人々が感動するものは何か

~コンテンツ研究の可能性と困難を巡って~

林 正樹

まえおき

 

先日、御茶ノ水のとある会館のホールで「感性と画像」と称した研究会が催され、行って来た。ホールは120名入る広さだったのだが、時間をちょっと過ぎて到着して中に入ってびっくりした。広いホールがほぼ満員なのである。テーマは、「本能直撃の映像」「人は何を持って高級と感じるか」「色彩によるイメージのとらえ方」などそれぞれの角度から感性を扱った講演が行われていた。驚くべきは、技術者たちのこの手の事柄に対する関心の高さである。興味本位だけではこれだけの人数は集まらない。やはり、みな、何らかの突破口のようなものを求めてこういった「柔らかいテーマ」のもとにやってくるのだろうか。

ご承知のとおり、コンピュータから情報機器、家電から何から何まで、いわゆる「機械」の機能と完成度は非常な勢いで向上しており、もう使う人がついて来れないのではないか、というところまで来ている。しかし、もうそこに暮らす我々は、あまりにこの状況が社会に浸透しているせいで、ひと昔前に言われたような、技術の進歩による人間性の疎外などという面倒な反省はあまりしなくなったように思う。たとえば、ケータイにカメラがついて発売されて売れ始めれば、人々はあっという間に順応し、いちいちその弊害について云々するなどという古臭いこともしないようである。

これがそれほど悪いことだとは思わないのだが、さて、それら機械を作っている技術者の方は大変だ。考えうる限りの技術を投入して、性能と機能を最大限に追及し、日々負けじと革新を継続しているわけだが、ここまで進歩が進むと、さらにその「次」の進歩をものにすることが容易でなくなってくる。むかしは、改良すべき「機能」のリストがはっきりしていたので、それに沿ってがんばれば少なからず進歩を産み出せるというシンプルな事情があった。例えば、テレビだったら、白黒、カラー、ハイビジョンと、いわゆる解像度やSNやダイナミックレンジの総合として画質を追求すれば、それは「進歩」と「ニーズ」に直結していた。しかし、今では、もうそういった改善も限界に近づいていて、そこで、何らかのブレークスルーが必要だ、と思い始めているのではないか。

ブレークスルーといえば、少し前から世界的にも爆発的に流行っている任天堂のWiiがある。複雑化の一途を辿ってきたゲームを、あのハンドヘルドのユーザーインターフェースを使ってふたたび家庭の家族みなが参加できるゲームに戻したことが、その功績の要点だと思う。まさに、ブレークスルーである。しかし、技術的に言うとあのタンジブルユーザーインターフェースは別に新しくはなく、綿々と研究されてきたし、随所で世の中にも出ていた。それでは、あの華々しい成功の本当の要点はどこにあるのか、それが、みなの知りたいところであろう。その科学的根拠が特定できれば、それを再現して成功する道も開けるだろう、と思うわけである。

たぶん、そんな状況の中で、ここ最近、「感性」というものが再びクローズアップされてきたのだと想像する。「人はどう感じるのか」ということが科学的に解明できれば、その分析結果を応用して人に「受け入れられる」機械を設計して、提供することができるはずだ、それは人の感性の法則にのっとって作られたものだから、高い確率で「受ける」はずだ、そうなれば、それがとりもなおさず「ブレークスルー」だ、ということになるだろう。すこぶるまっとうな考え方で、今度は「感性」の研究に走ってみよう、さて、その感性の研究会が開催されているから行ってみよう、はい、行ってみた、聴いてみた、しかし、結果は、うーん、やはりよく分からない。これを一体どうやってモノつくりに生かせばいいのか…

延々と当たり前のことを書いたが、実は、書いている私がその「じゃあ、一体どうすればいいのか、わけがわからん」の一員なのである。と、いうことで、本稿の長い前置きは終わるが、「人々が感動するものは何か」なんて、その科学的知見などというものを私も持ち合わせていない。本稿が、読んでくださっている方への何らかのヒントになることを望んではいるが、ひょっとすると、さらに事を厄介にして、ワケがわからん状況にしようとしているのかもしれない。と、いう「言い訳」を先に書いておいて、それでは本題に入ってみようと思う。「人が感動するというのは何か」ということである……

 

人と感動

 

半年ほど前に、感性関係のとある研究会が開催され、作曲家、録音のプロ、医療関係の方、デザイナーの方、とさまざまなジャンル、異業種の方が会した楽しい催しがあり、私も日ごろ考えていることなどしゃべったことがあった。その中で、「感動」についてあれこれ語った箇所で、こんな図を出した。

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「なにかが、人に、感動を与える」という図式である。たとえば、「美しい花が、人に、感動を与える」というわけだが、あれこれ話しているうちに、なんだか、この図は違うように思えてきて、「こうじゃありませんね、こうですね」と矢印を逆にしてみた。

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そうすると、皆も、この後の図の方がすんなりと納得できるような反応だったように思われた。すなわち、「人が、花に、感動する」のではないか。

感動、というのは、受け取るものではなくて、その当の対象に対して人が入り込んで行くものだ、という考え方である。たしかに、我々が何か対象に感動する瞬間というのをなるべく正確に思い起こしてみると、その対象の持っている何かが自分のところにやってきた後に、今度は自分の方がその対象の方へ入って行き、ほんの短い時間かもしれないがその対象と自分の心が一体となって、その独特の感じが「感動」というものの姿だ、と映るものだと思うのだが、いかがだろう。感動の時間というのが、そうそうは長く続かない、というのも考えてみると不思議ではないか(ただし若いころはこれがかなり長く続く)。やがて、それもかなり早く、人はその異常な感動の渦から出てきて、あっさりと日常へ戻ってしまう。それに、あの暑苦しい感動の時間というものが必要以上に長く続いてしまったら、これはたまったものではない、どっと疲れるであろう。そして、その感動の体験は、心の帳面に記述され、いわゆる「思い出」となって、疲労を伴わずに思い出して鑑賞できる外的な対象として「美化」される。ざっといって、こういうメカニズムだと自分は思っている。

ちょっと脱線したが、言いたかったのは、この図の矢印の方向のことである。われわれ技術者がこれまで仕事の中で指標にしてきた情報伝達の図は、「対象を、伝送して、再生して、人に提供する」、と、こうである。私も、先の講演の中でやはりこの技術者的な考え方にしたがって、対象が伝達され感動を与える、という風に図を描いたのであった。しかし、これは、先に考えた「対象と人と感動」のメカニズムと逆方向を向いている。伝送の図式を使って「感動」をユーザーに与える、というのは、どこか決定的に間違っているのではないか、あるいは、ひょっとすると「感動」というものは伝送できない「なにものか」なのではないか、などなど、そんな風に思えてくるのである。

 

廣松渉の哲学

 

今から半年ほど前、たまたま立ち寄った小さな駅の周辺をうろうろしているとき、小さな古本屋があったので入ってみた。そこで、たまたま目にしたのが「新哲学入門(1)」という本で、なんだか安易なネーミングだなあ、と思いつつ手にとってパラパラ見てみると、文体が古風でけっこう面白そうだ。筆者は「廣松渉」とあり、自分は聞いたことのない人であった。ま、いいかと、二百円だかで購入した。それで読んでみたのだが、これが面白かったのである。こういう偶然の出会い、というのはいいもので、今までもずいぶんそんな「出会い」が自分の役に立ってきた。まあ、それはいいとして、何が面白かったか、である。

それでは、ちょっと、ここでその内容の一部を自分なりに紹介してみようと思う。哲学が技術者の役に立つかどうかは、わからない。直接役に立つということはあまりなさそうだ。しかし、これまで語ってきた「技術は次に何をすればいいのか」、「感動は伝送の図式から外れているんじゃないか」といった命題に、この廣松渉の哲学が実によくフィットするようにも思えるのである。もっとも、フィットしたからといって、それが解決できるわけではないことは、これもあらかじめ断っておく。

さて、彼の本の最初の要点は、「人が認識するとはどういうことか」である。ここで彼は、人が認識するときのモデルとしての「三項図式」というものを徹底的に退けるのである。ではこの三項図式とは何だろう。

まず、それでは、人がものを認識するとは、どういうメカニズムだろうか考えてみる。たとえば、いま自分の目の前にはコーヒーカップがあるが「ここにカップがある」と、人はどうやって認識するだろうか。ごくごく常識的に考えると、まず「物理世界にカップがそこにある」、そしてそこに目を向けると「カップから反射した反射光が自分の目に入ってきて網膜に倒立像が結像する」、それが脳に刺激として伝達され一種の心像になる、それが、そのときの脳に宿る「意識の働きによってこの心像が解釈されてカップとして認識される」、と、まあ、こういう道筋を辿ると思われるだろう。

「対象から刺激が来る~心象ができる~それを意識が解釈する」、という認識のモデルを三項図式と呼んでいて、もっとわかりやすくは、いわゆる「カメラ・モデルの知覚観」と呼べる。われわれ技術者には非常に分かりやすい図式で、先に触れた伝送の図式もみな、このような箱から箱へ矢印を描いた図式で理解されていた。この、ほとんど「自明」とも思える三項図式を、廣松渉は間違っていると断ずるのである。「え、なにを言っているんだ、それはマイナーないち哲学者の廣松渉という人の非一般的な仮説だろう」という反応もあるかもしれないが、哲学をいくらか知っている方なら、この廣松渉の説は珍奇な説ではなく、現代哲学の方向性にも合致していることに気づいておられるだろう。

さて、続けよう。彼は、この三項図式からは、対象物を人が「本当に認識する、そして、ひいては対象物が本当に存在する」という結論がどうしても出てこないことをひとつひとつ説明して行くのである。この説明を辿って行くのは大変だし、私自身もすべて正確に理解しているわけではないので、ほんの要点ていどに描いてみよう。

ふつう、おそらくもっとも素朴には「モノがある」、というのは物理的な事実で、まず我々とは関係なくモノというものが存在している。そして、そのモノを知覚と心象と意識化によって認識している、と、こう考えるだろう。いわゆる素朴な唯物論である。しかし、これはちょっと考えると変である。というのはひとつのモノを二人の人が認識しているとき、各々の人の心象にこのモノは投影されるだろうが、それは通常一致していない。ひとりはコーヒーカップと思い、もう一人は白い鉱物と思うかもしれない。結局、モノというものを唯一無二の存在と保証できる人はいないことがわかる。

そうなると各自の心の中の心象こそが、モノがあることを保証しているのであって、もっと極端には、そもそもモノが本当に物理的に存在しているか否かには用は無くなり、各自の心象こそが存在のすべてだ、という、今度は逆の極端に振れてしまう。いわゆる素朴な観念論である。さて、実は、いま三項図式の検討で問題になっているのがこの観念論における心象の扱いなのである。モノの存在というものは心象である、としてしまうと、今度はその心象を宿している自分自身の身体も心象の産物ということになってしまう。そうすると、今度はその心象を宿している心象をこれまた宿しているのは誰か、と循環してしまい決着がつかなくなる。こういう循環の埒外にいる動かせないスーパー存在者を仮定しなければ、少なくとも認識の問題は片がつかなくなってしまうのである。

それでは、心象がすなわち世界である、とはせずに、心象が世界を作り出し、それが物理的に存在するモノに対応している、という説が出てくる(投射というそうである)。カメラモデルを採用していれば、これはうまく行きそうだ。視覚でいえば、網膜に写っている像は、光学の法則に則って遠近法になっていて、それが物理世界のモノの存在と一対一対応していることになる。これは、いわば「測定」によって、万人が認めるモノの実在を保証することに似ている気がする。しかし、ここで廣松渉は面白いことを言っていて、網膜に映っている「像」は、解剖学的に言って、人が眼球を抉り出して、そこの網膜と称する部分に像が写っていることを、われわれ生きた人間の「眼」によって見ているだけで、「像」というものは知覚のメカニズムの中には存在しない、と言うのである。

えー? といいたくなるところだが、こういうわけだ。網膜の後ろには視神経があり、それが脳へとつながっているわけだが、「像」という実体を視神経が「見て」いるわけではない。結局、網膜の上の「像」というのを「像」だと「見て」いるのは外部にいるわれわれであって、視神経や脳が「見る」わけではない。そう主張するには、視覚のメカニズムの中に、「視覚を持った小人」を潜ませなくては説明できない。もちろん網膜の上に「ある光化学的な状態」はできあがっているが、それが「像」として存在するというのは間違っている。と、こう言うのである。

なかなか理解に苦しむところだが、何度も反芻すると分かってくるのである。さて、いい加減に読まれている方もうんざりしてきたかもしれないので、この辺でまとめるとこういうわけである。

結局、三項図式で人がものを認識する、という考え方によると、モノを認識するにはまず知覚機能によって「心象」を作り、これを意識が認識するという経路を辿らなければならず、人がモノを直接に認識することはできないことになる。あくまでも認識できる対象はこの「心象」だけ、ということになってしまう。そして、その心象を認識する各自の「意識」はそのつどそのつどの心の状態によりはなはだしく変わるので、結局対象のモノと一対一対応はほとんどしていないことになる。結局、これらのことから、モノという対象を本当に知ることは不可能である、という結論に至る。さらに、この三項図式によって他人を認識しようとしたとき、そのとたんにそれは「私の意識」に変換させられてしまうので、自分にとって他人の意識はまったく未知なもの、ということになってしまう。

いったい、何を言っているんだ、だから哲学なんていう屁理屈を並べる輩は厄介なんだ、という声が聞こえてきそうだ(笑)。だって、たとえば、みんなでビールを飲んでいるときに目の前にあるアタリメは、いくら酔っぱらって各自の心的状態がでたらめでも、みなが共通に問題なく認識している「アタリメ」じゃないか、それが不可知だなんて馬鹿げている、と、こう言いたくならないだろうか。しかし、ちょっと待った。「それだから」そんなばかげた結論になってしまう「三項図式」というものが間違っている、と言っているのである。カメラモデルは一方で非常に常識的で、自明な事実のように見えるのに、実はよくよく考えると、このような道筋を経て、われわれの常識と矛盾してしまうのである。

さて、それでは、この話が、お題の「人々は感動をどう感じるか」と、どうかかわるのかについての話に移ることにしよう。

 

感動と工学と

 

さて、廣松渉の言っていることを紹介したが、これは当然ながらほんの序曲に過ぎず、三項図式を退けた後に、ではいったい人が認識するとはどういうことか、モノが存在するとはどういうことか、人々が実践するとはどういうことか、という哲学的考察が延々と続くのである。しかし、さしあたり自分としては、この序曲で否定された三項図式なるものが、私たち技術者にとってみれば長年信じられ、保証されてきた重要な方法論のひとつに相当するように見えることをネタにして進めることにする。映像伝送で言えば、対象を撮像して、信号に変換して伝送して、それを復号してディスプレイする、という当たり前な図式は、伝送の図式として長年使われてきたモデルである。あるいは、「研究をする」ための方法論であっても、対象を分析し、仮説を立て、実験し、検証し、評価する、という同じような図式をたてることはとても常識的なことである。

それから、この三項図式のように、役割を分割して、その間を矢印で結ぶことは工学にとってはとても重要なことだ。この操作により、各々の箱を担当する人間が分業できる、ということ、そして自分の仕事と直接関係しない箱はとりあえずブラックボックスとして考えて自分の仕事を進められるということ。そして、これらの箱の入力と出力の特性(伝達関数)をきっちり規定しておけば、どんな信号がこの図式を通ろうが、理論によって保証された「性能」と「再現性」が得られるということ。これらは、まさに「工学的」な事情である。逆に、この図式の存在によって工学はここまで発展してきたとも言えるのではないだろうか。

私は、この図式では、どうしても「捉えることのできない」工学的研究対象というものが無数にあるはずだ、と思っている。先に書いたように、どうもこういう古くからの方法論だけではいかんともしがたいテーマがさいきんどんどん増えてきたように思う。その最たる例が、インターネットを中心に爆発的に広がって混乱に近い様相を呈しているコンテンツの世界である。入力があって出力がある、という図式ではどうにも説明のつかない怪現象が平気で起こるのがコンテンツの世界で、これまで工学者が使い慣れてきたこの三項図式的な方法論はどうやら通用しなさそうだ、とさすがに工学者たちも気づき始めた観がある。

そして、本稿のテーマである「感動」だが、この感動を扱う、ということになると、どうやらこの図式の有効性はさらに怪しくなって来る。先に、感動というのは人が対象に入り込んで感じるものだ、ということを書いたが、まさに、それは前述の廣松渉の哲学で展開されていた三項図式の否定に近いものだ。すなわち、三項図式だけでは人は感動しないのである。三項図式では、対象となるモノを直接「分かる」ことはできない。では、人は、対象となる「モノ」に永遠に到達できないか、というとそんなことはない。我々は「モノ」をじかに知る能力を持っている。「感動」という言葉は明らかにその不思議な能力の世界に属している。「モノ」をじかに知るためには、人がモノに入り込んで一体化する必要があるようなのだ。その一体化した短い時間に、モノはその人だけに、その秘密を解き明かせてみせるのだと思う。

自分の例で言えば、自分は1985年に上野の国立美術館で開催されたヴァン・ゴッホ展を見てその後の人生観が変わるほどの強い印象を受けた。この話はまた別の機会にしてみたいのだが、かの有名なゴッホの絵は、おそらくみなさんにも親しい絵柄であろう。彼の絵を見ると、たとえば、草木の姿が、波打ってねじれる肢体のようにくねっている。僕らが実際に眼で草木を見るとああいう風には見えない。しかし、草木が隠しているその本当の姿に自分が入り込むと、草木はまさにああいう風に「感じられる」のが分かるのだ。あれは、決して、精神を病んだゴッホの特殊な心的状態が作り出した創作ではないのだ。あれが、草木というものの存在の持つ意味のひとつの姿なのである。その姿を見るためには、自らが草木と、自然と、一体化しないと無理である。ゴッホの精神病は、その「一体化」という行為を止むなく彼に強いたのだ、というのが本当の事情だと思う。

さて、三項図式的な方法論では解決できなさそうな課題が増えてきた今、今度は一体どんな方法論で立ち向かえばよいのだろう。ひとつ言えそうなことは、一度、この、われわれに親しいかの図式を放棄してみるのはどうか、ということである。そして、もう一度、そもそもの「技術」のおおもとである「ものづくり」に戻ってみるのである。何を言っているかというと、仕事の全体を箱と矢印に分けて図式化するのを一時停止して、むかしの技術者たちがやったようにモノと道具にまみれて手作りすることを意識的やってみるのである。

なんでこんなことを言うか、なのだが、たとえば、ある映像音声コンテンツを伝送して受け手に送ることを考える。これまで言ってきた三項図式によると、コンテンツを信号にして、伝送して、再生して、受け手に提示する、という流れになる。さて、ここで受け手が「感動」したとしたとき、その「感動」は、この映像音声伝送装置の中を余すことなく通り抜けて到達したのだろうか。もしそうならば、この映像音声伝送装置の入出力特性を完璧に1対1に設計してチューニングすることで、「感動」はあっさりと受け手に伝わる道理になる。しかし、それだけでは「感動」という状況は生まれそうにない、ということはほとんど常識に属している。すなわち、この箱と矢印の外側に、人がいて、社会というものがあり、そこでの記憶というものがあり、当のコンテンツと受け手の間の共感のようなものがあり、それで初めて「感動する」という状況が生まれると考えられるからである。

それはコンテンツ制作屋と受け手の間の不定形な関係の話で、情報ソースを間違いなく歪みなく送り届ける伝送を仕事にする技術屋の仕事じゃないんじゃないか、とは言えるだろう。しかし、本当にそうなのか。すでに私たち技術屋の仕事は、そのコンテンツ制作とユーザーの間の不定形な関係のようなところまで大々的に踏み込んでいる。例はいくらでもあるが、コンテンツ制作の研究やユーザーインターフェースの研究などはまさに「そのもの」であろう。そうなったとき、図式の箱の外に広がる有象無象がうごめく世界を相手にしなければならないこと必定となるわけで、われわれ技術者がまず指標にできることは昔ながらの「手仕事」なのではないか、と思えるのだ。

 

おわりに

 

さて、そろそろ紙面も尽きてきたので、雑駁なお話はこの辺にする。哲学も含めて、以上の事柄は本当はもっと丁寧に議論しないといけないはずのものだろう。抽象的過ぎて具体性が欠けているかもしれないが、自分としてはやはりこういう思索をしながら、迷いに迷いながら、工学について考えて行きたいと思っている。というのは自分の仕事の専門がまさにこの、コンテンツと感動と工学の問題そのものだからである。これらについてあれこれ悩んでいるときに、ちょうど学会から「人々が感動するものは何か」というお題をいただいたので、思っていることを書いてみた。

これは、自分の考え方なのだが、「感動」というのは「再現しない」と思う。もっと言うと、この世界では一度として同じことは起こらない、ということである。単細胞のアメーバであっても、地球の全歴史の中で、ある個体があるときに取る「形」は二度と再現しない。この事実は、自分には何となく感動的で、実は生きていることの感謝を想わせるのだが、再現しない当の理由は単純で、それは、世界がアナログで出来ているからである。実はアナログとデジタルの問題も標本化定理だけではどうにもならない、ある溝があるような気がしていて、そんなことも一度真剣に考えてみないといけない。感動という厄介なものは、どうやら論理や図式やデジタルが必然的に持っている隙間からするするとこぼれ落ちてしまう、そんな印象を、自分は持っている。

さて、感動とか、三項図式とその否定とか、アナログとデジタルの問題とか、インターネットコンテンツによる情報の爆発とか、自分にはすべてつながっているように感じられるのだが、それをまだきれいに整理することができていない。いずれにせよ、こういう「柔らかい」話題を、技術の世界でもっと議論することが必要だと思うし、そうなって欲しいと思う。

 

 

1) 廣松 渉:「新哲学入門」、岩波新書(1988)

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