間を無意識で過ごしている。無意識の期間は、その人の体感時間に繰り入れられないから、時間経過はゼロ。だから、歳を取ると、時間が経つのがあれよあれよと速くなる。その事実が、このことを証明しているようなものだ。

林正樹

お題9

ゴッホの絵にも巨大過ぎる調和による浮遊感を漲らせたような画布が、ある。サンレミの囲いのある土地に昇る日の出の絵とか。

解題

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ドストエフスキーは癲癇持ちだった。で、その彼が書いていたが、癲癇の発作には予感のようなものがあるらしく、発作が起きる直前の数秒間に、この世のものとも思われない調和と幸福の瞬間が襲ってくるそうだ。人はその幸福の、あまりの巨大さに肉体的に耐えられなくなり、そのせいで絶叫して倒れる、という。この恐ろしいほどの巨大過ぎる調和というもの、いろいろな芸術作品に見て取れると思う。特にゴッホの絵画の中には、そのようなものが多い。たとえば、このサン・レミの囲いのある土地に昇る日の出の絵は、そのような独特な浮遊感に満ち溢れているように自分には見える。ゴッホの病理には諸説あるのだが、癲癇的な症状が見られると、どこぞの精神科医が書いているのを読んだことがある。僕は、精神医学的にはすこぶる正常で、その、絶叫して倒れてしまうほどの恐ろしい調和をそのまま体験できないが、彼の絵を見ていると、その十分の一だか、百分の一だかは、感じとることができ、これは実際、自分にとっては非常に重要な経験である。感じで言うと、十分の一を感じる時は、その経験時間が短く、1、2秒だったりするが、百分の一まで薄めると絵を目の前に一分間ぐらい陶然とした状態が続くことがある。強度と時間は反比例しているらしく、強度が強いままの状態が続くと、やはり、ドストエフスキーのいうように、耐え切れずに意識が崩壊するのであろうか。本当に不思議なことだが、これは芸術を理解する一つのキーと言ってもいいと思う。

林正樹

お題8

たとえば「罪と罰」を20回読んだから頭がおかしくなったのか、頭がおかしいから罪と罰を20回読んだのだか、分からない。と、いうか、これは同じことを言っている。

解題

罪と罰はロシアの作家ドストエフスキーの長編小説だが、自分はこれをたしかに、のべで20回は読んでおり、しかも、彼の同じく長編の、白痴、悪霊、カラマゾフの兄弟、もそれぞれ20回ずつ以上は読んでいる。ここまで何度も読むと、その本が、好きとか、影響を受けたとか、ためになったとか、人生の指針になったとか、そういういわゆる人間的な常識的な付き合い方から逸脱してしまう、ということを、自分はこの自分のドストエフスキー狂いから習った。彼の小説を読み過ぎることと、自分のものの考え方がおかしいことは、いわゆるにわとりと卵みたいな問題だが、ここに書いたように両者は自分にとって一体化してしまっているせいで、もっぱら自分は、にわとり卵の問題は、問題自体がバカげている、という立場を取っていたものだが、最近、ちょっと変わった。彼の小説は、自分にとっては「食物」ではなく「爆弾」だった、と思うようになった。食物は成長の糧となるが、爆弾はとりあえず粉微塵にして人をカオスに陥れる。そのカオスから何か意味のある血肉を得て、成長して、そして今の自分がある、と考えるようになった。ただこれは危険なやり方だと思うので、お勧めしない。やはり、良質の食物を摂ってすくすくと成長した方がいい。それにしても、我ながら何が言いたいのかはっきりしない。解題にならなかった、失敬。

林正樹

お題7

「完全な官僚」に欠けているのはおそらく「産む苦しみ、生きる苦しみ」、コレである。というわけで、仏教には向かない。いや、一般に宗教には向かない。

解題

完全な官僚とここで言っているのは、僕流の官僚の定義で「入力と出力を持つ箱において、入力に対し最適な出力を得る性能、常に性能に変化がない定常性、さらに、入力の種類によらず同等の性能が出せる適応性、の3つを満足する箱を完全な官僚という」のこと。この通りだとすると、官僚というのは、杓子定規でお堅くて融通の利かない人材と正反対ということになる。世間ではふつう、官僚という言葉を聞くとお堅いイメージを持つけれど、ぜんぜん逆なのだ。実は、これは、僕の経験から言っている。今まで何度か官僚的な人と付き合ったことがあって、その観察の結果なのである。僕が付き合った限り、官僚な人って、常に元気で、明るく、活動的で、極めてフレキシブルで、一緒に遊ぶとすごく楽しい人たちなのだ。でも、何かが決定的に欠けているのは確か。それが、ここで言っていることだ。生きる苦しみ、つまり、この世の中に生きて社会生活している人だったら誰でも持っているし、感じるところの、苦しみ、理不尽に対する苦痛、忍耐の苦痛、といったものがきれいさっぱり無いのである(少なくとも無いように見える)。もっとも、だからこそ、前述の官僚の定義を満足することができる、とも言える。特殊な人たちで、そんなにたくさんはいないと思う。

林正樹

お題6

過去というものが、将来、完全に可視化されるのではないかと思うことがある。Twitterをやってるとそんな気がしてくる。未来はイタコを使う代わりにSNSを使う。デジタルイタコ、電子イタコ、電脳イタコ等々。

解題

単純に考えても、こうしてSNSで自分のログを丁寧に残していれば、その情報に、最新のビジュアル技術を組み合わせて、過去のそれなりの可視化はできるだろう。過去の死んでしまった人と話ができるイタコということになると、もうこれは今でもできる、と言っていいんじゃないか。その人がSNSに大量の文を残していれば、それを学習データとして電脳イタコを学習させる。使う時は、その電脳イタコにしゃべりかけると、もっともありそうな返事を返してくれる、というわけ。非常に見通しのよいシステムなんで、ひょっとすると誰かやっているかもしれないが、SNSが流行ってまだ十年足らずなんで、本格電脳イタコの養成には、人生70年としてもまだだいぶ待つ必要があるかもね。

林正樹

お題5

哲学的でない本質定義であれば「あるもの」にたとえば「労働者」や「消費者」といった人間(生命)を入れても、まるで心配は要らない。なぜなら「ある角度」からしか見ないから。これが経営、あるいは政治や経済。

解題

あるものの本質を哲学的に見出そうとする場合、あらゆる角度からの検討が必要だけど、俗世間でいうところのあるものの本質は、ある角度から見た本質で構わない。一つの角度で少なければ、二つでも三つでもいいが、哲学の時のようにあらゆる角度の必要はさらさらない。この俗世の本質探求であれば、「あるもの」の中に「生命」を代入してもどうってことは無い。例えば「労働者」とか「消費者」とかいう人間(生命)を入れてみればいい。経営とか政治とか経済とかいったものは、このとき、ある一つないしいくつかの角度からの方法論で、労働者や消費者の本質を洞察することになる。例えば、労働者を、機械の部品とみなしてもいいし、感情を持った生身の人間としてもいいし、会社の利益を最大化してもいいし、労働者の幸せを最大化してもいいし、社会益を最大にしてもいいし、なんでも良いが、これらをどう検討しようが、しょせんはある角度からしか労働者(生命)を捕えていないのだ、ということは分かった上で論じた方がいいと思う。

林正樹

お題4

本質の哲学定義の方の「あるもの」というところに「生命」を置くと、その「本質」がそもそも規定できるか、という大問題に発展する。サルトルの有名な「実存は本質に先立つ」とか、などの哲学的問題になる。

解題

哲学で「あるものの本質を問う」という時、その「あるもの」が生命だったとき「生命の本質を問う」ということになるが、これはまことに大問題である。あらゆる角度から見たときの生命の本質を問うことになるわけだが、そもそも「生命の本質」が定めうるのであろうか、という問題にも発展する。つまり生命は本質的に自由なので、それを静的な「本質」というようなもので説明し尽そうとすること自体がおかしいのではないか、ということである。実存主義のサルトルは、物のありかたと、人のありかたの、根本的な違いを鮮やかに描いてみせた。物の場合、本質が先にあって、それゆえに存在するが、人においてはそれが逆になっている。本質などは無いまま、人は、まずこの世界に実存し、人はその本質を、自由の元に自ら作り出して行く存在である、とした。

林正樹

お題3

「あるもの」の「本質」とは、当のあるものをあらゆる角度から分析したときに、常にその結果を説明しうる「あるものの性質」を言う。世間でいう「本質」と哲学でいう本質の意味と違うところは一箇所だけ。「あらゆる角度から」というところ。世間の場合これが「ある角度から」になる。

解題

例えば、「退屈」という言葉を取り上げたとして、「退屈の本質とは何か」みたいに問うたとしよう。で、取りあえず、辞書を引いてみると「することがなくて、時間をもてあますこと」って書いてある。ここで、世間であれば、あ、そっか、そうだよな、で終了する。しかし、これをあらゆる角度から検討し始めるとたいへんなことになる。「すること」とは何なのか、一体何をするというのだ、とか、時間というのは人とシチュエーションによって伸び縮みするが、いったい「もてあます」基準はどうやって決めればいいのか、とか、際限なく問い続ける事態になることは容易に想像がつくが、これが哲学の道というわけである。そういう意味では、哲学する人は、大人のくせして、親に「なんで? なんで?」と問い続ける子供に近いと言っていいかもしれない。というわけで、哲学などというものをやっている人間は、まあ、世間的には変人に違いなく、ある意味、子供に返って世界を問い直すことができる人と言っていいかもしれない。

林正樹

お題2

調べてみたらユングの共時性など後年の心理学は、当時の心理学会では異端扱いだったそうだ。ユングは誤解されること覚悟で発表したそうだが、案の定その通りになった。

解題

ユングの共時性(シンクロニシティ)の正式な発表は、だいぶ晩年のころで、70歳を過ぎてからのようである(ユングは85歳で死去)。共時性を論じるにあたって、彼は東洋の易学を持ち出しており、そういうものが当時の西洋の学会で受け入れられるはずがないことは容易に想像が付く。簡単に言えば、それはただの偶然か、よく言って統計的観察結果であり、科学的根拠がない、というわけだ。易学で考えると分かるだろう。現在の日本であっても、科学を正しいと信奉する大多数の人々は易学など冷笑して顧みない(そういう光景を自分もずいぶん見た)。しかし、ユングのような天才が、たとえば易学に思い至り、シンクロニシティの原理を据えて世に発表した、ということは謙虚に捉えた方がいい。科学は正しい、というテーゼは現代人の信仰の一つに過ぎないのだから。

林正樹

お題1

ユングの共時性(シンクロニシティ)とは、意味のある偶然のことを言うが、ネット社会のポジティブ面に正確に適用できるはず

解題

インターネットは、恐ろしい勢いで偶然の出会いの数を増やした。シンクロニシティの応用理論はよく知らないのだが、出会いの回数が激的に増えることで、もし、シンクロニシティが起こりやすくなるのなら、僕らのチャンスはだいぶ増えていることになる。しかし、一方、人は無闇な偶然の出会いの洪水から本能的になるべく逃げようと試みるものなのだか、検索エンジンの精度が上がりSNSが進化した今は、むしろ偶然の出会いを減少させるように事情は進んでいるようにも見える。しかし、そうであっても、やはり偶然の出会いはいまだにネットに充満している。そんないま、人がネット上でのシンクロニシティを呼び込むように動きさえすれば、まさにそれはネット社会のポジティブ面として、素晴らしい世界が現出する(はず)だろうね。

林正樹